第136話 二つ目
十月の終わりの朝、センターのロッカールームで着替えながら【STATUS】を開いた。毎朝の確かめだ。
東京で負けたあと上海を勝って戻り、それから二週間、毎朝六時からライジングの練習を続けていた。ハードの一つの差を埋めるためだ。
跳ね上がる前の球を打つ。打つ位置をほんの少し前に。
その繰り返しだった。ハードの数字は九十九のまま動いていない。
▽を順に開いていって、金特の欄で手が止まった。
■金特▽
獲得制限 解除
雷鳴 サーブの上限が100になる
神の右腕 フォアハンドの上限が100になる
金特が二行になっていた。
雷鳴より、ずいぶん分かりやすい名前だった。
九十九で止まっていたフォアハンドの上限が百になっている。
通常の天井を、二本目の柱が越えた。
数字のほうは九十九のままだ。サーブのときと同じなら、ここから先は自分で打って上げるしかない。
■球種▽も開いてみた。フラットもスピンも九十九のままだ。
フォアが百まで行けば、そこで打つ球種にも何か起きるのかもしれない。説明書がないので、これは当て推量だ。
スピードも同じ八月から九十九で止まっている。次が来るなら、そこだろう。
上限は埋めれば終わるものではないのかもしれない。
一つ埋めるたびに、埋めるべき場所が増えていく。
面倒な仕様だ。前世の俺なら、この手のゲームは途中で投げていた。
シャツのボタンを留めながら独りごとを言った。
「まだ、増える」
誰にも聞こえなかった。廊下から早瀬の足音が近づいてくる。
今日も赤いシャツだった。
それから三日、フォアばかり打った。
三日目の朝、フォアハンドの数字が百に届いた。その日の午前の練習は早瀬と打った。
一球目をいつもの九割で打った。早瀬は追いついて返した。
二球目、三球目。ラリーが続いた。
先週までなら、これで一時間は打てたはずだった。
今日は違った。
四球目で早瀬の返球が一拍遅れた。五球目はもう一拍。
その次は追いつく前に、ボールが二回跳ねていた。
フォアハンドが百になったぶん、球の重さと伸びが、ひと回り変わっている。
試しに十割で打った。
球がネットを越えて、向こうのコートの深いところに着いた。
早瀬はラケットを振りにいって空を切った。
ボールはラケットの外側を通ってフェンスに当たった。
ラリーは二球で終わった。一球目が俺、二球目が早瀬の空振りだ。
四年前、この男を初めて打ちのめしたときは、遅れが面白かった。
全日本ジュニアの優勝者が、一本も返せずに、それでも翌朝、また門の前に立っていた。
今は遅れの幅が、あのころより一段広い。
二球で終わるのでは練習にならない。
打つ球を選ぶことにした。
十割で打てる球を、七割に落とす。速さを少し。
回転を少し。コースを早瀬がぎりぎり届く場所に置く。
届かない場所ではなく、届くのが難しい場所へ。
七割の球は向こうのコートできれいに弾んだ。
早瀬は追いついた。返した。俺も七割で返す。
ラリーが十本続いた。
七割の球は打っていて妙な感覚だった。
速い球を打つときは、身体が球に任せられる。
遅い球は任せられない。狙ったところへ、狙った速さで置かなければならない。
経験点はほとんど入らなかった。狙って置く分がコントロールに少し入っただけで、ほかの項目はほぼ動かない。
相手と打つ練習のはずが、いつのまにか、相手に合わせる練習になっている。
ちょうどいい弱い球を打つのは、相手の身体を見ていないとできない。
十二本目で早瀬がラケットを止めて、息を切らしながら言った。
「今の、手加減ですか」
真面目な顔だった。
「練習だ」
それだけ答えた。早瀬はしばらく俺を見て、それから小さく頷いた。
「はい。練習、ですね」
納得したのかしていないのか、分からない声だった。
それでも次の球を構えたとき、早瀬の立つ位置は靴一つぶん前に出ていた。
昼休みに休憩室へ入ると、美咲がソファに座ってノートを一冊膝に載せていた。
美咲はツアーの合間の練習で、この週だけ柏にいる。
ノートは緑色の表紙の大学ノートで、閉じてあった。
「おにいちゃん。これ、ベンチに落ちてた」
「何を」
「後輩くんの日記。開いたまま落ちてたから、一行だけ見えちゃった」
休憩室の奥はロッカーの並ぶ着替えの場所で、早瀬はそこで着替えをしていた。
首から上だけこちらを向いた。
「あの、それ」
「はい。閉じといた」
美咲は立ち上がってノートを両手で差し出した。
早瀬がシャツを半分着たまま飛んできて受け取った。胸に抱えて、美咲の顔を見る。
「どこ、見えました」
「三球のとこ」
早瀬の顔がシャツの赤に負けないくらい赤くなった。
「三球、すごいじゃん。あのサーブでしょ」
「す、すごく、ないですっ」
「すごいって」
俺は聞こえないふりをして窓の外を見た。それが兄の礼儀だと思った。
空は高く、薄い青だった。
ただ、肩は少し震えていたかもしれない。
早瀬はノートを抱えたままロッカーの陰に隠れた。
陰から「……ありがとうございます」と、小さな声だけが出てきた。
美咲がこちらを向いた。
「おにいちゃんは最近、何球で嬉しくなった?」
答えようとして、数が出てこなかった。
夕方、練習が終わってから一人でコートに残った。
ボールかごを引いてコートの隅から球を拾っていく。
ボール拾いは子どもの頃の美咲の仕事だった。
拾ったボールを、誰かに見せたがっていた顔を思い出して、少し笑った。
今、俺が拾っている球は、誰にも見せなくていい。
ネットの近くに球がいくつも落ちている。
午前の終わりのサーブ練習で早瀬が返した球も、この中にあるはずだ。
拾ってかごに入れる。また拾う。
手加減のない俺のサーブを、早瀬は三球返した。
それだけであれだけ嬉しそうな顔をして、日記に書いて、その一行を美咲に見られて真っ赤になって、それでもあの日記は捨てないだろう。
あの顔が悪いわけがない。あの顔のために七割を選んだ。
でも少し、寂しかった。
七割で打てば後輩は喜ぶ。十割で打てば返せない。
その間の、俺と本当に同じ速さで球を返してくる相手は、このセンターにはいない。
東京で負けた相手は返してきた。ニューヨークで勝った相手も返してきた。
あの人たちとの試合は、九割でも十割でも、球が戻ってきた。
戻ってくる球を、待っていた。
今日は違う。七割を選んだのは俺だ。
差が開いていく。開いたぶん、俺が打てる球は、増えていく。
増えるほど、返ってくる球は、減っていく。
伸びるたびに遠くなる。そういう仕組みらしかった。
差が開いた先で、俺は誰と打つのだろう。
千夏にはまだ話していない。
話せば、あの落ち着いた顔で寂しいのは悪いことじゃない、と言うだろう。
それを聞いてしまうと、寂しいことが、当たり前になる気がした。
最後の一球をかごに入れた。夕方の風がコートの上を通っていった。
かごを引いてロッカールームへ向かった。
車輪がコートの上でからからと鳴った。




