第125話 新居
新しい家で最初に覚えたのは階段の三段目の音だった。
引っ越して四日、毎朝その音で目が覚める。千夏が先に下りていく音だ。
二階建ての新居はセンターまで歩いて七分の場所にある。
木の匂いはまだ抜けず、寝室の天井の板の継ぎ目にも目が慣れていない。
センターの門が開くのは七時だ。後輩の早瀬陸は遠征に出ていて、門の前で待つ者もいない。
通用口の閂は、早瀬が来る朝には外しておくのに、俺が先に壁の前にいる朝は門の外から挨拶を済ませるまで入ってこない男だ。
布団の中でSTATUSを開いた。
ミッションの一覧は、一番下の欄が横棒のままだった。
達成期限も失敗ペナルティも、字のあった場所に線が一本あるだけだ。
九か月、毎朝この線を確かめている。確かめても線は線のままだった。
その下に次の行は出てこない。次の一行は自分で書くと決めたが、まだ一字も書いていない。
階段の下で包丁の音が始まった。
四日聞いて分かったのは、この人の朝は音が一つずつ増えていくことだ。
ホテルの朝にはなかった音だ。
包丁、水、鍋の蓋。そのあたりで出汁の匂いが二階まで上がってくる。
窓を開けると隣の屋根の向こうにセンターの照明塔の先が見えた。
ツアーのホテルならコートまでは車で二十分かかる。ここからは歩いて七分で、走れば四分で着く。
近すぎて寝坊できない、と千夏は内見の日に言った。
その千夏が毎朝俺より先に起きているのだから、この家で寝坊の心配をする者は一人もいなかった。
六時に起きる理由は、もうない。
そう結論が出たところで、足はすでに床についていた。
背中が伸びて膝が立ち、頭だけが理由を探したまま布団に置いていかれていた。
……起きた。
着替えて階段を下りた。三段目は俺の足でも鳴った。
台所にはもう明かりがついていた。
千夏は流しの前でこちらに背を向けて何かを刻んでいる。
三段目の音で包丁の調子が一拍だけ変わった。
台所はこの家で一番広い部屋だった。
残った二軒から千夏が最後に選んだ決め手は、窓の位置と、冷蔵庫と流しと調理台が三角形に収まる動線だ。
玄関と寝室の話は不動産屋の前でほとんど出なかった。
ここは千夏の職場でもあるのだ。
冷蔵庫の扉には紙が何枚も貼ってあった。
真ん中の大きな一枚は千夏の字で、補食の棚には手を出さない、と書いてある。
昔より小さくなった字が、ここだけは太い線で、句点まで打ってあった。
その左右に予定表が二枚並んでいる。
俺のツアーの予定表と、千夏の市場の予定表だ。
どちらも十一月まで埋まっていて、大会の名前と市場のある町の名前が同じ月の中に交互に並んでいる。
冷蔵庫の三段目が補食の棚だった。
バナナ、干し芋、ナッツ、小さく切ったチーズ。
試合の前後と練習の合間に食べるもので、つまり俺のためのものなのに俺は触ってはいけない。
理屈は分かっている。
勝手に食べると千夏の組んだ一日の糖質が合わなくなる。
水を飲むついでにその棚へ手を伸ばした。
「そこ、補食の棚」
振り返りもしない。包丁も止まらない。
背中に目がついているのか、冷蔵庫の開く音で段まで分かるのか。
どちらにしても、この台所で千夏に勝てたためしがない。
手を引っ込めた。貼り紙は視界の真ん中にある。
「読んだ」
「読んでるのに手が出るのが、問題」
千夏は刻み終えたものを皿に移して炊飯器の蓋を開ける。
湯気が上がって、米の匂いが台所の端まで伸びていく。
手のひらを濡らし、塩をつまんで握る。
千夏の三角は俺の知るかぎり一度も崩れたことがない。
皿を冷蔵庫の前ではなく調理台の端に置いた。
「たくまの分は、こっち」
塩むすびが二つ載っていた。棚の外だ。
昼前に門の前が騒がしくなった。
窓から見ると、丹羽建設のトラックが道いっぱいに停まっていて、荷台から祖父が降りてくるところだった。
作業服の男が二人、台車を押して続いている。
祖母は一足遅れて助手席から降りた。
祖父は引っ越しの祝いを持ってくるとだけ言っていて、中身は誰にも知らされていなかった。
「表札だ」
祖父は台車の上のものを自分で抱え上げた。
御影石の板だった。
幅は四十センチ近く、厚みは十五センチはあって、丹羽の二字が深く彫り込んである。
表札というより小さな道標だった。
「うちの石だ。百年もつ」
抱えた腕が細かく震えている。
作業服の男の一人が後ろから黙って腰を支えていた。
丹羽建設の現場では、たぶん毎回こうなる。
千夏は玄関から出てきて二字を見ると、しばらく黙った。
それから丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
男たちが工具箱を開けかけると、祖父が手で止めた。
孫の家の表札は自分で付ける、と決めてきた顔だった。
石を持ち上げるのだけは男たちに下を支えさせて、位置を決めるのも金具を締めるのも、祖父が一人でやった。
締め終えると、祖父は腕を組んで一歩下がった。
満足そうな顔だった。旗を立てたときもこの人は同じ顔をしていた。
三十までしか数えたことのない男の家に、百年もつ石が付いた。
その夜、千夏が風呂を使っているあいだに寝室でSTATUSを開いた。
能力ごとの欄の端で、使わずにたまった経験点がそれぞれ積み上がっている。ロンドンから一度も手をつけていない。
上限解放の欄を開くと、指がいつもの順番で動き出した。
三十歳までの残りで割って、元の取れる欄から。これが嫌で正月から何度も閉じてきた。
今夜も指はそこで止まった。閉じかけて、やめた。
割る数はもうないのに、指だけが割り算を覚えている。
割らないなら、何で選ぶのか。
六週間後の赤い土を思った。あの男は去年より高い球を用意してくる。それが見たい。
それからサーブ。相手のいないところから自分の手だけで始められる球だ。
クレーとサーブ。二つ選んで入れた。
入れ終えた指に割り算の重さは残っていなかった。早く壁の前に立ちたくて手のひらがむずがゆい。
翌朝のテーブルには皿が二人分並んでいた。
焼き魚と味噌汁と塩むすびが二つずつ。俺のと千夏のは量が違う。
半分食べたところで、千夏が俺の皿の魚を箸の先で指した。
「骨、右側に寄ってる」
「見えてる」
「見えてても、刺さる」
千夏は食べながら冷蔵庫の予定表を振り返った。
二枚とも十一月の欄で終わっていて、その先は白い。
「十二月からは、何か書く?」
大会の名前なら書ける。書けないのはその横に書くはずだったもののほうだ。
三十歳まで、で埋まっていた欄に今度は何のために強くなると書くのか。
「まだ白い」
「じゃあ、決まったら書いて。あたしの表の隣」
玄関で靴を履くと、千夏がタオルを俺の肩に掛けた。
「いってらっしゃい。十二時に補食」
「十二時に補食」
復唱して門を出た。
祖父の石が朝の光を受けていた。百年もつ石の横を、書くことの決まらないままセンターへ歩いた。




