第132話 100
青いコートの面に、赤いシャツが大の字に広がった。
俺の息は上がっていない。
「……ちょっと、だけ」
何がちょっとなのか、言った本人も分かっていない声だった。
八月の朝六時に始めて二時間目の最後の球だった。
ワイドの深いところに置いた。後輩の早瀬陸は届かないと分かっていて、それでも三歩走って膝が折れた。
走らせてほしいと頼んできたのは早瀬のほうだ。
今朝も門の外で挨拶を済ませるまで入ってこなかった。
俺を見て腰を折りかけ、圭の「声は試合で出せ」を思い出したらしく、息を半分だけ吐いた小さな「おはようございます」だった。
サーブを三十本打ってからラリーに入った。最初の三十分は普通のラリーだった。
早瀬の球は二年前とは別物で、フォアは低く伸びるし、バックも逃げなくなった。
ツアーでも二回戦を越える週が増えている。
問題はその先だ。
ラリーが十本を越えたあたりから、俺は球を隅に置き始める。右の深く、左の浅く、また右。
頼んだ本人は七時ごろからそれを後悔している顔だった。
八時が近づくと、走っているのか歩いているのか分からない動きで、それでも球に触りにいった。
蝉のほうが、よほど元気だった。
俺はボールかごから次の球を一つ取った。
取ってから、打つ先がないことに気づいた。
蝉が鳴いている。早瀬は動かない。コートの上に立っているのは俺だけだった。
倒れた早瀬を見下ろしたまま、ボールを持った手で【STATUS】を開いた。
二時間の練習の前と後で、数字が動いた項目が二つある。
■基礎能力▽
スピード S 99 / 99▽
■ショット▽
フォアハンド S 99 / 99▽
サーブ SS 100 / 100▽
スピードとフォアハンドが今朝九十九に届いた。
通常の上限はここまでだ。その先へ行けるのは金特を持った項目だけだ。
金特は今のところ一つしかないから、SSと表示されているのはサーブだけだ。
ほかの項目もその下の行に揃って並び始めている。
九十九、九十九、九十九。
天井にぶつかって止まるのではなく、天井の下に行儀よく整列している感じだ。
次の金特が来れば、あの中のどれかが百に届く。
来なければ来るまでここで待つ。待つのは悪くない気分だった。
九十八が九十九になる瞬間の重さは、何度見ても同じ重さで、何度見ても飽きない。
少し前の俺なら、この数字を見て真っ先に残りの年数を数えた。
九十九まであと何日。三十歳まであと何年。
数字を上げるのは生き延びるための作業で、楽しいかどうかは勘定に入っていなかった。
今は期限がない。
目覚ましの十分前に目が開いて、その十分を天井に使わなくなったのは、いつからだったか。
期限がないのに朝六時にコートに立ち、二時間打ち続けて、数字を見てまた口元が緩んでいる。
全英から戻ってひと月、これが毎朝の順番になった。起きる、打つ、開く、緩む。
サーブが百のまま、今朝もまた少し速くなった気がする。
数字は動いていないのだから気のせいだ。
気のせいだと分かっていて、それでも面白い。
全英のロッカールームで並べたもう一つの面白さは、ひと月たっても消えなかった。
あの日は一度きりの発見だったものが、今は毎朝数字の形で来る。
……強くなるのが、楽しい。
もう一度言葉にしてみても、やはり当たり前で照れくさかった。
八時ちょうどに千夏が保冷バッグを提げて来た。
時間を守る人で、蝉の鳴きやむ時間よりこちらのほうが正確だ。
夏用の白いキャップに、袖の短い練習着。
コートの入口で足を止めて、倒れている早瀬と立っている俺を、順番に見た。
「生きてる?」
「息はしてる」
千夏は頷いてベンチに保冷バッグを置いた。
ファスナーを開けると、ラップに包んだおにぎりが並んでいるのが見えた。
魔法瓶の蓋を開ける音がして、味噌汁の匂いが蝉の声の下をゆっくり流れてきた。
コートの上で赤いシャツがもぞりと動いた。
「朝ごはん、何ですか」
仰向けのまま天井のない空に向かって言った。
倒れてから三分、一番先に出てきた言葉がこれだった。
千夏は味噌汁の蓋を閉めながら、早瀬のほうを見もせずに答えた。
「起きたら教える」
早瀬はしばらく動かなかった。
動かないままゆっくり右腕を持ち上げて、また下ろした。
自分の身体と話し合いをしているらしい。
それから一気に転がってうつ伏せになり、両手をついて一秒で立ち上がった。
膝は笑っていたが、立った。
「起きましたっ!」
「早いね」
「朝ごはんは、何ですか!」
千夏は肩をすくめて保冷バッグから早瀬の分のおにぎりを一つ出した。
「鮭と昆布。卵焼きは二つ。味噌汁はたぶんぬるいけど、飲める温度」
早瀬は両手でおにぎりを受け取って、その場で拝むように頭を下げた。
声が大きい人間は感謝も声が大きい。
ベンチに座る余裕もなく、コートの真ん中で立ったまま食べ始めた。
千夏が横目で俺を見た。
「たくまも」
「はい」
俺の分は塩むすびだった。二つと、卵焼きが一切れ。
後輩の卵焼きは二つだった。千夏の頭の中には、体重と消費カロリーの比の表があるに違いない。
朝飯を食べ終わると早瀬は休憩室のソファで寝た。
寝る前に「午後は、出ます」と言ったが、あの顔では午後は夕方になるだろう。
俺は一人でコートの脇のベンチに座った。
日陰になった側で蝉は相変わらず鳴いている。
ペットボトルの水を一口飲んで今朝の数字をもう一度思い出した。
スピード、九十九。フォアハンド、九十九。
サーブ、百。
全部、俺の数字だ。
【STATUS】は俺にしか見えないのだから、嬉しいと言っても俺が一人で嬉しいだけだ。
この楽しさは誰と分け合うのだろう。
千夏は数字そのものは知らないが、俺が朝から機嫌がいいことは分かっている。
悠蔵は数字の話をすれば「で、いくら損するの」と聞くだろう。
圭は一つだけ言う。美咲は話を聞く前に打ちたがる。
どの顔を思い浮かべても笑えるのに、この数字の真ん中には誰も入ってこられない。
早瀬は、と考えて休憩室のほうを見た。
俺の全力の球をあの男はまだ一本も返せない。
上の四人なら返してくる。あの男たちは返してきた。
返してきて、その次の球まで用意していた。
ただ、あの四人と打てるのは大会の終わりのほうの年に何度かのコートだけだ。毎朝六時のこのコートには来ない。
強くなるのが楽しいのは本当だ。
ただ、その楽しさはコートの向こう側に届かずに、こちら側で止まっている。
打った球が誰にも返ってこない。壁打ちに近い。
壁打ちなら五歳のときからやっている。
……相手はどこにいる。
蝉が一段大きく鳴いた。全米の開幕まで、あと四週間だった。




