第131話 母の台所
八月の最初の土曜日、実家の台所に母と千夏が並んで立っていた。
北米へ発つ前の日だった。俺は食卓の椅子で麦茶のコップを持っている。
手伝いは要らないと言われた。
台所の空気は母と千夏の二人分でちょうど埋まっていた。
母が千夏に丹羽家の煮物を教えることになった。
千夏のほうから頼んだらしい。結婚して五か月、まだ教わっていない味が、一つだけあるのだと言った。
母は電話でうれしそうに笑っていた。
父は居間で新聞を広げていた。煮物の話になると、一度だけ台所のほうへ顔を上げた。
「甘いぞ。覚悟しとけ」
千夏に言ったのか鍋に言ったのか、分からなかった。
まな板の上に里芋と人参とごぼうと、干し椎茸と鶏肉が並んでいる。
母はゆっくり鍋に油を引いて順番に入れていった。
おっとりした手つきで、火の加減もほとんど見ずに、鍋の中を混ぜている。
砂糖の袋が調理台の端にあった。母は匙も計量カップも使わなかった。
袋を傾けて、鍋の上でどさり、と入れた。
「うちのは甘いんですよ」
母は砂糖の袋を置きながら言った。
「本家のお義母さんに教わった味でしてね。おじいちゃんが甘党ですから、お砂糖が多いんです」
千夏の目が鍋を見た。それから砂糖の袋を見た。
唇が声を出さずに小さく動いて、指先が調理台の縁を二度叩いた。献立の数字を出すときの千夏の癖だった。
指が止まって、千夏の右の眉がわずかに動いた。
母は気づいていなかった。醤油を砂糖のあとにまたどぼどぼと入れた。
この煮物を俺は二十五年食べてきた。
身体の半分くらいはこの甘さでできている。
千夏の計算に、その半分は入っていない。
千夏はしばらく黙っていた。それから母の手元を見て言った。
「……はい、この分量で」
千夏はポケットから小さなノートを出して、お義母さん、これ、書いてもいいですか、と聞いた。
母はいいですよと答えた。
「でも、分量は書けないんですよ。手が覚えてますから」
千夏はしばらくペンを止めて、それから、どさり、と書いた。
俺は麦茶を飲むふりをして目を逸らした。
煮物を弱火にしてから、母が急に思いついた顔で言った。
「そうだ、千夏ちゃん。見せたいものがあるんです」
母は台所を出て廊下の奥の納戸へ向かった。
千夏があとに続く。俺も麦茶を置いて立ち上がった。
納戸の押し入れのいちばん奥の段に、細長いケースが立てかけてあった。
何年か前に俺が返してから、母はそこへしまったままだった。
母は椅子に乗ってそれを引き出した。埃がうっすらと舞った。
ケースの蓋を開けると、中から古い木のラケットが出てきた。
薄い茶色の木の枠だった。ガットは黄ばんで、横糸が一本だけ切れている。
グリップの革は握った跡の形にすり減っていた。
この家で初めて握ったラケットも、荷物の底に入れて世界を回ったのも、この木だった。
「懐かしいですねえ。これね、まだ打てるんですよ」
母はラケットを両手で持った。埃を払う手つきが、さっきの煮物より速い。
「大学のサークルで二年だけやったんです。あの頃はみんなに上手だって言われたんですよ」
俺は思わず母の顔を見た。
三歳の頃、公園の壁で母が三十分粘って、二回だけボールを返した光景を覚えている。
上手だった記憶は、ない。
千夏はラケットを両手で受け取って、そっとグリップを握った。
「……重いですね」
「木ですから」
「お義母さんが握ってたんですね」
「そうですよ。二年だけですけど、毎週」
母は誇らしそうに胸を張った。この人の負けず嫌いは声には出ない。目の輝きに出る。
切れた一本を千夏の指が撫でた。
あたしが張り替えましょうか、と聞くと母は首を振った。
「いいんです。このままがいいんです」
千夏がラケットを母に返した。母はそれを胸の前で大事そうに持ち直した。
「千夏ちゃん、ちょっと付き合ってください。公園の壁で」
母はもう廊下を歩き出していた。
午後の遅い時間の公園の壁には、日が斜めに当たっていた。
コンクリートの灰色にボールの跡がいくつも残っている。
母がこの壁の前でラケットを構えるのは、たぶん二十二年ぶりだった。
乳母車の美咲と三歳の俺を連れてここに立った、あの日以来だ。
俺はベンチに座って見ていた。壁の前に母と千夏が立っている。
千夏はボールを一つ、母の手元に投げた。
母は木のラケットをゆっくり構えた。
「サークルでは上手だったんですよ」
母はもう一度言った。誰に向けてでもない声だった。
千夏は笑ってうなずいた。
母がボールを打つ。壁に当たって跳ね返ってくる。
母が打ち返した。ラケットの真ん中にちゃんと当たった。切れた一本は、真ん中から少し外れたところにあった。
もう一度、壁に当たった。
「ほら」
母が誇らしげに振り向いた。
一球目、二球目。ボールはゆっくり母と壁の間を往復した。
母の身体は少し傾いていて、足はほとんど動いていなかった。
それでもボールはラケットに当たっていた。
三球目。
壁から高めに跳ね返ってきた。母はラケットを振った。
ボールはその下を通過した。
空振りだった。木のラケットが空を切って、ぶうん、と鳴った。
母はラケットを振り抜いた姿勢のまま、しばらく止まっていた。
ゆっくりとこちらを向く。
「……今のは、練習です」
声はいつもどおり、おっとりしていた。
千夏は口を強く閉じていた。頬の内側を噛んでいるのが、横から見えた。
真面目な顔を作り直して、丁寧に頭を下げた。
「はい、練習」
母は満足そうにうなずいた。そして、もう一度ラケットを構えた。
四球目は当たった。母は勝ち誇った顔で俺のほうを見た。
当たっただけだった。
家に帰ると母と千夏は、また台所に並んでいた。
煮物が鍋の中でちょうどいい色になっている。
俺は廊下に立っていた。台所の入口から三歩下がったところだ。
二人の背中が見えた。
母は千夏より頭一つ小さい。千夏が屈んで母の手元を覗いている。
母は鍋の縁に菜箸を当てて何か話していた。
何を言っているのかは聞こえなかった。
声の高さとときどき止まる間だけが、廊下まで届いた。
千夏がうなずく。母が笑う。千夏も笑った。
二人の手が同じ鍋に伸びていた。母の手のほうが少し小さかった。
千夏の手は栄養士の手で、水と包丁で荒れている。
入ろうとして足が止まった。
入れば二人は振り向く。振り向けば、この時間は終わる。
母はいつものおっとりした顔で、お茶、と言うだろうし、千夏は娘のような今の顔を、また俺の妻の顔に戻す。
入らない方がいい。
廊下の壁にもたれて、しばらくそのままでいた。
台所の湯気の匂いが甘く漂ってきた。
子どもの頃は、この匂いがすると、壁打ちをやめて帰る時間だった。
千夏が小さなノートを開いて、母の手元を見ながらペンを動かした。
たぶん、もう一度どさり、と書いた。
母が菜箸を置いて、振り向かずに言った。
「琢真、そこにいるならお皿を出してください」




