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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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第141話 【万能型】言わない言葉

 ロッカールームのベンチで、コーチが僕の足首のテープを切っていた。

 鋏が白いテープの上を進む音だけが、天井の低い部屋に響いている。


 三―六、二―六、二―六。

 スコアは頭の中で一度だけ読み上げてそれで終わりにした。


 六年前のニューヨークで、僕は二十歳の日本人から、ほとんど同じ数字を取った。

 六―二、六―三、六―二。あの日は僕の方が早くシャワーを浴びた。


 今夜はその順番が逆になるだけだ。

 数字の上ではそれだけのことだった。


 コーチは何も聞かなかった。

 この人は勝った日も負けた日も同じ速さでテープを切る。初めて会った冬からずっとそうだ。


「シャワー」


 コーチが言った。それだけで話は終わる。


 立ち上がってラケットバッグからタオルを出した。

 鏡の中の自分は汗をかいていなかった。決勝のあとに汗が引いている顔を、僕は初めて見た。


 ニューヨークの五セット目、長いラリーの途中で僕は自分が笑っているのに気づいた。

 ボールを追いながら、口の端が勝手にゆるんでいた。

 試合の途中で笑ったのは二〇〇九年の芝の決勝以来だった。


 だから、ネットの前で言った。次も、やろう、と。

 言うつもりで用意した言葉ではなかった。言ったあとで自分の声に少し驚いた。


 十一月のロンドンでは言わなかった。

 六―二、六―一で、言う理由がどこにもなかった。


 今日も、ない。


 あの芝の決勝をときどき夢に見る。

 五セット目の最後に、僕のパスはボール一個分、サイドラインの外に落ちた。


 夢の中ではあの球は入っている。

 入っても彼は追いついている。追いついて返してくる。


 目が覚めると少しだけ嬉しい。

 負ける夢を見て嬉しいのはあの試合だけだ。あれはどちらが勝ってもおかしくなかった。


 表彰式の四十秒は自分でも短いと思った。

 来年の話をするには、来年が見えなかった。


 ロッカールームへの廊下で振り返ると彼がいた。

 待っている顔だった。ニューヨークの夜に僕が言った言葉を、もう一度。


 おかしいと思ったのは二セット目の三ゲーム目だ。


 僕は同じ球を三本続けた。フォアの側へ、少し短く、少し高く。

 叩いていいと見せる球だ。叩けば、次の一本で僕が前を取る。


 芝でもニューヨークでも彼とはこういう問いを何度も交わした。

 彼は一本目で罠に気づいて、二本目で罠ごと叩きに来た。


 今日は、一本目がストレートの深いところへ返ってきた。

 二本目も同じ場所に同じ速さで来た。


 三本目は彼が打つ前に動いた。ストレートの深いところで待った。

 球は待っていた場所に来た。速かったが、届いた。


 届いた球を、回転を消して低く滑らせた。

 彼のフォアの足元で弾まない球だ。前の二本と同じ振り方で打てば、ネットにかかる。

 膝を落として持ち上げれば、そのぶん遅くなる。その一本を前で待つつもりだった。


 彼は膝を落とさなかった。

 打点だけを下げて、またストレートの深いところへ、同じ速さで運んできた。


 次のゲームでもう一度確かめた。今度は深く、高く弾む球を返した。

 返ってきたのは、同じ場所の、同じ速さの球だった。


 僕が何を返しても、彼の答えは変わらなかった。

 そのあいだ彼は一度も顔を上げなかった。


 問いを投げて、答えではなく正解が返ってきた。

 練習の相手に打つ球だった。

 決まっている球を、決まっている場所に置くのは、テニスではなく作業だ。


 廊下で待っている彼の目の奥でも、もう何も燃えていなかった。


 言葉だけなら渡すことはできた。三つの単語で済む。

 けれど、次というのは、両方が欲しがっているときにだけあるものだ。


 僕だけが言えば、それは挨拶にしかならない。

 挨拶ならさっき四十秒で済ませた。


 右手を出して決まった時間だけ握った。

 もう一度だけ彼の目を見て頷いた。


 頷くのが僕にできるいちばん正直な返事だった。


 夜になっても眠れなかった。

 水を取りに下りようとしてホテルのエレベーターに乗った。


 三つ下の階で扉が開いて、日本人の女性が乗ってきた。

 両手でラップをかけた皿を持っている。


 彼の妻だった。

 ボックス席の端にいつも同じ姿勢で座っている人だ。


 向こうも僕に気づいて少し身体を固くした。

 それから英語で言いかけた。


「おめでと……」


 途中で止まった。言う相手を間違えたと気づいた顔だった。

 言い直した。


「……いい試合でした」


 僕は頷いた。いい試合ではなかったが、そういうことにしておいた。


 エレベーターはこのホテルでいちばん遅い一台だった。

 表示の数字が一つずつ、ためらうように変わっていく。


 彼女は皿を見て、僕を見て、もう一度皿を見た。


 それからラップの端をつまんで半分だけ剥がした。

 白い三角形の米が二つ並んでいた。


「一つ。どうぞ」


 断る英語はいくつも知っていた。

 知っていたのに、手が先に出た。疲れていたのだと思う。


 受け取るとまだ温かかった。

 彼女は自分の手のひらを指で叩いて日本語を一語だけ言った。


「シオ」


 意味は分からなかった。

 分からないまま頷いたところで、扉が開いた。


 彼女は小さく頭を下げて、皿を持って降りていった。

 皿の上には一つだけが残っていた。


 ロビーで水を一本買って部屋に戻った。窓際の椅子で食べた。

 食べ方が分からなかった。どこから齧っても、角だった。


 塩が強かった。米はまだ温かかった。

 手のひらを叩いた意味は三口目で分かった。


 ドアが叩かれてコーチが入ってきた。

 明日の便は昼だ、と言って、僕の手の中の米粒を見た。


「それは何だ」


「シオ」


 コーチは眉を上げた。それ以上は聞かなかった。

 椅子を引いて座り、しばらく窓の外を見ていた。


「やめるか」


 この人がそれを聞いたのは初めてだった。

 十二の冬から十四年、一度も聞かれたことがない。


「やめない」


 自分の声が思ったより落ち着いていた。


 彼のいない大会なら、まだ勝てる。

 彼のいる大会では、たぶん負ける。その計算はもう何度もした。


 それでもやめる理由にはならなかった。


 テニスは彼一人のものではない。


 来月からネットに出る練習を増やす。

 コーチとはもう去年の暮れに話してあった。後ろで打ち合えば、彼の方が一つ深い。


 前で終わらせる。それで勝てるとは思っていない。

 勝てるとは思っていないことを試すのは嫌いではなかった。


 このコーチの前で初めてラケットを握ったころは、勝てるかどうかなんて考えなかった。

 打てるかどうかだけを考えていた。


 ただ、あの言葉だけは取っておくことにした。

 次も、やろう。


 本当に次がある日が来たら、そのときに言う。

 彼の目の奥にもう一度あれが点いて、僕を見る日が来たら。


 来なければ、一生言わない。


「何を笑ってる」


 コーチが言った。笑っているつもりはなかった。


「シオが、強かった」


 コーチはため息をついて立ち上がった。


 膝の上の紙ナプキンに米粒が二つ残っていた。

 一つずつ指でつまんで口に入れているあいだに、コーチはドアのところで一度だけ振り返った。


「明日は、昼だ」

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