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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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139/145

第139話 一セットも

 二〇一一年一月のメルボルンは、三年前と同じ四十度だった。

 日なたのコートの上は昼を過ぎると、空気が熱い壁のような手触りになる。


 朝の練習コートから戻るころには、Tシャツが絞れるほど濡れている。

 息を吸うたびに喉の奥が乾いていく。


 全豪の二週間は、対戦相手より先に、この暑さと試合をしなければならない。


 今年の相手は暑さだけだった。

 そう思ってから不遜な考えだと気づいたが、実際にそうなのだから仕方がない。


 半年前の俺なら次の相手の癖を頭の中で整理して、夜のうちに対策を三つ四つ組んだ。

 今の俺はホテルの部屋に戻ると、まず水を一リットル飲む。


 その次に冷房の温度を確かめる。

 相手の対策より、身体の水分のほうがこの二週間の勝負を決める気がした。


 壁には千夏の作った塩分と水分の表が貼ってある。

 初めてこの大会で勝った年は、方眼紙に手書きした表を机に置いていた。


 今年の表は印刷されていて、隅に小さく、去年より三ミリリットル増やした、と書き足してある。


 着いた日の夜、千夏が部屋の入口で大きな白い箱を持ち上げた。


 保冷箱だった。蓋の隙間から白い冷気がゆっくり床へ流れ落ちている。

 ドライアイスだ。千夏が蓋を開けると、凍ったままのおにぎりが行儀よく並んでいた。


「今回は固いよ。叩くとこつんって鳴る」


 千夏は箱の縁を両手で持ったまましばらく蓋を閉めなかった。


 あの年に日本から送ってもらった冷凍おにぎりは、着いたときには全部溶けていた。

 十二個とも、アルミ箔のなかで白くとろけたおかゆになっていたのだ。


 あのとき圭が、おかゆだ、とつぶやいたのをまだ覚えている。


 今度は溶けていない。

 この部屋で相手のいる勝負をしているのは、俺より千夏のほうだ。

 おかゆとの再戦だった。


 その保冷箱は着いた日の昼にメルボルン空港の税関で三十分止まった。


 オーストラリアは食べ物の持ち込みに世界で一番厳しい国の一つだ。

 係官が保冷箱の蓋を開けると、白い煙が立ち上った。


 係官の眉が動いた。

 千夏は鞄から一枚の紙を出した。中身の一覧を英語で書いてきた紙だ。

 米、塩、海苔、梅干し、保冷用のドライアイス。量と、作った日付。


 係官は上から読んでいって最後の行で指を止めた。


 UMEBOSHI — VERY SALT


 ロンドンで千夏の梅干しが税関に止められたとき、圭がホテルのロビーで書類に書き込んだ二語と一字一句同じだった。


 血は争えない。


 係官は顔を上げて千夏を見た。千夏は真面目な顔でうなずいた。


「ベリー、ソルト」


 係官は書類にスタンプを押しながらひとこと言った。


「……ウェルカム、トゥ、オーストラリア」


 俺は後ろに立ったまま荷物のカートを押さえていた。

 笑ってはいけない場面だと、頭では分かっていた。


 保冷箱の蓋はそれから一度も開けられないまま、ホテルまで運ばれた。

 ドライアイスはあの三十分で少し減っていた。


 二〇一一年の全豪は、一回戦から準決勝まで十八セット。

 落としたのは、ゼロだった。


 相手の名前はドローの表の上で次々と消えていく。


 早瀬は初めて四大大会の準々決勝に進んだ。

 相手は赤土の魔人で、四セットで負けた。俺はその試合をホテルのテレビで見た。


 三セット目を早瀬が取った。

 取った瞬間、あの男は自分のコートで一度跳ねて、それから慌てて魔人のほうへ九十度のお辞儀をした。


 俺がこの大会で一つも落としていないセットを、あの男は一つ取って、跳ねていた。


 四セット目も最後のゲームまでネットのそばで声を出していた。

 試合のあとはラケットを抱えたまま、しばらくベンチから動かなかった。


 決勝の相手は万能型だった。

 その日もメルボルンの気温は四十度まで上がった。


 球を打つ。相手が返す。俺が打つ。

 その繰り返しが一球ずつ同じ手触りで続いていく。


 以前は一球ごとに、頭の中で読みと読みがぶつかり合っていた。

 今はぶつかる前に球が終わる。


 六―三。


 二セット目も同じだった。


 六―二。


 三セット目は最初のゲームからブレークした。

 サーブがラインの上で鋭く跳ねた。リターンが返ってこなかった。


 六―二。


 最後のポイントはワイドへのサービスだった。

 万能型は動かなかった。動かないまま、球が身体の外側を通り過ぎた。


 ラケットを下ろしてネットのほうへ歩いてきた。


 握手をした。二時間に満たない試合だった。


 試合のあいだ、ボックスの千夏はときどき、膝の上のノートに何か書いていた。

 あれが今日の暑さの記録なのだと思った。


 四十度のコートで、グリップは最後まで一度も汗で滑らなかった。


 勝負が作業になった。


 喜ぶべきことなのに、喜ぶより先に、あまりに簡単だったことに戸惑っていた。


 表彰式の準備が終わるまでベンチでタオルをかぶって待った。

 顔を上げると、ボックスの千夏と目が合った。


 千夏はノートを閉じて指を二本立てた。

 保冷箱に残っているおにぎりの数だ。決勝の日の分までちゃんと残っている。


 それから口だけが、あとで温める、と動いた。

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