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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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126/145

第126話 パリの市場

 全仏の決勝の朝、五時半に目が覚めた。

 下りていくと千夏がもう靴を履いていた。

 決勝の日の朝は一時間だけ歩く、と決めてあるという。


 身体を起こすのにちょうどいいでしょ、と言われて、断る理由もなかった。


 外に出ると空が低かった。朝からむし暑い曇りで、遠くで雷が鳴っている。


 ホテルから歩いて十分のところに朝市が立っていた。

 白いテントが通りの両側に並んで、野菜と魚とチーズの匂いが混ざったまま流れている。


 千夏はその真ん中を迷いなく歩いていく。

 地図は持っていない。この町に来て四日目には店の並び順をもう覚えていた。


 果物屋の前で千夏が立ち止まった。籠に桃が山になっている。

 千夏によれば、決勝の日の補食には桃がいい。


 消化が早くて水分もあり、糖が穏やかに入る。

 理由は説明されたが、値段の話はされなかった。


 鼻の下に髭のある小柄な店主がフランス語で何か言って、指を六本立てた。

 値段だろう。


 千夏は桃を三つ選んで掌に載せ、指を三本立てて店主の顔の前に出した。


「三つで、これ。ね?」


 もう片方の手に小銭が握られている。店主が言った値段よりかなり少ない。

 店主が首を振って早口で何か言った。


 千夏はにこにこしたままうなずいてもう一度言った。


「それ、三つでこの値段」


 値切るときは日本語しか使わない。市場の英語なら話せるのに、身振りと指と笑顔だけだった。

 店主は隣の店の女の人に肩をすくめて見せた。


 女の人は何も言わずに同じ角度で肩をすくめた。


 三往復した。俺には何が三往復したのか説明できない。

 一語も通じていないはずなのに、値段はじりじりと寄っていった。


 店主が両手を上げて天を仰ぎ、小銭を受け取った。


「……ウィ、マダム」


 店主は籠から桃をもう一つ取って袋に足した。

 おまけだ。千夏は日本語でありがとうと言って、袋を俺の手に載せた。


 テントの屋根を大粒の雨が叩き始めた。

 千夏は軒の下を選んで歩きながら、桃の熟れ具合の見分け方を説明していた。軸の周りの色で決まるのだという。


 ホテルの朝食のパンは、その説明のあいだに、どこかへ消えていた。


 今朝の俺は荷物持ちだった。

 決勝は午後三時からで、それまでの仕事は、桃を落とさないことだ。


 決勝より先に、一つ勝った。千夏がだが。


 朝の雷雨は昼前に上がり、むし暑い曇り空だけが残った。

 午後にローラン・ギャロスのセンターコートに立った。同じ相手で、同じ赤い土で、同じ決勝だった。


 ボックスには千夏と圭が並んでいる。

 千夏の膝の上に決勝版の表が開いてあるのが、ここからでも見えた。


 去年は四時間四十二分かかった。

 高い球を百本近く打ち続けて、赤土の魔人のバックハンドをようやく浅くした。


 今年も同じ手から入った。高く、深く、あの男のバックハンドの側へ。

 あの男は一球目からベースラインの二メートル後ろに立っていた。前の年は三セット目まで下がらなかった場所だ。


 崩れなかった。


 一セット目、六対四。取った。


 この冬、早瀬と肩の高さの球を打ち続けた。

 あの高さはもう振り切れる。そう思って二セット目に入った。


 魔人が返してくる。


 頭の上まで跳ね上がる球だった。


 肩の高さを振り切れるようになった分だけ、この男は球を一段上へ上げてきた。回転も重い。

 あの男もあの決勝のテープを見たのだ。


 ならばと低いスライスを一本混ぜ、ドロップショットを一本混ぜた。


 魔人はどちらも待っていた。

 読まれたのではない。この男の足が赤い土のどこにでも届くだけだった。


 二セット目、三対六。


 三セット目。高いところで叩く形を身体が覚えていた。

 上限を広げてきたこの身体は一年前より一歩速い。


 一歩の差でブレークを一つ取った。


 六対四。取り返した。


 四セット目、四対六。

 ボックスの圭は腕を組んだまま一度も表情を変えなかった。


 その隣で千夏が表に何か書き込んでいる。

 補食の時間か、水の量か。ここからは読めなかった。


 二セットずつになった。五セット目に入る。

 去年と同じ形だった。あのときは最後に俺が上にいた。


 クレーの数字は四月に上限を開けてから少しずつ上がっている。

 それでも赤い土の上のあの男の数字は、俺の表のどの数字より上にある気がした。


 同じ高さへ打ち込んでも、返ってくる球はいつも一段高く弾む。


 高く、深く。


 高く、もっと高く。


 打つたびに湿った赤い土が音を立てた。

 返ってくる球は一本ごとに俺の頭の上を越えていく。


 四時間を越えても足はまだ動いている。

 この男の球がこれ以上どこまで高くなるのか、見てみたかった。


 まだ、上がいる。


 五セット目は互いにサービスゲームを守って五対五まで来た。

 魔人がもう一度守って五対六になる。次は俺のサービスゲームだった。


 このゲームは長かった。デュースが四回あった。

 ブレークポイントを二つ守った。


 四度目のデュースのあと、三つ目のブレークポイントが来た。ここを取られたらこの決勝は終わる。

 千夏の表には、こういう場面の補食は書いていない。


 サーブを打った。返ってきた。打ち返した。


 高く、深く。


 魔人が返す。高く、重く。


 十本。


 二十本。


 同じ場所に同じ高さで、どちらも一歩も引かない。

 あとどれくらい続くのかは考えていなかった。


 三十本を過ぎたあたりで、赤い土の湿り具合が足の裏で分かるようになった。

 一歩ごとに砂が靴の下で滑る。滑った先で止まる。


 止まった場所から次の一歩が出る。


 魔人の息が打つたびに短く漏れる。俺のも同じ音だろう。

 聞こえるのはボールがラケットを離れる音と、土が靴の下で鳴る音だけだった。


 三十九本目。魔人のバックハンドがほんの少しだけ浅くなった。


 待っていた球だった。二セット目からこの一本だけを待っていた。

 踏み込んでストレートへ叩き、そのままネットへ詰めた。この決勝でまだ一度も見せていない手だった。


 魔人は届いた。

 届いて、ラケットの面を下から大きく振り上げた。


 ボールが上がった。この日いちばん高い球だった。

 ネットの前から見上げた。頭の上を越えていく。

 下がりながら追った。三歩目で、ボールがベースラインの上に落ちて赤い粉が跳ねた。


 五対七。四時間五十二分だった。


 浅い球は四時間半で一本だけ来た。その一本を俺は待っていた球だと思った。

 あの男のほうは、俺が待っているのを待っていた。


 負けた。……楽しかった。


 握手のあと表彰式があった。準優勝の盾は優勝のカップより一回り小さい。

 隣に魔人が立っている。優勝のカップを両手で持っていた。


 目が合った。魔人は何も言わなかった。

 全米の準決勝で一度だけ、ここでだけだ、と言った男だ。それからは試合が終わっても言葉を使わない。


 ただ、浅くうなずいた。


 うなずき返そうとして、頬に手が届いた。


 口の端が上がっていた。


 夜、ホテルの部屋で千夏が桃をむいていた。

 窓際の机に新聞を広げて、その上で果物ナイフを回している。

 朝の市場の桃が白い皮の下から現れて、机の上に甘い匂いが広がった。


 千夏は決勝の話をしなかった。スコアも四十本のラリーも聞かなかった。

 明日の朝の便が何時か、荷物は宅配に出したか、という話をした。


 それが千夏の負けた夜の話し方だった。


 むき終えた桃を皿に載せて差し出した。


「値切った桃は、甘い」


 一切れ口に入れた。甘かった。朝の三往復の分だけ、たしかに甘い。

 桃の汁が指を伝って手首まで落ちた。


 四つ目の桃はおまけの分だった。

 千夏はそれを半分に切って、片方を自分の皿に置いた。

 桃を食べて、千夏が皮を新聞にくるむのを眺めていた。


 隣の部屋では圭がもう寝ている。

 壁の向こうから咳払いが一つだけ聞こえた。


 窓の外にはパリの夜の屋根が並んでいる。

 雨の上がった屋根の上の空は、六月の初めのまだ明るい色をしていた。


 最後の一切れを口に入れて、四十本目をもう一度頭の中で打った。

 今度はネットへ詰めず、ベースラインでもう一本待った。頭の中のラリーは四十二本目に入ってもまだ終わらなかった。


「来年も、ここに来よう」


 千夏は皮をくるんだ新聞を畳みながら、手を止めずに答えた。


「うん。来年も、市場」

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