第134話 次も、やろう
二〇一〇年九月のニューヨークで、決勝は雨のせいで一日遅れた。
日曜の午後に始まるはずの試合は月曜の午後四時に回った。
通路を抜けてセンターコートへ出ると、空はまだ明るいのに低い雲が客席の上に厚くかぶさっていた。
屋根のない客席の上で照明が早めに白く灯り始めている。
入場の通路で濡れたコンクリートの匂いがした。
係員がタオルでコートの縁のラインを最後まで拭いている。
階段を上がって光の中へ出ると、音が来た。
ここはうるさい。
三年前の初優勝の年に、下の大会の静けさと比べて思った言葉を、また思い出した。
あのときのうるささには、まだ少ししか自分のためのものが混ざっていなかった。今日の音は半分くらいこちらに向いている。
残りの半分は向かいのベンチに座っている男のためだ。
ボックスに千夏と圭が並んでいた。
千夏は膝の上で両手を握って、俺と目が合うと、指を二本だけ動かした。
圭は腕を組んでいる。
コーチの席ではなく、義父の席に座る圭を見るのは、まだ慣れない。
何も言わないのは前からだが、言わなくていい立場で黙っているのと、言えない立場で黙っているのとでは、黙り方が違うはずだ。
向かいの男は灰色がかった目で、ラケットのガットを指で押さえていた。
万能型。二〇〇四年の全米の三回戦で俺の全部を一段下に見せた男だ。
どこに打っても球より先に立っていた。読むより先に動いていた。
二対六、三対六、二対六。握手の手が冷たかったことまで覚えている。
あれから六年、数字は並んだ。並んだはずだった。
それでもこの男の前に立つと、あの日と同じ静けさに肩のあたりを押される。
コイントスが終わってネットの前で一度だけ向かい合った。
万能型は何も言わなかった。目だけが俺を見た。
挨拶でも挑発でもない。
俺がまだここにいるかどうかを確かめるような目だった。
決勝で会うのは、二度目だ。
一セット目はタイブレークまでもつれた。
万能型はどこに打ってもそこにいる。
あの三回戦では、その感覚に全身が押し潰された。今日はほんの少し薄い。
先にいるはずの男が、たまに一歩だけ遅れる。その一歩が見えている。
ただ、見えているのと取れるのは違う。
こちらが角に入れれば、向こうは足元に沈める。向こうがネットに出れば、こちらは頭の上を抜く。
互いの球の癖を一球ずつ確かめ合うゲームだった。
タイブレークの五―五。
万能型のリターンが二本続けて、ベースラインのすぐ内側に落ちた。
フォアで押し返したが、返ってきた球は、さらに深かった。
五―七。
セットが終わるころ、照明の白さがはっきりしてきた。
ベンチで水を飲みながら喉の奥で笑いそうになった。負けているのに面白かった。
二セット目の二ゲーム目で気づいた。
アドコートのワイドへサーブを打つと、万能型は右から左へ動く。
その最初の一歩が半歩だけ遅い。
癖と呼ぶには小さすぎる、癖のかけらだった。
次のサーブをそこへ打った。
トスを上げる。膝を沈める。打つ。
サーブの数字は百だ。
球はサイドラインの上に着いて、そのまま万能型の左の遥か外へ逃げていった。
フェンスまで行く、と思った。
……いや、返ってきた。
万能型のラケットがぎりぎりで触れて、球は高く浮いて戻ってきた。
返した男の顔は変わっていなかった。
その浮いた球を叩いた。ポイントは取った。
返ってくる。……楽しい。
三ゲーム目の途中で、遠くの空が光った。
雷雨で試合は二時間止まった。
ロッカールームで待つあいだ、考えていたのは一つだけだ。二時間あれば、あの男は穴に気づく。
戻ると、空はすっかり暗くなっていた。
照明の下で、最初のワイドを打った。初動はまだ遅れた。
サーブの穴だけでは、セットは取れない。
四―四、万能型のサービスゲーム。
同じ一歩を、ラリーの中で引き出すことにした。
右へ二本振って、あの男の身体を右に寄せる。三本目を逆クロスで左の深いところへ。
左への一歩が半歩遅れた。返球が浅くなる。前に入ってそこを叩いた。
同じ組み立てでもう一本取って、ブレークした。
次のサービスゲームを守って、二セット目を六―四で取った。
三セット目は万能型が取った。六―三。
二セット目に見つけた穴を、この男は一セットで埋めてきた。
アドコートのワイドへ打っても、もう初動が遅れない。逆クロスも待たれている。
四ゲーム目、そのワイドを待たれて、リターンを足元に叩き込まれた。
ブレークポイントを一本しのいだが、次は深く返したはずの球がもう一つ深く返ってきた。
苦しかった。九十九まで伸ばした身体が、まだこの男の正確さに追いつききっていない。
それが、ありがたかった。
セットカウントは一―二。
四セット目の頭でベンチに座った。
タオルを頭にかぶって一度だけ深く息を吐いた。
中断を挟んで、時計は夜の九時を回っている。観客の声が遠くで海の音のように揺れていた。
ボックスを見なかった。千夏がどんな顔をしているかは、見なくても分かる。
圭がどんな顔をしているかは、見ても分からない。
埋められた穴のすぐ隣を探した。
ワイドと逆クロスを待つようになった男は、そのぶん右へ戻る一歩が前より遅い。
六ゲーム目、万能型のサービスゲーム。三―二。
三本目まで、わざとあの男の左へ集めた。
四本目を同じ構えから、右の深いところへ流した。
万能型の足は左に残っていた。追いついて返した球は短く、それを空いた左へ打った。
そのゲームを破って四―二。あとは自分のサーブを守った。六―三。
どちらが先に埋めるか、そういう試合になっていた。
五セット目。
互いにサービスゲームを守った。〇―一、一―一、一―二、二―二。
三―三、四―四、五―五。
万能型のサービスゲームだった。ブレークポイントが一度だけ来た。
三十―四十。
万能型のサーブがセンターに来た。低く、速い。
リターンを逃げずに前に踏み込んで深く返した。
ネットに出させたくなかった。
あの男がネットに出ると、パスの角度がなくなる。
深い球を万能型が下がって打ち返す。俺が返す。
また返る。
長いラリーになった。途中から客席の音が消えた。
実際には消えていない。二万人が息をしている。
けれど俺の耳には、ガットの音と靴底の擦れる音しか聞こえなくなっていた。
ここはうるさかったはずだ。今は静かだった。
その中でネット越しに万能型の顔が見えた。
笑っていた。
小さな笑いだった。
口の端がほんの少しだけ持ち上がって、目の奥に色が差した。
二〇〇九年の芝の上で見たのと同じ笑い。
あのとき俺はこの男が笑うのを、初めて見た。
まだ、終わりたくない。
この球がもう一本続けばいい。あと一本、もう一本、終わらないでくれ。
そう思いながら、手は次の球を選んでいた。
打ち合うたびに、万能型の立つ位置が一本ずつ下がっている。
深さを捨てて、短いクロスに落とした。
万能型は前へ走って届いたが、角度をつける余裕はなかった。
浮いた返球を空いた反対側へ打った。
六―五。ブレークした。
サービスをキープすれば勝てる。
それだけの状況になって頭の中の静けさが少しうるさくなった。
六―五。俺のサービスゲーム。
三十―十五。三十―三十。四十―三十。マッチポイントが来た。
ボールを三回ラケットで突いた。ボックスは見なかった。
見なくても千夏の指が、また二本動いているのは分かる気がした。
トスを上げる。膝を沈める。
サーブ。センターのライン際に、百で入った。
万能型のリターンが深く返ってくる。
フォア。バック。フォア。
万能型がラインの後ろまで下がる。俺はベースラインの上に留まる。
打つたびに相手の足元を狙って少しずつ角度を変えていく。
五球、六球、七球。
万能型の返球は全部正確だった。
どの球も少しずつこちらの逃げ道を狭めてくる。
九球、十球。
ネットに出させない。十一球目のバックをクロスの深いところに置いた。
ここで浅くなれば、あの男は前に出る。
前に出られたら、勝負はあの男のものになる。
十二球目。
深い球を、万能型は低いスライスでストレートに運んで、そのまま前に出てきた。
浅くはしなかった。それでも来た。
ネットの前に、あの男がいる。
ストレートにラケット一本ぶんの隙間が空いていた。
フォアで、そこを抜いた。
球は伸ばされたラケットの先を越えて、サイドラインの内側で弾んだ。
線審の腕は動かなかった。
ゲームセット。
六―七、六―四、三―六、六―三、七―五。
音が戻ってきた。全部が一度に。客席が立ち上がる。
誰かが叫んでいる。コートの上に照明が降っている。
去年の芝のあとで、次ははっきり勝ちたいと思った。
七―五は、はっきりとは言えない。それで足りていた。
ネットの前で万能型が手を差し出していた。
握手をした。手は六年前と違って温かかった。
汗で湿った、同じ人間の手だった。
万能型が英語で言った。直訳すれば、こうなる。
「次も、やろう」
去年の芝のネットでは、この男は来年は僕のだと言って、俺が言い返す前に手を離した。
今夜は言い終わっても、手はまだ握られていた。
俺は一拍遅れて答えた。
「次も」
その言葉が口から出たとき、自分がどんな顔をしていたのかは分からない。
たぶん、笑っていた。
万能型は頷いて手を離し、ラケットバッグを肩にかけ、ベンチのほうへ歩いていった。




