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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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128/144

第128話 上限の外

 止まっていた数字が動いたのは、全英の初日の三日前だった。


 その朝はウィンブルドンの練習コートにいた。おにぎりの動画を撮って四日がたっていた。

 朝露が乾いたばかりの芝は、踏むと靴底から冷たい緑の匂いが上がってくる。

 空はまだ薄い灰色で、コートの端の白い線だけがやけにくっきり見えた。


 芝のボールは跳ねるというより滑ってくる。

 足元の低い位置に来てそのまま伸びる。

 この球を返すには、膝を曲げたまま低く動くしかない。


 前にこの芝の上で足が流れた夏がある。

 赤い土の止まり方で止まろうとして、濡れてもいない芝の上を足が横へ滑った。

 あの夜、コート適性の欄を見て、グラスが一番低いことを思い知った。


 今朝は滑らなかった。膝を曲げたまま、低く。

 低くいろ、という圭の一つだけを身体が覚えている。

 芝の季節を毎年ここで打ってきた分だけ、足が芝を信じるようになっていた。


「おはようございますっ!」


 コートの端から早瀬の声が飛んできた。朝の九時だった。

 この男の挨拶は朝の九時でも夜の十時でも同じ音量だった。


 ラケットバッグを肩にかけ、白いウェアを着ている。

 赤いウェアはここでは着られない。

 白一色の決まりを、最初の年に一番残念がったのはこの男だった。


「おはよう」


「今日も、お願いしますっ」


 魔人の役を頼んだ冬から、この男とはほとんど毎日打っている。

 ランキングはこの春に九十位台に入った。

 全英の本戦に予選なしで入れる位置だ。

 早瀬の母親の洗濯機の苦労がようやく報われつつあった。


 千夏は今朝も、練習の合間の補食を保冷バッグに入れて持ってきている。

 バナナと小さなおにぎりが二人分。

 早瀬の分も当たり前のように入っていた。


 二時間打った。

 ラリーの合間にボールを拾う時間ができると、俺はコートの端のベンチで水を飲むふりをしてSTATUSを開いた。


 ▽を開く手が自分でも分かるくらい速い。ログインボーナスを確かめる手つきだ。


 二時間目の休憩で、早瀬がラケットを置いて水を汲みに走っていった。

 ベンチに座って、STATUSを一番上から順に見ていった。


 基礎能力。ショット。球種。コート適性。


 ショットの欄で指が止まった。



 ■ショット▽

 フォアハンド  S 97 / 99▽

 バックハンド  S 96 / 99▽

 サーブ     S 99 / 99▽

 ボレー     S 95 / 98▽

 スマッシュ   S 94 / 98▽



 サーブは今朝も九十九のままだった。実能力が上限に追いついたのは五月の終わりだ。

 芝の前にまとめて開けるつもりで、六週間ためておいた。


 上限解放の欄を開いて、サーブに経験点を入れた。

 数字が進まない。九十九の右には何も出てこない。

 たまった経験点は一点も減っていない。


 もう一度入れた。同じだった。


 フォアの上限もバックの上限も、九十九より上を見たことは一度もない。

 ロンドンからの帰りの飛行機で、四人には表で見たことのある一番上の数字より、さらに上の何かがあると見当をつけた。

 その一番上の数字が九十九で、ここが表の天井らしい。あの四人がいるのはたぶんこの天井の外だ。


 特殊能力の欄まで上がった。


 センス○。天才肌。その下に金特の欄。

 ロンドンのあの日から、獲得制限解除の一行だけが載った空っぽの棚だった。



 ■金特▽

 獲得制限 解除

 雷鳴 サーブの上限が100になる



 棚の下に一行増えていた。


 字を二度読んだ。雷鳴。音が遅れて届くからだろうか。

 赤ん坊の頃から、この表示は一度も意味を説明してくれなかった。


 獲得制限という字からすると、金特は普通なら一人一つまでなのだろう。グランドスラムの報酬で、その制限が外れた。


 五月の終わりから、上限につかえたままのサーブを毎朝二百球ずつ打ち続けてきた。行き止まりの先へ打ち込んだ分が、どこかで数えられている気がずっとしていた。

 その分がここに出たのかもしれない。偶然ではない気がしたが、これも推測だ。攻略本があれば一行で済む話だった。


 ショットの欄に戻った。



 ■ショット▽

 サーブ     S 99 / 100▽



 上限が百に上がっている。


 立ち上がってベースラインに歩いた。ボールを一つ持ってトスを上げた。


 打った。ボールはサービスボックスの隅に落ちて、フェンスに突き刺さった。


 もう一球。もう一球。

 二十球打ったところでベンチに戻ってSTATUSを閉じ、また開いた。


 九十九のままだった。

 上限は開いても、そこまでは自分で打って上げるしかないらしい。


 それから二日はサーブばかり打った。

 全英の前の日の夕方、練習を終えたベンチで、STATUSを開いた。



 ■ショット▽

 サーブ     SS 100 / 100▽



 動いた。まだ動く。


 天井の上に、数字が一つ出た。STATUSを閉じてもう一度開いた。百のままだった。


 コートの向こうで、早瀬がまだボールを拾っていた。

 サーブを打つから返してくれ、と頼んだ。


「はいっ、お願いします!」


 早瀬は腰を落として構えた。

 赤い土の上で魔人の役を務めて、俺の球を毎日受けてきた男だ。たいていの球はもう返してくる。


 トスを上げた。


 振り抜いた。


 ボールが早瀬の横を通り過ぎていた。


 足は一歩も動いていない。

 ラケットの先が遅れて、ぴくりと上がっただけだ。


 ボールは後ろのフェンスに当たって、ぱん、と鳴った。


 早瀬は後ろのフェンスを振り返ってこちらを見た。


「今の球、見えませんでした」


「見なくていい。拾え」


 後輩は口を開けたまま動かない。


「見ないで拾うんですかっ」


「順に言う。一つ目、トスの高さ。二つ目、肩の向き。三つ目、そこから半歩先。球はその後でいい」


「三つもですかっ」


「球を見てからだと、一歩足りない」


 早瀬はうなずいてまた構えた。腰がさっきより低い。

 圭なら一つだけ言うところを、俺は三つ並べていた。教わったとおりの言い方は、教わった口からは出てこないらしい。


 打った本人にも変な感覚だった。

 ラケットに残る手応えがいつもより薄い。


 振り終えて顔を上げたときには、もう後ろのフェンスが鳴っている。


 もう一球。ボールはまた早瀬の後ろを通り過ぎた。

 今度は右に一歩動いていた。ボールは左に来た。


「逆でしたっ」


「動いたのは合ってる。方向が逆なだけだ。次」


 三球目。四球目。


 早瀬は十球目にようやくラケットの端に当てた。

 ボールはフェンスとは逆の方向へふらふらと飛んで、二人の間に落ちた。


 早瀬は自分のラケットを見た。


「当たりました」


「当たったな」


 後輩の顔が日の出のように明るくなった。

 ラケットを両手で握って天に向かって挙げた。


「ありがとうございますっ!」


 何に礼を言っているのか分からなかったが、受け取っておいた。


 全英は勝ち進んだ。


 一回戦は一時間二十分で終わった。二回戦も一時間半かからなかった。

 相手は二人とも、サーブを返す前に、ゲームが終わったような顔をしていた。


 千夏の表には、補食の時間が予定より早く回ってきた、と書き足してあった。


 三回戦。四回戦。準々決勝。

 サーブが芝の上で、これまでとは違う球になっていた。

 跳ねる前に相手のラケットの下をくぐっていく。


 決勝は芝の王だった。去年の準決勝で、この芝の上で初めて勝った男だ。

 サーブを打つたびにネットに出てきて、深く返した球を胸の高さのボレーで叩く。

 同じ手を三セット続けた。


 芝の王は二セット目のタイブレークを落としたあと、リターンの位置を一歩前へ上げた。

 跳ねきる前に面を当てて、球の速さをそのまま返してくる。三セット目は返ってくる球が増えた。


 三セット目、五対三。最後のサービスゲームで三十―四十まで追い込まれた。

 芝の王は前に詰めた位置から面だけを合わせて勢いを殺してくる。

 その球が二本続けて、ネットへ詰める俺の足元に沈んだ。

 止まる前の足元。一年前に俺がこの男に打ち続けた場所だった。


 取られれば五対四で、次はこの男の芝の上のサービスゲームだ。


 芝の王はもう半歩前に出た。

 ベースラインの内側。サーブにここまで詰めるこの男を見たことがない。


 トスを上げた。センターへ。


 芝の王の膝が沈んで、ラケットがセンターへ出かけた。読みは合っていた。

 ラケットが出たときには、ボールはもうその横を過ぎていた。

 後ろの壁が鳴ってから、客席の声が一拍遅れて上がった。


 四十―四十。


 あとの二本も客席の声は球のあとから来た。

 最後の一本が壁に当たったとき、芝の王はまだ構えを解いていなかった。

 俺の足は返ってくる球を待って小さく一度跳ねていた。


 ネットで握手をすると、芝の王は一度だけ後ろの壁を振り返った。


 優勝した。センターコートの真ん中で芝の匂いがした。


 ロッカールームでSTATUSを開くと、スピードの数字が一つ上がっていた。

 九十六から九十七。たった一つだ。

 カップを抱えたときより、その一つを見たときのほうが口元が緩んだ。


 カップは置いておけば重さが変わらない。

 数字は開くたびに動いているかもしれない。


 強くなることが、面白かった。


 廊下に出ると千夏が保冷バッグを提げて待っていた。


「補食。何、にやにやしてるの」


「足が、一つ速くなった」


「優勝した日に、それ?」


 千夏は呆れた顔でバナナを俺の手に載せた。

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