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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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129/145

第129話 いつか

 全英の優勝から二日後、ロンドンから日本へ帰る便に乗った。

 昼過ぎの出発で、成田に着くのは日付が一つ進んだ翌日の朝になる。


 窓側に千夏、通路側に俺。一列後ろの通路を挟んだ席に美咲がいた。

 美咲も同じ全英からの帰りだった。


 シングルスは一回戦負けで、ミックスダブルスで最後の週まで勝ち残っていたらしい。

 搭乗口で会ったときは悔しさを半分だけ飲み込んだ顔で、映画を三本見るから話しかけないでと言った。


 離陸して一時間ほどで機内食が回ってきた。

 二つ前の席で乗務員の声がした。お肉になさいますか、お魚になさいますか。


 この問いを聞くと身体が勝手に緊張する。

 去年の夏に日本へ帰る便では、チキンが前の席で切れた。

 からあげがない、とこぼして、機内にからあげはない、と真顔で返された夜だった。


「大丈夫」


 千夏が隣で小声で言った。


「予約してある。二人とも、チキン」


 搭乗前に航空会社のカウンターで何か頼んでいたのは見ていたが、これだとは思わなかった。


 去年の便のことは圭から聞いたらしい。

 圭が誰かに何かを話すのは、珍しいことだった。


 トレイの蓋を開けると、照り焼きの匂いが狭い座席の間に立ち上った。

 付け合わせのブロッコリーが寂しそうに端に寄っている。


「ソースは半分残してね」


「はい」


 背もたれの後ろから美咲の顔がにゅっと覗いた。通路越しに身を乗り出している。


「おにいちゃん、チキン?」


「チキン」


「いいなあ。私、フィッシュ」


「フィッシュも悪くない」


「悪くないけど。負けた日は何食べても同じ。……一口ちょうだい」


 フォークの先に一切れ刺して通路越しに渡した。

 勝った日のチキンはちゃんと味がした。ソースを半分残しても、まだ十分に甘かった。


 食事が終わると機内の明かりが落とされて、窓のシェードがあちこちで下ろされた。

 外はまだ昼の明るさだった。夏に北の空を東へ飛ぶ便では、日がなかなか沈まない。


 何時間かたって千夏が自分の窓のシェードを指一本分だけ上げた。

 地平線の上に橙の帯が細く残っていて、その上の空はもう紺色になっていた。


 エンジンの音だけが一定の高さで鳴っている。


 千夏は窓に額をつけるようにして外を見ていた。

 毛布は膝から胸まで上げてあって、髪が肩に落ちている。


 眠っているのかと思ったが、窓に映った目は開いていた。


 小さな声がした。


「……いつか」


 聞き取れなかった。エンジンの音に声が吸われた。

 千夏はこちらを見ないまま橙の帯のほうを向いている。


「いつか」


 もう一度言った。今度は聞こえた。


「……子ども、ほしい」


 声が小さかった。


 千夏の父は千夏が小さい頃、ほとんど家にいなかった。それは俺も知っている。

 公園の向こうの家で千夏は母親と二人で夕飯を食べていた。


 その食卓のことを千夏がどう思っていたのか、一度も聞いたことがなかった。

 聞かなかったのは、俺のほうだった。


 すぐには返事が出なかった。


 子ども。


 その二文字を頭の中でもう一度なぞった。

 今までその言葉を自分のこととして考えたことがなかった。


 三十歳で終わるはずの人間は、三十歳の先の話を、しない。


 期限の欄が横棒になってもう一年が過ぎたのに、その癖だけは残っていた。


 千夏は答えを急かさなかった。毛布の下で膝の上に置いた手が動いた。


「……うん。いつか」


 言ってから、いつかがいつなのか、自分でも決めていないことに気づいた。


 千夏が窓から目を離してこちらを見た。暗くて表情はよく見えなかった。

 ただ、目が濡れているのが非常灯の緑でかろうじて分かった。


「……うん」


 千夏はそれだけ言ってまた窓のほうを向いた。

 毛布の中で俺の手を探しに来た手を、そのまま握った。


 手のひらの中で千夏の指が一度だけ動いた。


 千夏はやがて眠った。

 手を握ったまま額を窓につけて、寝息が一定になっていた。

 千夏の手が、手の中で温かかった。


 眠れなかった。目を閉じて頭の中で年を数えた。


 いつか。それはいつだろう。今すぐではない。

 九月に全米がある。十一月まで大会が続く。


 年末に休んで、年が明ければ全豪だ。

 ツアーの日程を千夏の予定表と重ねて、いつならいいのかを数えていった。


 仮に来年の夏に生まれたとする。来年、俺は二十七になる。

 その子が十歳のとき、俺は三十七。二十歳のとき、四十七。


 その頃の千夏も三十六か七になっている。

 想像がつかない。つかないのに、その千夏があの台所に立っている絵だけは簡単に浮かんだ。


 二十五年間数えてきたのは、三十歳までの日数と月数と大会の数だった。

 期限の先の年を数えるのは初めてだった。


 十歳のその子はどんな顔をしているのか。

 ボールを握るのか。ラケットを握るのか。それとも別のものを握っているのか。


 想像はどこにも当たらなかった。当たらなくていいと思った。想像する材料がまだなかった。


 気づくと空いているほうの手で膝の上の指を折っていた。三十一、三十二、三十三。

 ただの癖なら三十で止まる指だった。止まらなかったし、止めたいとも思わなかった。

 全部、今まで存在しなかった数字だった。


 握っているほうの手は、動かさないようにした。

 シェードの隙間の橙がいつの間にか朝の白に変わりはじめていた。

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