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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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138/144

第138話 で、次は?

 二〇一一年の元日、本家は朝から満員だった。

 玄関には靴が三十足近く並んで、母が下駄箱の横でそれを揃え直している。


 去年の正月はまだ結婚前だった。

 今年は千夏が「丹羽の嫁」として迎える最初の正月だ。


 広間にはいとこ二人が、それぞれの家族を連れて座っていた。

 伯父の建の息子たちだ。


 二人とも三十前後で、片方は子どもが二人、もう片方はもうすぐ産まれるらしい。

 俺が小さかったころ砂場の砂十トンを喜んでいた人たちが、今は年に一度の座布団の位置で子どもをなだめている。


 俺のほうは同じ年月で数字を九十九と百まで上げただけだ。


 その二人の隣で母がいとこの妻たちに丁寧に頭を下げていた。

 母はこういう場所で一番おっとりしている。

 誰の話にもちゃんと相槌を打って、それでいて、何も覚えていないように見える。

 あとで聞くと、全部覚えているのが、母の怖いところだった。


 台所は祖母の領地だった。


「千夏さん、二の重はこっち」


 祖母の声は大きくない。それでも台所のすべての人がその一言で動く。

 重箱は一の重が祝い肴、二の重が焼き物、三の重が煮物。


 順番と彩りと隣り合う品の組み合わせが全部決まっている。

 千夏は割烹着の袖をまくって祖母の後ろについて回っていた。


 千夏は栄養士として、この重箱を見るたびに頭の中で塩分と糖分を計算しているはずだ。

 それでも口には出さない。


 祖母の隣で黙って手を動かして、たまにそっと味見をする。

 祖母は千夏の手つきを横目で見て、黒豆の鉢を渡した。


 昼を過ぎたころ広間の上座で祖父が杯を持ち上げた。


 顔はもう赤かった。祖母が奥から睨んでいる。

 祖父はそれを見ないふりをして、部屋の全員に向けて声を張った。


「今年も、芝だ」


 広間が一瞬静かになった。それからいとこの片方が小さく手を叩いた。

 全員がつられて拍手をした。


 何が芝なのか、誰も聞かなかった。聞かないのが丹羽家の正月の作法だった。


 縁側に出ると、日だまりの一番いい場所に悠蔵が寝転んでいた。

 白いシャツの袖をまくって、親指の上で百円玉を回している。


「おめでとう」


「おめでとう」


 隣に腰を下ろした。悠蔵は目だけをこちらに向けてまた空へ戻した。


 一年前の元日、この縁側で同じ問いに初めて「分からない」と答えた。

 悠蔵は、まあ、いいんじゃない、と言って百円玉を差し出した。これで決める? あの人が俺の決めごとに言った、初めての冗談だった。


 あれから全英の芝の二連覇と、全米と、最終戦。

 答えのほうはまだ出ていない。


 悠蔵が百円玉を指で弾いた。


「で、次は?」


「全部」


 自分で言って少し驚いた。

 答えを出そうとして頭が空白になり、そこに一番軽い言葉が滑り込んだ。


 悠蔵の百円玉が手の甲の上で止まった。


 庭の向こうでいとこの子どもが笑い声を上げている。

 悠蔵は寝転んだまま、しばらくそれを聞いていた。


「ずいぶん軽いねえ」


「軽いよ」


「去年は分からないって言ってたじゃない」


「分からないから、全部って言った」


「それ、答えになってないんじゃない」


「なってない」


 悠蔵の口の端が、ほんの数ミリ持ち上がった。


 冗談のつもりだった。何が全部なのかは俺にも分かっていない。

 全部の大会、全部の相手、全部の数字。どれとも決めていない。


「まあ、いいんじゃない」


 言い方まで一年前と同じだった。

 ただ、今年はそこで終わらなかった。


 悠蔵が上体を起こした。あぐらをかいてシャツの胸ポケットに手を入れた。


 出てきたのは百円玉ではなかった。黒い、小さな電卓だった。

 ボタンの一つずつが指の跡で少し白くなっている。


「全部って、いくら?」


 真顔だった。冗談を言うときの、あの少し持ち上がる口元ではなかった。


「……いくら、って」


「全部なんでしょ。全部取ったら、いくらになるの」


 この人は金の話になると、いつも本気だ。

 全豪、全仏、全英、全米の優勝賞金を、悠蔵の指がゆっくり足していく。


 最終戦の分も足した。ツアーの下の大会の分も足した。

 スポンサー契約も足そうとして、指が止まった。


「これはまだ分からないなあ」


「分からないのは、いくらでも足していいよ」


「分からないものは、足さない。見込みで足すと、決算で合わなくなるからねえ」


 悠蔵は電卓の数字をしばらく眺めていた。

 それから画面をこちらへ向けた。桁を数えるのに少しかかった。


「で、これで何するの」


 口を開いたが、何も出てこなかった。


 五歳の春からこの縁側で使い道を聞かれて詰まったことはない。

 テニスコートの土地。屋根のある練習場。赤い土。


 使い道はいつも、勝つためだった。


 悠蔵は画面をこちらへ向けたまま待っていた。

 そのとき奥の座敷の障子がすっと開いた。


「悠蔵、お酒」


 祖母だった。廊下に立って盆を持っていた。

 盆の上に徳利が二本載っている。


「いま計算中なんだけどねえ」


「お酒」


 祖母はそれ以上何も言わなかった。盆を持ったままそこに立っていた。

 悠蔵はしばらく電卓と祖母とを見比べて、電卓を閉じた。


「じゃあ、続きはあとで」


 立ち上がって盆を受け取りに行く後ろ姿は猫背だった。

 縁側には閉じた電卓だけが、日だまりの上に残った。


 夜になって本家の庭に出た。広間の声が遠くて、風のない夜だった。


 酒を飲んだ祖父は座敷で寝てしまい、祖母が毛布を掛けていた。

 いとこたちは子どもを寝かしつけに二階へ上がった。

 千夏は台所で祖母の残りの仕事を手伝っている。


 庭の隅の石の上に座って縁側のほうを見た。

 板の上に閉じた電卓が置きっぱなしになっていた。


 全部。

 言ってみただけの冗談だ。悠蔵も軽いと言った。

 その軽い言葉にあの人は値段をつけて使い道を聞いてきた。

 続きはあとで、と言った悠蔵は、広間で伯父に捕まったまま戻ってこなかった。

 正月が明ければメルボルンへ発つ。


 千夏が湯呑みを二つ持って庭に出てきた。中身は甘酒だった。

 祖母の甘酒は砂糖が多すぎて、栄養士には毎年、頭を抱えさせる代物だ。


 千夏は一つを俺の手に渡した。


「冷えるよ」


「ありがとう」


 千夏は隣の石に腰を下ろして湯呑みを両手で包んだ。

 ひと口飲んで少しだけ眉を寄せた。


「お砂糖、来年は半分にしませんかって言ってみた」


「なんて」


「来年考えるって」


 この家の「考える」は、だいたい断りの意味だ。

 甘酒をひと口飲んだ。祖母の甘酒は今年も甘すぎた。


 千夏はもう一口飲んでから言った。


「じゃあ、来年も言う」


 何に使うのかは分からないまま、勝ち方だけは知っていた。

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