第140話 消えた火
表彰式は決勝が終わって二十分後にコートの中央で始まった。
夜のメルボルンはまだ三十度を超えていて、スタンドの人々はプログラムを団扇代わりにして顔を扇いでいた。
準優勝のスピーチは万能型からだった。
スタッフへの礼。ボールを拾った子どもたちへの礼。観客への礼。
最後に一言だけ勝者の名前を出して、おめでとう、と言った。
全部で四十秒に満たなかった。
ニューヨークの表彰式では、この男はもっと長く話していた。
最後には少しだけ笑って、また来年、とも言った。
万能型はスピーチのあいだ一度もこちらを見なかった。
俺は五歩ほど離れて、視線が来るのを待っていた。来なかった。
俺の名前が呼ばれる番になった。
カップは銀色だった。両手で持つとずしりと重い。
三年前に持ったのと同じ重さのはずなのに、今年は持ち方が分からなかった。
表彰式が終わって、ロッカールームへ続く廊下を歩いた。
コンクリートの、低い天井の廊下だった。蛍光灯が等間隔に並んでいる。
遠くでまだ客席の歓声が聞こえていた。
先を歩いていた万能型が廊下の途中で足を止めた。
ラケットバッグを肩にかけてこちらを向いた。
灰色の目がようやく俺を見た。
廊下には二人のほかに誰もいなかった。
台車を押したスタッフが、少し離れたところで曲がっていった。
この男が言うはずの言葉があった。
ニューヨークでは言った。次も、やろう、と。
十一月のロンドンでは何も言わなかったが、あれはたまたまだと思っていた。
あの言葉は今も耳のすぐ近くに残っている。
万能型が右手を出した。
握手をした。
初めて当たった夜は冷たい手だった。九月の夜は温かかった。
今日の手は乾いていた。冷たくも温かくもなかった。
強く握るでも弱く握るでもなく、ただ、手と手が決まった時間だけ、触れていた。
次も、と言うのを待った。ほんの二秒、三秒。
万能型は握った手を離した。それから俺の目をもう一度だけ見た。
灰色の目に、天井の蛍光灯が二本、小さく映っていた。
映っているのはそれだけだった。
勝負の火が消えていた。
ニューヨークの五セット目にあの男の口元をゆるめた小さな光は、今日はどこにもない。
万能型は何も言わずに頷いた。
挨拶にも別れにも決意にも見えない、ただの頷きだった。
それから踵を返して廊下の奥へ歩いていった。
ラケットバッグが肩の上で揺れていた。
足音はコンクリートに吸われてすぐに聞こえなくなった。
……言わなかった。
廊下に一人で残った。
蛍光灯の一つが少しちらついていた。
遠い歓声はいつのまにか静まっている。
カップは係員に預けてあった。両手が空だった。
右手を顔の前に持ち上げて見た。
さっきまであの男の手を握っていた手だ。
あの男は途中からもうコートの中にいなかった。
身体だけがネットの向こうに立っていた。
俺は誰と打っていたのだろう。
強くなりすぎた、ということかもしれない。
九十九の先まで身体を伸ばして、金特を一つ、また一つと手に入れて、その結果がこれだった。
ライバルの目から火が消えるほど強くなった。
強くなることは楽しかった。楽しいと言ってきた。
そのつけが、たぶんこれだ。
廊下の奥から係員の足音が近づいてきた。
記者会見の時間だ、と告げられた。
うなずいて手をポケットに入れた。
歩き出す前にもう一度だけ、万能型が去っていった方向を見た。
廊下はただ、まっすぐに続いていた。
その夜はベッドに入っても眠れなかった。
カーテンを少し開けて窓の外を見ていた。
メルボルンの夜景は明るくて、遠い。
隣のベッドが空いていた。
しばらくしてドアが開いて、千夏が戻ってきた。
ラップをかけた小さな皿を持っている。どこへ行っていたのかは言わなかった。
皿の上に塩むすびが一つ載っている。
「お腹空いてない?」
「いや」
「一個だけ」
千夏は皿を俺の前のテーブルに置いてラップを外した。
一つだけ、というのが千夏らしかった。
多ければ、今日のことを無理に食べさせることになる。
少なければ、何もなかったふりになる。
廊下のことは話していない。
それでも千夏は、何かがあったことを知っている顔をしていた。
おにぎりを手に取って一口かじった。米はまだ少し温かい。
ベンチから見た二本の指の、片方がこれだった。
千夏が俺の顔をじっと見ていた。
「……塩、足りなかった?」
おにぎりを持った手が止まった。千夏の顔は真面目だった。
口の中の米を飲み込んでから答えた。
「足りてる」
「ほんと?」
千夏は俺の隣の椅子に腰を下ろして答えを待った。
窓の外でどこかの車がクラクションを一度だけ鳴らした。
「ほんと」
千夏は安心したように頷いた。
それから、何も言わずに窓の外を見た。
勝負を降りた相手に、どうやって勝てばいいのだろう。




