第122話 帯同
式の二日後、成田からアメリカへ発った。千夏と二人で。圭は一便あとだった。
出発ロビーに旗はなかった。祖父は来なかった。
式の旗を片付けるのに名残惜しみすぎて腰を痛めたらしい。
祖母から電話でそう聞いた。
電話の向こうで、祖父が何か文句を言っている声がしていた。
最初の二週間はカリフォルニアの砂漠の大会で、準々決勝で負けた。
千夏はその間、大会の食堂から離れなかった。砂漠の町には歩いて行ける市場がなかった。
砂漠の大会が終わると、東の端のフロリダへ移った。海沿いの町で、会期は三月の終わりから四月の初めまで。
四大大会ではないけれど、砂漠の大会と同じで四大大会の次に大きな大会の一つだ。上の方の選手はほとんど全員が出てくる。
ホテルの部屋に着くと、千夏は荷物を置くなりノートを開いた。
砂漠で使い始めたノートで、表紙に、世界・一、と書いてあった。
「明日の朝、市場に行く」
「市場」
「この町の人たちが何を食べてるか。選手がどこで何を買ってるか」
千夏はホテルの窓から町を見下ろしていた。
「大会の食堂のご飯も全部見る。どの国の選手がどの皿を取ってるか」
千夏の目は仕事の目だった。
千葉の寮の厨房で、二十八人分の献立表の前に立っていたときと同じ目。
「たくまのご飯は?」
「作る。キッチン付きの部屋、取ったでしょ」
取っていた。
千夏が式の前に、全部の大会のホテルをキッチン付きの部屋に変えていた。
「でも、たくまのご飯は仕事じゃないから」
千夏はノートに何か書き込んだ。
「仕事は、世界の方」
「世界の方って」
「市場で見たものを月に一回まとめて、寮の厨房に送る。辞めるとき、会社とそういう約束にしてきたの」
千夏はノートのまだ白いページをめくった。
「下の子が向こうで一品ずつ作って、二十八人が何を残したか返してくれる。残らなかった皿だけ、次のノートに書く」
翌朝、千夏は夜明け前に起きて市場へ出かけていった。
俺が目を覚ましたときには、もう部屋にいなかった。
机の上にメモが一枚置いてあった。朝ごはん、冷蔵庫。
九時までに食べて。
冷蔵庫を開けると、塩むすびが二つと、見たことのない黄色い果物が一つ入っていた。
果物に小さな紙が貼ってある。市場で見つけた。
何か、分からない。調べる。先に、食べてみて。
食べた。甘酸っぱかった。メモの裏に、甘酸っぱい、と書いておいた。
帰ってきた千夏はそれを見てノートに写していた。
三日目の朝、練習の前に千夏の市場についていった。
町外れの大きな屋根の下の市場だった。
果物。野菜。魚。肉。
スペイン語の看板と英語の看板が混ざっていて、朝の市場は人でいっぱいだった。
千夏は慣れた足取りで人の間を抜けていった。
三日目とは思えなかった。
果物の店の前で千夏が立ち止まった。
日焼けした大柄な女の人の店主が顔を上げて、ぱっと明るい顔になった。
「チナツ!」
大きな声だった。
「チナツ! ブエノス・ディアス!」
千夏が手を振った。
「ブエノス・ディアス」
女の人は店の奥から黄色い果物を一つ持ってきた。
昨日の、あの果物だった。スペイン語と英語を混ぜて、何か早口で言う。
千夏はノートを開いて、ときどきうなずき、ときどき聞き返しながら書き留めていた。
三日で、この人とここまで話せるようになっていた。
女の人がようやく千夏の後ろにいる俺に気づいた。
じっと見て千夏に何か聞いた。千夏が英語で答えた。
「My husband」
夫。
女の人は俺を上から下まで見て、にっこり笑って手を差し出した。
「ナイス・トゥ・ミート・ユー」
握手をした。
「ユー・プレイ……テニス?」
「イエス」
「オー」
女の人はうなずいて、千夏の方に向き直り、また果物の話を始めた。
俺のことはそれで終わったらしかった。
この町のこの大会の看板に俺の顔が大きく貼ってあった。
ホテルのロビーのテレビでも、毎晩名前が流れていた。
この市場では俺はチナツの夫だった。テニスを、するらしい人。
隣の魚の店の店主も、千夏に手を振っていた。
「チナツ!」
その隣の、パンの店も。
「チナツ!」
市場の通路を歩くたびに、あちこちから千夏の名前が飛んできて、千夏は一つずつ手を振って返していた。
俺には誰も手を振らなかった。
千葉の寮の厨房では、ノートの人。フロリダの市場では、チナツの夫。
市場の出口で千夏が振り返った。
「……ごめん、待たせた」
「いい」
「退屈だった?」
「いや」
退屈ではなかった。千夏が千夏の名前で呼ばれているのを、横で眺めていただけだ。
チナツの夫という肩書きも、そう悪くない。
初戦の前の夜、ホテルの部屋でSTATUSを開いた。
千夏はキッチンで明日の朝の塩むすびを握っていた。
一番下まで下りていった。
達成期限も失敗ペナルティも、ロンドンの芝の上から九か月たって、まだ横棒のままだった。
それだけを確かめて閉じようとした。
期限がなくなってからも、試合の前の夜には、つい一番下の欄を見てしまう。
三十歳まであと何年。あと何回の四大大会。
明日の試合を落とせば、その分遠くなる。
そう思いながら眠ってきた十何年分の癖だった。
今夜は明日を落としても、何も遠くならない。
表示を閉じるとキッチンから千夏の声がした。
「明日、何時?」
「昼の一時」
「じゃあ、朝ごはん、七時。補食、十一時」
期限がなくても、千夏の献立表の時刻はいつもどおりだった。
期限より献立表の方が、よほど寝つきに効くらしい。
シードの俺は二回戦からだった。初戦はストレートで勝った。次も。
四回戦は三セットまで行った。
相手は二十歳の背の高い左利きで、サーブが速かった。
勝った。
準々決勝。準決勝。
ハードの上だった。ハードはSの一番上の方まで上がっている。
この床の上なら、四人のうちの三人にはたぶん先に立てる。
万能型は別の山の準々決勝で負けていた。
負けた相手の名前をテレビで見たが、知らない名前だった。
四人の一つ下の世代の、二十二歳の選手だった。
決勝の相手はその二十二歳を準決勝で止めたハード特化だった。
二年半前の全米の決勝で、肩の高さのフォアハンドをネットにかけさせた相手だ。
一セット目の序盤、同じ高さに三本続けて送った。三本とも深く返ってきた。
あれから肩の高さを直してきていた。
同じ型では崩れなかった。
別の型を打ちながら探し、探している間の一セット目は、サーブで取った。六対四。
二セット目の三ゲーム目で見つけた。ハード特化のバックハンドのストレート。
三本に一本、ほんの少しクロスに流れる。
次のラリーで流れる側へ半歩先に動いた。
ハード特化の目が、ボールではなく俺の足を見ていた。
打球は流れなかった。まっすぐストレートを抜けて、俺が空けたばかりの場所に落ちた。
次の一本も立った場所の逆だった。
テープを見て覚えてくる男が、今日はテープなしで、その場で覚えていた。
二セット目は三対六で落とした。
三セット目は見つけたものをしまっておいた。
流れる球が来ても先には動かない。真ん中に立ったまま、ただ打ち合った。
二対二で、流れた一本を拾い損ねた。見えていたのに動かなかった一本だ。
見えていて動かないのは、走るより脚にくる。
三対三のハード特化のサーブで、一度だけ深いリターンが二本続いた。そのゲームを取った。
三セット目で初めてのブレークだった。
四対三、俺のサーブ。三十―三十。
この一本を落とせば、次はブレークポイントを握られる。取ったばかりの一つがそのまま消える。
ラリーが長くなった。
クロスに深く送ると、ハード特化はバックハンドで深く返してくる。十本。十五本。
この男も俺がいつ動くかを待っていた。
二十本を越えた。
ハード特化がバックハンドを引いたとき、肩がほんの少し開いていた。
二十本、待ちきった肩だった。
そこで、先に立った。
ボールはクロスに流れて俺の立っていた場所に来た。
ストレートへ打ち返した。ハード特化は一歩も動かなかった。
次の一本もサーブで取って、五対三。
最後のゲームは、ハード特化の方が先に動いた。
バックハンドを流さずにまっすぐ叩いてくる。俺が先に立てば空く場所を狙っていた。
マッチポイントの一本もそれだった。
まっすぐ、強く。俺はまだ真ん中にいた。三歩で届いた。
返した球はハード特化の足元に沈み、上を向いたラケットの面に当たって、ネットの手前に落ちた。
勝った。
表彰式でカップを受け取った。四大大会のカップより、ひと回り小さい。
持ち上げると客席の関係者の席に千夏がいた。
ノートを膝の上に置いて閉じないまま拍手をしていた。
圭はその隣で腕を組んでいた。下を向いても、肩を揺らしてもいなかった。ただ、一回だけうなずいた。
カップを下ろした。結婚してから最初のカップだった。
ロンドンまでの勝利は、全部一番下の欄のためだった。一つ勝てば、三十歳の先に一歩近づく。
期限が消えてからの九か月にも勝った試合はいくつもあった。一月の全豪では準決勝まで行った。どの勝利も、どこにも近づかなかった。重さだけは前と同じだった。何の重さなのかには、名前がなかった。
今日は一つだけ違った。三セット目の先に立っていた場所にボールが来た瞬間を、手のひらがまだ覚えている。
関係者の通路に出ると、千夏が待っていた。ノートはまだ開いたままだった。
「市場のおばさんに、勝ったって言っていい?」
「言っていい」
「たぶん、テニスで? って聞かれる」




