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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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137/146

第137話 最終戦

 十一月のロンドンは朝から暗い。

 その年の最後の大会は、テムズ川の東にある大きな室内アリーナで開かれる。


 出られるのはその年に一番ポイントを稼いだ八人だけだ。

 八人を四人ずつの二つの組に分けて、組の中で総当たりをして、上位二人が準決勝へ進む。


 ラウンドロビン、と呼ぶ。一度負けても次がある。

 年末にふさわしい、優しい仕組みだった。


 先週のパリの室内の大会は勝って終えた。

 その夜ホテルで【STATUS】を開くと、金特が三つになっていた。今度はスピードの欄だった。

 名前は一度読んで閉じた。レスポンスも九十九で止まったままだから、次はそこだろう。


 千夏は着いた日に、部屋の冷蔵庫の扉へ一週間分の献立表を貼っていた。

 組の三試合は一日おきで、準決勝と決勝が続く。


 負けてもまだ次がある大会なので、初日は軽く、三日目に厚く、最後の二日は少し塩を強く。

 表の一番下に小さな字で、負けた日の分、と書いてあった。

 何を出すのかはまだ書いていない。


 組み合わせの表がロビーの大きな画面に出ていた。

 コーヒーのカップを両手で持った千夏が横から覗き込んだ。


「どこ」


「ここ」


 画面の左の組の一番上に、丹羽琢真と書いてある。

 その下に赤土の魔人の名前があった。三番目にハード特化。

 四番目はあとから上がってきた若い選手だった。


 右の組には芝の王と万能型が並んで座っていた。


「同じ組に二人」


「うん。東京の人も」


 千夏はそれだけ言ってコーヒーを飲んだ。


 右の組の二人とは、順番が合えば、準決勝と決勝で当たる。

 どちらも勝ち上がってくれば、一週間で四人全員と打つことになる。


 東京で負けたばかりの男は、組の二戦目に待っていた。


 表の中の名前を指でなぞりながら、もう一度思った。


 四人ともいる。


 千夏が俺の袖を軽く引いた。


「顔、見たことある顔してる」


「どんな」


「二〇〇九年の決勝の前の顔」


 そう言われて口元を触ってみた。少し上がっていた。


 一戦目は赤土の魔人だった。


 室内のハードは、赤土の男には一番遠い床だ。

 球の跳ね方も滑り方も全部が違う。

 魔人の回転は赤い土の上でしかあの重さにならない。


 それでもこの男は食らいついてきた。六―四、六―三。

 二セットとも序盤は競って、途中からこちらの球が少しずつ深くなった。


 二戦目がハード特化だった。


 一か月半前、東京で負けた男だ。ハードの数字はまだ九十九のまま。

 相手はたぶん百。差はそのままだった。


 けれど、東京のあとの練習で打点を半歩だけ前に出す癖をつけていた。

 ライジングで球を叩く。跳ね上がる前に、こちらのほうが少し早く打つ。


 読みが一歩早い男との差を打点で縮めた。


 六―三、六―二。


 ネットで握手をしたときハード特化が眉を少し持ち上げた。

 東京の握手より、握る力が弱かった。


 三戦目は若い選手だった。名前を覚える前に六―一、六―一で終わった。

 三戦目にして初めて、俺の球が相手のコートをほとんど素通りしていた。


 準決勝は芝の王だった。


 室内のハードの上では、芝の王の足は芝ほど滑らない。

 俺は低く待たなかった。高い球で下げて低い球で抜く。


 三年前の型をもう一度引っ張り出した。六―三、六―一。


 そして、決勝。


 万能型はネットの向こうに立っていた。


 秋の初めのニューヨークで笑った男が、何の色もない顔でラケットを持っていた。


 最初のゲームから球は速かった。サーブが三本続けてワイドへ飛んだ。

 万能型の初動が半歩遅れた。ニューヨークであの男が一セットで埋めた穴が、また開いていた。


 遅れた身体は二球目でもまだ戻っていなかった。


 六―二。


 二セット目の最初のリターンゲームで、万能型が下がった。

 ベースラインの二メートル後ろから、俺のフォアの側へ、高く弾む深い球を集めてくる。


 九月の三セット目に俺を削ったのと同じ考え方だ。

 フォアを何本打たせても、あの位置なら届く。届いて深く返し続ければ、先に崩れるのはこちらだ。


 三球目の高い球を肩の高さのまま叩いた。

 九月なら、一度つないでいた高さだ。

 球は下がった万能型の、さらに外を抜けていった。


 次のゲームも、あの男は下がった。もう半歩、後ろへ。

 同じ高さの球を同じように叩いた。

 万能型は一本だけラケットに当てた。球はネットの中ほどに当たって落ちた。


 三ゲーム目から、万能型はもう下がらなかった。


 そこから先はラリーが続かなかった。

 万能型が返して、俺が打つ。

 それだけの繰り返しでゲームが次々に終わっていく。


 六―一。


 大人が子どもと打っているような、ほんの一瞬の錯覚があった。

 子どもの球はどこへ飛んでも、大人のラケットの届くところにしか来ない。

 大人はその球を、いつもいいところに置いてやる。

 そんな考えが頭をかすめて、すぐに打ち消した。


 相手は万能型だ。九月に五セットで俺を追い詰めた男だ。


 最後のポイントは、こちらから組み立てた。

 ワイドへのサーブで外へ出して、返ってきた球を逆の隅へ。

 万能型は追いついたが、返球は浅かった。前に詰めて、空いた側へボレーで落とした。


 握手をした。万能型は何も言わなかった。

 目はいつもの静かな目のまま、一度だけこちらを見た。

 手は乾いていた。


 次も、と言われるのを、握ったまま少し待った。

 来なかった。万能型は手を離して自分のベンチへ戻っていった。


 翌朝、ホテルの部屋のテーブルで千夏がノートパソコンを開いた。

 日本にいる美咲が、テレビ放送の録画を、夜のうちに送ってきたのだ。


 決勝の中継だった。日本向けの放送で、画面の隅の小さな窓に解説席が映っている。そこに圭がいた。


 黒いジャケットに、白いシャツ。ネクタイはなかった。

 放送席の椅子の上で、姿勢だけがいつもどおりまっすぐで、手元のメモには何も書かれていない。


 隣には緊張した顔のアナウンサー。試合は第二セットの半ばだった。


「藤代さん、今のポイントは」


 アナウンサーがマイクを向けた。

 画面の中の圭は、しばらくコートのほうを見ていた。


「一つだけ言う」


 アナウンサーが身を乗り出した。放送席が静かになった。


「……強い」


 それだけだった。


 アナウンサーが待つ。圭は何も言わない。

 腕を組んだまま、コートを見ている。ボールの音だけが放送に流れた。


「は、はい。強い、と」


 アナウンサーの声は、わずかに震えていた。


「ええ、この後のポイントも、丹羽選手のサーブから、ですが」


 アナウンサーが間をつなぐ。圭は頷きもしなかった。

 ただ、次のポイントが始まる直前、もう一度口を開きかけた。


 アナウンサーがまた身を乗り出す。

 圭は口を閉じた。


 千夏がパソコンの前で肩を震わせていた。


「お父さん、やっぱり」


「やっぱり」


「ずっと、あのまま」


 千夏は笑いをこらえて目の端を拭った。


 画面のなかでアナウンサーが、三度目の間をつないでいた。

 その間、圭は一度だけ、視線をコートの向こうへ動かした。


 万能型のほうを見ていた。アナウンサーは気づかなかった。


 その夜、荷造りを終えたホテルの部屋で冷蔵庫の扉の献立表を剥がした。

 一番下の、負けた日の分、の欄は最後まで空いたままだった。


 千夏は風呂に入っていた。

 水の音を聞きながら決勝の万能型を思い出そうとした。


 思い出せなかった。

 最初のゲームから最後まで、同じ顔だったからだ。


 全米では違った。

 ニューヨークの夜、五セット目の長いラリーの途中で、あの男は笑った。

 ネットの前では「次も、やろう」と言った。


 今日は一度も笑わなかった。言葉も来なかった。


 勝ったのは俺だ。六―二、六―一。スコアのほうは顔と違ってすぐに出てくる。

 去年の芝のあとで欲しかった、はっきりした勝ちだった。


 なぜ、と少しだけ考えた。

 六―二、六―一の試合では笑うところも言うこともなかっただけだろう。

 次にあの男と打つのは、たぶん一月のメルボルンだ。言葉はそのときに来る。


 そう決めて献立表を四つに畳んだ。

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