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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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136/144

第136話 二つ目

 十月の終わりの朝、センターのロッカールームで着替えながら【STATUS】を開いた。毎朝の確かめだ。


 東京で負けたあと上海を勝って戻り、それから二週間、毎朝六時からライジングの練習を続けていた。ハードの一つの差を埋めるためだ。

 跳ね上がる前の球を打つ。打つ位置をほんの少し前に。


 その繰り返しだった。ハードの数字は九十九のまま動いていない。

 ▽を順に開いていって、金特の欄で手が止まった。



 ■金特▽

 獲得制限 解除

 雷鳴 サーブの上限が100になる

 神の右腕 フォアハンドの上限が100になる



 金特が二行になっていた。

 雷鳴より、ずいぶん分かりやすい名前だった。


 九十九で止まっていたフォアハンドの上限が百になっている。

 通常の天井を、二本目の柱が越えた。

 数字のほうは九十九のままだ。サーブのときと同じなら、ここから先は自分で打って上げるしかない。


 ■球種▽も開いてみた。フラットもスピンも九十九のままだ。

 フォアが百まで行けば、そこで打つ球種にも何か起きるのかもしれない。説明書がないので、これは当て推量だ。

 スピードも同じ八月から九十九で止まっている。次が来るなら、そこだろう。


 上限は埋めれば終わるものではないのかもしれない。

 一つ埋めるたびに、埋めるべき場所が増えていく。


 面倒な仕様だ。前世の俺なら、この手のゲームは途中で投げていた。


 シャツのボタンを留めながら独りごとを言った。


「まだ、増える」


 誰にも聞こえなかった。廊下から早瀬の足音が近づいてくる。

 今日も赤いシャツだった。


 それから三日、フォアばかり打った。

 三日目の朝、フォアハンドの数字が百に届いた。その日の午前の練習は早瀬と打った。


 一球目をいつもの九割で打った。早瀬は追いついて返した。

 二球目、三球目。ラリーが続いた。


 先週までなら、これで一時間は打てたはずだった。

 今日は違った。


 四球目で早瀬の返球が一拍遅れた。五球目はもう一拍。

 その次は追いつく前に、ボールが二回跳ねていた。


 フォアハンドが百になったぶん、球の重さと伸びが、ひと回り変わっている。


 試しに十割で打った。


 球がネットを越えて、向こうのコートの深いところに着いた。

 早瀬はラケットを振りにいって空を切った。


 ボールはラケットの外側を通ってフェンスに当たった。

 ラリーは二球で終わった。一球目が俺、二球目が早瀬の空振りだ。


 四年前、この男を初めて打ちのめしたときは、遅れが面白かった。

 全日本ジュニアの優勝者が、一本も返せずに、それでも翌朝、また門の前に立っていた。


 今は遅れの幅が、あのころより一段広い。

 二球で終わるのでは練習にならない。


 打つ球を選ぶことにした。


 十割で打てる球を、七割に落とす。速さを少し。

 回転を少し。コースを早瀬がぎりぎり届く場所に置く。

 届かない場所ではなく、届くのが難しい場所へ。


 七割の球は向こうのコートできれいに弾んだ。

 早瀬は追いついた。返した。俺も七割で返す。

 ラリーが十本続いた。


 七割の球は打っていて妙な感覚だった。

 速い球を打つときは、身体が球に任せられる。

 遅い球は任せられない。狙ったところへ、狙った速さで置かなければならない。


 経験点はほとんど入らなかった。狙って置く分がコントロールに少し入っただけで、ほかの項目はほぼ動かない。


 相手と打つ練習のはずが、いつのまにか、相手に合わせる練習になっている。

 ちょうどいい弱い球を打つのは、相手の身体を見ていないとできない。


 十二本目で早瀬がラケットを止めて、息を切らしながら言った。


「今の、手加減ですか」


 真面目な顔だった。


「練習だ」


 それだけ答えた。早瀬はしばらく俺を見て、それから小さく頷いた。


「はい。練習、ですね」


 納得したのかしていないのか、分からない声だった。

 それでも次の球を構えたとき、早瀬の立つ位置は靴一つぶん前に出ていた。


 昼休みに休憩室へ入ると、美咲がソファに座ってノートを一冊膝に載せていた。


 美咲はツアーの合間の練習で、この週だけ柏にいる。


 ノートは緑色の表紙の大学ノートで、閉じてあった。


「おにいちゃん。これ、ベンチに落ちてた」


「何を」


「後輩くんの日記。開いたまま落ちてたから、一行だけ見えちゃった」


 休憩室の奥はロッカーの並ぶ着替えの場所で、早瀬はそこで着替えをしていた。

 首から上だけこちらを向いた。


「あの、それ」


「はい。閉じといた」


 美咲は立ち上がってノートを両手で差し出した。

 早瀬がシャツを半分着たまま飛んできて受け取った。胸に抱えて、美咲の顔を見る。


「どこ、見えました」


「三球のとこ」


 早瀬の顔がシャツの赤に負けないくらい赤くなった。


「三球、すごいじゃん。あのサーブでしょ」


「す、すごく、ないですっ」


「すごいって」


 俺は聞こえないふりをして窓の外を見た。それが兄の礼儀だと思った。

 空は高く、薄い青だった。

 ただ、肩は少し震えていたかもしれない。


 早瀬はノートを抱えたままロッカーの陰に隠れた。

 陰から「……ありがとうございます」と、小さな声だけが出てきた。


 美咲がこちらを向いた。


「おにいちゃんは最近、何球で嬉しくなった?」


 答えようとして、数が出てこなかった。


 夕方、練習が終わってから一人でコートに残った。

 ボールかごを引いてコートの隅から球を拾っていく。


 ボール拾いは子どもの頃の美咲の仕事だった。

 拾ったボールを、誰かに見せたがっていた顔を思い出して、少し笑った。


 今、俺が拾っている球は、誰にも見せなくていい。


 ネットの近くに球がいくつも落ちている。

 午前の終わりのサーブ練習で早瀬が返した球も、この中にあるはずだ。


 拾ってかごに入れる。また拾う。


 手加減のない俺のサーブを、早瀬は三球返した。

 それだけであれだけ嬉しそうな顔をして、日記に書いて、その一行を美咲に見られて真っ赤になって、それでもあの日記は捨てないだろう。


 あの顔が悪いわけがない。あの顔のために七割を選んだ。


 でも少し、寂しかった。


 七割で打てば後輩は喜ぶ。十割で打てば返せない。

 その間の、俺と本当に同じ速さで球を返してくる相手は、このセンターにはいない。


 東京で負けた相手は返してきた。ニューヨークで勝った相手も返してきた。

 あの人たちとの試合は、九割でも十割でも、球が戻ってきた。


 戻ってくる球を、待っていた。

 今日は違う。七割を選んだのは俺だ。


 差が開いていく。開いたぶん、俺が打てる球は、増えていく。

 増えるほど、返ってくる球は、減っていく。


 伸びるたびに遠くなる。そういう仕組みらしかった。

 差が開いた先で、俺は誰と打つのだろう。


 千夏にはまだ話していない。

 話せば、あの落ち着いた顔で寂しいのは悪いことじゃない、と言うだろう。


 それを聞いてしまうと、寂しいことが、当たり前になる気がした。


 最後の一球をかごに入れた。夕方の風がコートの上を通っていった。

 かごを引いてロッカールームへ向かった。

 車輪がコートの上でからからと鳴った。

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