↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
134/145

第134話 次も、やろう

 二〇一〇年九月のニューヨークで、決勝は雨のせいで一日遅れた。

 日曜の午後に始まるはずの試合は月曜の午後四時に回った。

 通路を抜けてセンターコートへ出ると、空はまだ明るいのに低い雲が客席の上に厚くかぶさっていた。


 屋根のない客席の上で照明が早めに白く灯り始めている。


 入場の通路で濡れたコンクリートの匂いがした。

 係員がタオルでコートの縁のラインを最後まで拭いている。


 階段を上がって光の中へ出ると、音が来た。


 ここはうるさい。

 三年前の初優勝の年に、下の大会の静けさと比べて思った言葉を、また思い出した。


 あのときのうるささには、まだ少ししか自分のためのものが混ざっていなかった。今日の音は半分くらいこちらに向いている。

 残りの半分は向かいのベンチに座っている男のためだ。


 ボックスに千夏と圭が並んでいた。

 千夏は膝の上で両手を握って、俺と目が合うと、指を二本だけ動かした。


 圭は腕を組んでいる。

 コーチの席ではなく、義父の席に座る圭を見るのは、まだ慣れない。


 何も言わないのは前からだが、言わなくていい立場で黙っているのと、言えない立場で黙っているのとでは、黙り方が違うはずだ。


 向かいの男は灰色がかった目で、ラケットのガットを指で押さえていた。


 万能型。二〇〇四年の全米の三回戦で俺の全部を一段下に見せた男だ。

 どこに打っても球より先に立っていた。読むより先に動いていた。


 二対六、三対六、二対六。握手の手が冷たかったことまで覚えている。


 あれから六年、数字は並んだ。並んだはずだった。

 それでもこの男の前に立つと、あの日と同じ静けさに肩のあたりを押される。


 コイントスが終わってネットの前で一度だけ向かい合った。

 万能型は何も言わなかった。目だけが俺を見た。


 挨拶でも挑発でもない。

 俺がまだここにいるかどうかを確かめるような目だった。


 決勝で会うのは、二度目だ。


 一セット目はタイブレークまでもつれた。


 万能型はどこに打ってもそこにいる。


 あの三回戦では、その感覚に全身が押し潰された。今日はほんの少し薄い。

 先にいるはずの男が、たまに一歩だけ遅れる。その一歩が見えている。


 ただ、見えているのと取れるのは違う。

 こちらが角に入れれば、向こうは足元に沈める。向こうがネットに出れば、こちらは頭の上を抜く。

 互いの球の癖を一球ずつ確かめ合うゲームだった。


 タイブレークの五―五。

 万能型のリターンが二本続けて、ベースラインのすぐ内側に落ちた。

 フォアで押し返したが、返ってきた球は、さらに深かった。


 五―七。


 セットが終わるころ、照明の白さがはっきりしてきた。

 ベンチで水を飲みながら喉の奥で笑いそうになった。負けているのに面白かった。


 二セット目の二ゲーム目で気づいた。


 アドコートのワイドへサーブを打つと、万能型は右から左へ動く。

 その最初の一歩が半歩だけ遅い。

 癖と呼ぶには小さすぎる、癖のかけらだった。


 次のサーブをそこへ打った。

 トスを上げる。膝を沈める。打つ。


 サーブの数字は百だ。

 球はサイドラインの上に着いて、そのまま万能型の左の遥か外へ逃げていった。

 フェンスまで行く、と思った。


 ……いや、返ってきた。

 万能型のラケットがぎりぎりで触れて、球は高く浮いて戻ってきた。

 返した男の顔は変わっていなかった。


 その浮いた球を叩いた。ポイントは取った。


 返ってくる。……楽しい。


 三ゲーム目の途中で、遠くの空が光った。

 雷雨で試合は二時間止まった。

 ロッカールームで待つあいだ、考えていたのは一つだけだ。二時間あれば、あの男は穴に気づく。


 戻ると、空はすっかり暗くなっていた。

 照明の下で、最初のワイドを打った。初動はまだ遅れた。


 サーブの穴だけでは、セットは取れない。


 四―四、万能型のサービスゲーム。

 同じ一歩を、ラリーの中で引き出すことにした。

 右へ二本振って、あの男の身体を右に寄せる。三本目を逆クロスで左の深いところへ。

 左への一歩が半歩遅れた。返球が浅くなる。前に入ってそこを叩いた。

 同じ組み立てでもう一本取って、ブレークした。


 次のサービスゲームを守って、二セット目を六―四で取った。


 三セット目は万能型が取った。六―三。

 二セット目に見つけた穴を、この男は一セットで埋めてきた。

 アドコートのワイドへ打っても、もう初動が遅れない。逆クロスも待たれている。


 四ゲーム目、そのワイドを待たれて、リターンを足元に叩き込まれた。

 ブレークポイントを一本しのいだが、次は深く返したはずの球がもう一つ深く返ってきた。


 苦しかった。九十九まで伸ばした身体が、まだこの男の正確さに追いつききっていない。


 それが、ありがたかった。


 セットカウントは一―二。


 四セット目の頭でベンチに座った。

 タオルを頭にかぶって一度だけ深く息を吐いた。


 中断を挟んで、時計は夜の九時を回っている。観客の声が遠くで海の音のように揺れていた。


 ボックスを見なかった。千夏がどんな顔をしているかは、見なくても分かる。

 圭がどんな顔をしているかは、見ても分からない。


 埋められた穴のすぐ隣を探した。

 ワイドと逆クロスを待つようになった男は、そのぶん右へ戻る一歩が前より遅い。


 六ゲーム目、万能型のサービスゲーム。三―二。

 三本目まで、わざとあの男の左へ集めた。

 四本目を同じ構えから、右の深いところへ流した。

 万能型の足は左に残っていた。追いついて返した球は短く、それを空いた左へ打った。


 そのゲームを破って四―二。あとは自分のサーブを守った。六―三。


 どちらが先に埋めるか、そういう試合になっていた。


 五セット目。


 互いにサービスゲームを守った。〇―一、一―一、一―二、二―二。

 三―三、四―四、五―五。


 万能型のサービスゲームだった。ブレークポイントが一度だけ来た。


 三十―四十。


 万能型のサーブがセンターに来た。低く、速い。

 リターンを逃げずに前に踏み込んで深く返した。


 ネットに出させたくなかった。

 あの男がネットに出ると、パスの角度がなくなる。


 深い球を万能型が下がって打ち返す。俺が返す。

 また返る。


 長いラリーになった。途中から客席の音が消えた。


 実際には消えていない。二万人が息をしている。

 けれど俺の耳には、ガットの音と靴底の擦れる音しか聞こえなくなっていた。


 ここはうるさかったはずだ。今は静かだった。


 その中でネット越しに万能型の顔が見えた。


 笑っていた。


 小さな笑いだった。

 口の端がほんの少しだけ持ち上がって、目の奥に色が差した。


 二〇〇九年の芝の上で見たのと同じ笑い。

 あのとき俺はこの男が笑うのを、初めて見た。


 まだ、終わりたくない。


 この球がもう一本続けばいい。あと一本、もう一本、終わらないでくれ。


 そう思いながら、手は次の球を選んでいた。

 打ち合うたびに、万能型の立つ位置が一本ずつ下がっている。

 深さを捨てて、短いクロスに落とした。

 万能型は前へ走って届いたが、角度をつける余裕はなかった。

 浮いた返球を空いた反対側へ打った。


 六―五。ブレークした。


 サービスをキープすれば勝てる。

 それだけの状況になって頭の中の静けさが少しうるさくなった。


 六―五。俺のサービスゲーム。


 三十―十五。三十―三十。四十―三十。マッチポイントが来た。


 ボールを三回ラケットで突いた。ボックスは見なかった。

 見なくても千夏の指が、また二本動いているのは分かる気がした。


 トスを上げる。膝を沈める。


 サーブ。センターのライン際に、百で入った。

 万能型のリターンが深く返ってくる。


 フォア。バック。フォア。


 万能型がラインの後ろまで下がる。俺はベースラインの上に留まる。

 打つたびに相手の足元を狙って少しずつ角度を変えていく。


 五球、六球、七球。


 万能型の返球は全部正確だった。

 どの球も少しずつこちらの逃げ道を狭めてくる。


 九球、十球。


 ネットに出させない。十一球目のバックをクロスの深いところに置いた。

 ここで浅くなれば、あの男は前に出る。


 前に出られたら、勝負はあの男のものになる。


 十二球目。


 深い球を、万能型は低いスライスでストレートに運んで、そのまま前に出てきた。

 浅くはしなかった。それでも来た。


 ネットの前に、あの男がいる。

 ストレートにラケット一本ぶんの隙間が空いていた。


 フォアで、そこを抜いた。


 球は伸ばされたラケットの先を越えて、サイドラインの内側で弾んだ。


 線審の腕は動かなかった。


 ゲームセット。


 六―七、六―四、三―六、六―三、七―五。


 音が戻ってきた。全部が一度に。客席が立ち上がる。

 誰かが叫んでいる。コートの上に照明が降っている。


 去年の芝のあとで、次ははっきり勝ちたいと思った。

 七―五は、はっきりとは言えない。それで足りていた。


 ネットの前で万能型が手を差し出していた。


 握手をした。手は六年前と違って温かかった。

 汗で湿った、同じ人間の手だった。


 万能型が英語で言った。直訳すれば、こうなる。


「次も、やろう」


 去年の芝のネットでは、この男は来年は僕のだと言って、俺が言い返す前に手を離した。

 今夜は言い終わっても、手はまだ握られていた。


 俺は一拍遅れて答えた。


「次も」


 その言葉が口から出たとき、自分がどんな顔をしていたのかは分からない。

 たぶん、笑っていた。


 万能型は頷いて手を離し、ラケットバッグを肩にかけ、ベンチのほうへ歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。