第127話 手だけの人
ロンドンに入って七日目の夜、千夏が机の上にノートパソコンを開いた。
その隣に小さな三脚が立っていて、先に小さなカメラがついている。
市場の写真を撮るために買ったのだと思っていたが、レンズは机の真ん中の空白をまっすぐ向いていた。
「動画、始める」
千夏はパソコンの画面を俺のほうに向けた。
まだ何もない白いページの、題名の欄だけが埋まっている。
世界のアスリートごはん。千夏が打った字だった。
「ノートだけだと、届かない人がいるから」
千夏は指で机の上をなぞった。
「選手のお母さんとか、若い子とか、コーチとか。市場で見てきたものを、どうやって食べるのか、なんでそれがいいのか。全部、作るところを見せて、話して、見てもらう」
「俺は」
「喋らないでしょ」
先に言われた。
「顔も、出したくないでしょ」
「出したくない」
試合の映像はもう世界中に流れている。
それとは別に、千夏の台所に俺の顔が映るのは、違う気がした。
千夏は三脚の脚を指で軽く押して高さを合わせ、こちらを見た。
「顔は出さなくていい。手だけ貸して」
手。
自分の手を見た。ラケットを握る手で、指の付け根の皮が厚く固くなっている。
二十年、ラケットを握ってきた手だった。
「手なら、真似したい人が指の形を見られるし」
千夏はそう付け足した。理屈は通っていた。
通っているが、俺の顔を出さないための理屈のほうが先にあった気がする。
「手なら」
千夏はにっと笑った。
試合前の夜に俺の献立を決めるのと同じ顔で、この人は俺の手も決めてしまった。
撮影は翌日の夕方に始まった。
ホテルの簡易キッチンには二口のIHと電子レンジしかない。
流しは小さく、調理台はまな板を置くと半分が埋まる。
千夏はその調理台の上に三脚とカメラと、下ごしらえを済ませた小さなボウルを十個近く並べた。
順番が決まっていた。刻んだ玉ねぎ、量った塩、切った鶏、洗った米。
全部が映る側から見て右から左へ使う順に並んでいる。
テレビの料理番組で見たことのある並べ方だった。
この三か月、千夏はこれを頭の中で組んできたのだ。
カメラの角度は指先だけで合わせた。
三脚の脚を一ミリ動かして、ボウルの縁が画面の端で切れないところにぴたりと合わせる。
レンズを見て声の高さを半音だけ上げる。
「今日はロンドンの市場の鶏と、日本の米で」
台所で俺の名前を呼ぶときより、明るくて高く、語尾がはっきりしている。
「鶏むね肉は、皮を外してから焼きます。皮なしのむねは、百グラムあたり、たんぱく質が二十三グラム前後。脂質はぐっと少なくなるので、試合の前日から前々日に向いています」
説明が正確だった。数字が一つも詰まらない。
千葉の寮の厨房で二十八人分の献立を組んでいた人だと、頭では知っていた。
けれど、この人が俺以外の誰かに向けて栄養の話をするのを、横で聞くのは初めてだった。
机の端に各国の市場で買った食材が並んでいる。
パリの桃の種と、フロリダの黄色い果物の写真。
一月に会社の休みを一週間だけ取って来た、メルボルンの香辛料の小袋もあった。
俺の仕事はカメラの外にあった。
「たくま、お米、研いで」
カメラに映らない位置から小声で言われた。
言われたとおり米を研いだ。
水を入れ、手のひらで軽く押して水を捨てる。
三回。手のひらの下で米粒がざらりと鳴った。
カメラの端に俺の左手首が入った。腕時計をつけたままだった。
千夏は話を続けたまま視線だけでそれを指した。
外せ、という目だった。慌てて外した。
千夏が世界に向かって喋っている。俺の手はその隣で米を研いでいる。
次がおにぎりだった。千夏の台所で一番大事な作り方がここにある。
塩は指先に、米は手のひらに。強く握らない。
握るのではなく、形にする。
炊きあがった米がボウルに入っていた。湯気がまだ立っている。
千夏はカメラのほうを見たまま小声で指示した。
「手に水をつけて。塩をひとつまみ。ごはんを載せて」
言われたとおりにした。手のひらに熱い米の塊が載る。
「三角に、そっと」
そっと形にした。力は入れていない。
手を開くと、まん丸だった。
どこにも角がない。白いボールが一つ、手のひらに載っていた。
何も言えなかった。
千夏はカメラを止めなかった。
「はい、もう一個。三角」
二個目。今度は角を意識して、指で三つ立てた。
形を確かめるつもりで、手のひらの上で軽く一度弾ませた。
トスの前にボールを手の中で弾ませる。二十年の癖だった。
米は跳ね返ってこなかった。
手のひらに落ちたところで角から崩れて、飯粒がぽろぽろと机の上にこぼれた。
「……」
「続けて」
三個目。弾ませずに角を立てた。
立てたつもりだった。手を開くとまた丸かった。
千夏はカメラを止めないまま俺の手を見ていた。
それから真面目な声で言った。
「はい、三個目。それ、ボール」
「三角が、分からない」
言うと、千夏の肩が小刻みに震えた。声を出さずに笑っている。
それでもカメラの中の顔は料理番組の顔のままだった。
球の高さも速さも、この手は一個分ずつ変えられる。
ただ、この手が相手にしてきたのは丸くて跳ね返ってくるものだけだった。
四個目は千夏の手が俺の手を上から包んだ。
手の重さで、そっと。
三角になった。歪んではいたが、おにぎりだった。
千夏はカメラのほうを向いていつもの声で言った。
「はい、できました」
三日後の夜、練習から部屋に戻ると、千夏がパソコンの画面を見つめていた。
「見て」
画面に再生数が出ていた。千夏の動画の一覧に動画が二本並んでいる。
一本目のロンドンの鶏の回は、数字がまだ千に届いていなかった。
二本目の、日本の米でおにぎりを作る回は一万を越えている。
二本目にはあの丸い二個と崩れた一個が、そのまま入っていた。
千夏は編集で切らなかった。
理由を聞くと、あの回が一番ちゃんと伝わるから、と言った。
何が伝わるのかは、聞かなかった。
コメント欄を下へ流した。ほとんどは千夏への質問だった。
鶏むねを焼く温度は何度ですか。パサパサになるのを防ぐには。
塩の量は何グラムですか。
小学生の息子の試合の前に、何を食べさせればいいでしょう。
その隅に毛色の違う書き込みがあった。
手の人は選手ですか。丸すぎる。
手の人、次も出ますか。
二つだけだった。それでも、二つあった。
千夏は机の上のノートを開いた。
表紙には世界・二と書いてあって、その一ページ目に次の回の段取りがもう書きかけてある。
買い物の順番、火を通す時間、映る角度。全部、千夏が一人で決めていた。
「次、メルボルン」
ノートに書きながら千夏が言った。
一月に買った香辛料と市場の魚の話をするのだという。
「たくまは、次も手。丸くてもいいから」
顔は上げなかった。
手でいい。
千夏の道の中に俺の手が一つだけある。
試合の外でこの人のために俺が握れるものは、たぶん今は、おにぎりくらいだった。
自分の手のひらを開いて閉じた。三角が、まだ分からない。
丸いもののほうなら分かっている。
STATUSのサーブの数字は、五月から九十九のままだった。




