第135話 最後の黒星
十月の東京の大会は地元開催と呼んでいい距離にあった。
柏から電車で一時間ほどで、会場の最寄り駅には、朝から俺の名前が入ったうちわを持った人が並んでいる。
うちわの顔はどれも少しずつ違って、少しずつ似ていなかった。
一回戦から準決勝まではあっという間だった。
ハードだ。ハードなら九十九の数字がそのまま球に乗る。
六―二、六―三。六―一、六―四。六―三、六―二。
準決勝は七―五、六―三で少しだけ締まった試合になった。
どの試合でも客席が埋まっていて、日本語の声援が外国のコートよりずっと近い。
二階席の端には父と母もいた。
父は銀行に有給の届けを出し、母は家を出る前に父のネクタイの結び目を直したとあとで聞いた。
二人の席は祖父の席から遠く、こちらから見えるのは、小さな二つの頭だけだった。
決勝の日、センターコートの最前列に祖父がいた。
会長席ではない。一般の、一番前のパイプ椅子だ。
丹羽建設の会長ともなれば、ほかに座る席はいくらでもあったはずだが、祖父はコートに一番近い場所を自分で選んだ。
背中をまっすぐにして膝の上に手ぬぐいのように畳んだ旗を置いている。
旗は入場のときに係員に止められ、小さく畳むことを条件に持ち込んだらしい。
試合の直前、コートに入る俺を見て、祖父が立ち上がった。
「芝だ!」
最前列の何人かが振り返った。
去年の七月、ロンドンの表彰式でセンターコートを「シバダ!」に染めた言葉だ。
あのときは確かに芝だった。今日の床は青いハードだ。
ここはハードだ、じいちゃん。
ベースラインに立って足の下の青い面をもう一度確かめた。
決勝の相手はハード特化だった。
二〇〇七年の全米で一冠目をくれた男だ。
あのときはこの男の得意な腰の高さの打ち合いに付き合って、高い球を読んで前に出てくる瞬間に頭の上を越した。
その型をこの男はあれからずっと研究してきたのだろう。
今日はその型の入口が、全部先に塞がれていた。
ハードの上では、この男の読みが一歩早い。
腰の高さの打ち合いに付き合っても、この男はもう前に出てこなかった。
頭の上を越そうとした球は、下がりながら肩の高さのまま叩き返される。あの全米ではネットにかけていた球だ。
逆に低い球で抜こうとすれば、低い弾道のままそれより低く返ってくる。
こちらのハードの数字は九十九で、向こうはたぶん百。
差はたった一つだ。
その一つがコートの上では、球が地面から跳ね上がるより一瞬前に現れる。
俺が打とうとする場所に、すでにあの男の足が向いている。
一セット目は四―六で落とした。サーブは入っていた。ラリーも悪くなかった。
ただ、深く打ったはずの球がことごとく足元に沈められて戻ってくる。
読まれるなら、読み終わる前に打てばいい。
二セット目から打点を半歩前にした。跳ね上がりきる前に叩く。練習で詰めたことのない打ち方だった。
それで五―四まで来た。俺のサービスゲーム。ここでキープすれば、セットを取り返せる。
四十―三十。サーブ。ワイドを狙った。
ハード特化が動いた。動いた、というより、そこにいた。
リターンが俺のバックハンド側の足元にぴったり沈んだ。
ボールが跳ね上がる前に、コートの上で止まったように見えた。
拾えなかった。
デュース。そこから五分、ゲームは動かなかった。最後に取ったのは向こうだった。
五―五、五―六、六―六。タイブレークに入った。
タイブレークは、一本ごとに勝てそうな気がして、勝てなかった。
三―三からミニブレークを一つ許した。四―六。
取り返して、五―六。
最後の一本も半歩前で叩いた。
ハード特化はその打点ももう読んでいた。叩いた球より先に動いて、低いカウンターを逆のサイドに沈めた。
四―六、六―七。ゲームセット。
ネットに歩きながら、はっきり思った。
悔しい。
全仏では、負けても笑っていた。
今日は笑えなかった。ハードの上でハードの男に、ハードの決勝で負けた。
一番、負けたくない負け方だった。
握手の手を強く握った。
ハード特化は少し目を見開いて、それから、同じ強さで握り返してきた。
表彰式はコートの上に白い長いテーブルを出して始まった。
トロフィーと小さな花束、それに大会のスポンサーの垂れ幕。
準優勝の俺のほうが先にマイクの前に立った。
日本語で挨拶をした。二言、三言。負けた人間のスピーチは短いほうがいい。
それでも拍手は長かった。
ありがとうございました、と頭を下げて、脇へ下がった。
次にハード特化がトロフィーを受け取った。
通訳が横に立ってお祝いの言葉を訳している。
会場は行儀よく拍手をしていた。
その拍手が途切れた一瞬に、最前列から声が飛んだ。
「芝だ! 芝だ、お前は!」
会場が一瞬止まった。
祖父が立ち上がっていた。
畳んであった旗を広げようとして、隣の席の人に止められている。
それでも顔はまっすぐ、トロフィーを持った男に向いていた。
負けた孫ではなく、勝った相手に向かって叫んでいる。
ハード特化がこちらを向いた。眉が少し寄っている。
通訳のほうへ身体を傾けた。
通訳は困った顔をして小声で何か言った。
それからハード特化が聞き返した。
「……グラス? ここは、ハードだ」
その通りだ。
通訳がさらに何か言い添えて、ハード特化はもう一度最前列を見た。
祖父が力強くうなずいている。
ハード特化はゆっくりトロフィーを抱え直して、それから祖父に向かって丁寧に頭を下げた。
祖父の顔がみるみる誇らしくなっていった。
俺は顔を伏せて笑いをこらえた。悔しさの上に笑いがかぶさってくる。
器用な身体だと、自分でも思った。
その夜は会場近くのホテルに泊まった。
柏まで一時間の距離なのに、千夏が「今日は、帰らない」と決めたのだ。
理由は聞かなかった。
部屋に戻ると、テーブルの上に小さな炊飯器が出ていた。
ツアーに帯同するときの千夏の持ち物の中で、一番重い荷物だ。
シャワーを浴びて出てきたとき、部屋には炊き立ての米の匂いが広がっていた。
千夏は何も聞かなかった。
試合のことも悔しいかどうかも、あのタイブレークのことも。
テーブルの上に白い皿を置いて、その上におにぎりを二つ載せた。
「二つ作った」
「ありがとう」
塩むすびだった。海苔は巻いていない。米の白さがそのまま見えている。
一つ目を食べた。塩の粒が舌の上でゆっくり溶ける。
負けた夜の塩むすびは、いつも少し塩が強い気がする。
千夏が加減しているのか、俺の舌が負けた分を求めているのか。たぶん後者だ。
悔しい。……うまい。
二つ目も食べた。一つで足りたはずだった。
悔しくて二つ食べた。千夏はそれを数えていた。
数えているのを、俺は見なかったことにした。
今日負けた男が明日から何をするのかは、もう決まっている。
練習だ。上海の初戦まで三日もない。
数字の差が一つなら、その一つは打点で埋める。
悔しさはあと何回味わえるのだろう。
皿の上には何も残っていなかった。
千夏は皿を下げながら、小さく言った。
「あしたも、朝、ある」




