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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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130/144

第130話 言うことはない

「私、おばさんになるの?」


 成田に着いた翌日の昼、コートの端で美咲が俺の袖を引いた。

 声だけはほかの誰にも届かない高さまで落としてあった。

 俺も千夏も、まだ誰にも何も話していなかった。


 美咲は帰りの機内で聞こえてしまったのだという。

 トイレの帰りに、通路の暗がりで足が止まった。聞こえたのは千夏の声と俺の「うん」だけだった。


「いつ生まれるの」


「まだ何もない。いつか、の話だ」


 美咲は口を開けて、閉じた。それから両手で自分の口をふさいだ。


「……誰にも言ってない」


「言うな」


「言わない」


 口をふさいだまま、二度うなずいた。


「えっ」


 後ろで声がした。

 早瀬がボールかごを抱えて立ち尽くしていた。


 早瀬はボールかごをそっと地面に置いて、深く、深く頭を下げた。


「おめでとうございますっ!」


 真顔だった。九十度どころか、百二十度は曲がっていた。


「まだ何もない」


 言うと、早瀬は頭を上げないまま続けた。


「でも、おめでとうございますっ!」


 美咲が口をふさいだまま首を横に振った。


 事務所から悠蔵が出てきて、百二十度の早瀬と俺の顔を見比べて言った。


「で、いつ」


「まだ、何も」


「そう。じゃあ、まだ書かないでおくよ」


 悠蔵は手帳を閉じた。開いていたのは来年の遠征費のページだった。


 その日、美咲は本当に誰にも言わなかった。

 練習の合間に目が合うたびに唇の前に指を一本立てて見せた。黙っているという報告らしい。


 圭だけはベンチで、いつもと同じ姿勢のまま湯のみを持っていた。

 早瀬の声はベンチまで届いたはずだった。湯のみはいつもより長く持ち上がったままで、そのあと俺がサーブを何本打っても、圭は顎を引いただけで何も言わなかった。


 夕方、家に帰ってその話をすると、千夏は流しの前でものすごく静かに包丁を握った。

 振り返らずに言った。


「……早瀬くんの声は、どこまで届いたの」


「事務所まで」


 しばらくしてまな板の上の包丁の音がいつもの調子に戻った。


 八月に入ってすぐの夕方、練習が終わったあとのベンチに圭が座っていた。

 北米へ発つ週の初めだった。蝉の声は日が傾くにつれてヒグラシに変わっていく。

 コートの照り返しが引いて、ネットの影が長くなった。


 圭は湯のみを膝の上に置いたまま、黙ってコートを見ていた。

 ラケットは持っていない。持ってこなくなって、もう長い。


 俺が横に座っても、顔はコートのほうを向いたままだった。


 このベンチに、ずっと同じ姿勢で座ってきた人だった。

 公園の壁の前で、肘だ、と言われた。中学一年の春に、走れ。次に寝ろ。


 あとは数えきれない。

 一つだけ言う、と前置きをして、たいてい三つ直る一つを俺に手渡していった。


 圭が俺の練習に何も言わなくなって、一か月になる。


 最初は言い忘れたのかと思った。

 この人は口数が少ないぶん、言うと決めたことは、その日のうちに言う。


 早瀬が百二十度に曲がったあの日、俺のサーブを見ても顎を引いたまま何も言わなかった。

 次の日もその次の日も言わなかった。


 一度、試してみた。フォアハンドの肘をわざといつもより下げて打った。

 圭が最初に言った、あの肘だ。


 見ていれば、必ず一つだけ言うはずだった。


 言わなかった。ベンチで湯のみを持ったままコートを見ていた。

 肘が下がっていることは、見えていたはずだ。それでも口が動かなかった。


 この人は今、何を見ているのだろう。コートにはもう誰もいなかった。

 ラインの白が夕方の光の中で薄くなっている。


 どこかの家から夕飯の匂いが流れてくる。

 千夏の台所の匂いではない、もっと薄い干物の匂いだった。


 隣に座って十分が過ぎた。

 湯のみのお茶は、たぶんとっくに冷めている。

 圭が一口飲む。湯のみを持ち直す。それだけだった。


 言うことがないのか、言えないのか。俺にはまだ、その区別がつかなかった。


 ベンチの後ろの門から千夏が入ってきた。

 両手で大きな紙の袋を抱えている。角がはみ出して、持ち手が食い込んでいた。


「お父さん」


 千夏は圭の前に立つと、袋をベンチの上に置いた。

 中から束になったノートが出てきた。大学ノートが二十冊あまりある。

 背表紙の色は白から灰色に薄く黄ばんだものまで、年ごとに違っていた。

 二月に寮を辞めるとき、厨房の棚から引き取ってきた束だった。


「お父さん、書かないでしょ」


 圭は束を見下ろした。


「全部、あたしが書いた。補食と練習と体重と、寝た時間。この人の分」


 千夏の指が束の一番下の一冊を引き出した。

 背表紙に「たくま・一」とあって、表紙の隅に鉛筆で一九九九と書いてある。


「これが最初。塩むすびの日から」


 千夏が十五歳の秋に、初めて補食を握ったところから始まっている。

 圭が俺の練習を見始めたのは、それより二年前の春だった。


「二年分、足りないけど」


 千夏は圭にその一冊を手渡した。


 圭はそれを受け取って、しばらく黙っていた。

 表紙の字を親指でなぞった。紙が古くて、端が丸くなっている。


 真ん中あたりを開く。


 今朝、玄関で行ってきます、と言った俺に、千夏は背を向けたまま言っていた。

 今日、お父さんに渡すものがある、と。


 俺にはページの中は見えなかった。

 去年の夏に寮の厨房の棚で開いたことがあるから、何が書いてあるかは分かっていた。

 千夏の字で日付と補食の中身と、俺の体重と睡眠の時間。


 一日の最後の行だけ、青いペンで一行ずつ。

 その日に圭が言った、一つだけ。


 圭はページをゆっくりとめくった。一枚。もう一枚。


 顔は動かなかった。眉がわずかに寄った気がしたが、夕方の影のせいかもしれない。


 千夏は何も言わずに圭の横に立っていた。

 ヒグラシの声の合間に、紙をめくる音が静かに聞こえた。


 圭がノートを閉じたのは、蝉の声がすっかり止んでからだった。

 ベンチに置かれた束の一番上に、閉じたノートをそっと載せた。


 コートのほうへ顔を向ける。夕方の光はもう薄い橙になっていた。俺のほうは見なかった。


「一つだけ言う」


 圭はコートを見たまま言った。


 背筋が自然に伸びた。この一か月、待っていた言葉だった。

 いつものように何か一つ直されるのだと思った。


「肘は、見えていた」


 圭の目は、さっきからネットの白帯の上にあった。


「言うことは、ある。……言わない」


「俺が言えば、お前は、俺の答えで打つ。……これからは、自分の答えで、打て」


「……もう、俺が言うことはない」


 俺は頭の中で数えていた。肘から、もう言うことはない、まで。六つだった。

 去年の十月の居間で、この人は自分の言葉を数えて、一つにならんな、と言った。

 今日は数えなかった。どれが一つなのかは、六つ目まで聞けば分かった。自分の答えで、打て。


「コーチは、降りる」


 圭は続けた。


「義父は、残る」


 声はいつもと同じで、低くて平らだった。何かを飲み込んだ様子はなかった。


「はい」


 それしか出なかった。ありがとうございます、と続けるべきだったのかもしれない。

 十三年分の。


 昔なら何か一つ返せたはずだった。分かりました。やってみます。もう一度、お願いします。

 返す言葉がいつも次の一つだった。今日は次の一つがなかった。


 千夏は俺の隣で黙っていた。ノートの束の上に片手を置いている。


 この人は初めて会ったときから、直す順番が正しすぎる人だった。

 走れ。寝ろ。肘。一つずつ、一つだけ。その一つが、ずっと上にあった。


 その上が今日、なくなった。


 師を越えたのなら、ゲームではここでファンファーレが鳴る。

 STATUSは何も表示しなかった。


 赤土の魔人も芝の王も、万能型もハード特化も、ネットの向こうにいる。

 あの四人は、一つだけ言う、と前置きしてはくれない。


 上に誰もいない。


 日が落ちて、センターの門の前の街灯に明かりがともった。

 圭はノートの束を千夏に返して、湯のみを持って立ち上がった。


 帰るのだと思った。圭は門のほうへ歩いていき、俺と千夏はそのあとに続いた。


 門の外は住宅街の細い道で、街灯の下に小さな蛾が二匹、回っていた。

 圭は門を出たところで立ち止まり、振り返った。


 俺を見た。圭の顔は街灯の光の中で、一分の隙もなく真面目だった。


「……一つだけ言う」


 もう言わないのではなかったのか。


 聞き返したかったが、聞き返せなかった。


 待った。


 千夏も待っていた。息を止めて圭の顔を見ている。


 圭の口が開いた。閉じた。もう一度、開きかける。

 街灯の下で蛾が、ひらひらと回った。


 十秒ほど、たった。


 圭は何も言わなかった。


 ただ小さく、一度だけうなずいた。

 くるりと背を向けて、住宅街の細い道を歩いていった。

 前置きだけが街灯の下に残った。


 湯のみはまだ手に持っていた。

 その背中が街灯の輪からゆっくり外れていく。

 俺と千夏は背中が見えなくなるまで門の前に立っていた。


「今の、数に入るのかな」


 千夏が道の先を見たまま言った。

 俺にも、どちらとも答えられなかった。


 表札の重い家までの七分の道を、千夏と並んで歩いた。

 千夏は返されたノートの束を両腕で胸に抱えていた。

 途中で一度だけ後ろを振り返ったが、細い道にはもう誰もいなかった。


「明日、何から打つの」


「サーブから」


 答えるのに、誰の顔も見なくてよかった。

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