第121話 式
三月の初めの土曜日、柏の小さな式場で式を挙げた。
籍はその一週間前に二人で市役所へ行って入れてあった。窓口の人は届けの名前を見て、一度だけ顔を上げた。
大きな式場は使わなかった。
呼ぶのは、家族と、ずっと近くにいた人たちだけ、と千夏が決めた。
式場の入口に旗が立っていた。白い布に大きな字で、祝。
その下に二人の名前。会社の名前はどこにもなかった。
字の大きさは祖母の言った祖父の普通の半分で、それでも入口の幅いっぱいだった。
式場の人が少し離れたところから旗を見ていた。
祖母が小さく頭を下げると、式場の人は見なかったことにした。
控室の扉が開いて、千夏が立っていた。
白かった。
飾りの少ない、まっすぐな形の白いドレスで、髪を上げて、首の後ろが見えていた。
センターのベンチでしょっぱくて硬い塩むすびを差し出してきた十五歳の女の子が、その白の中にいた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
千夏が首を傾げた。
「……何か、言って」
「白い」
千夏は一瞬黙ってそれから吹き出した。
「知ってる」
笑いながら目元を指で押さえた。
「美咲ちゃんが、絶対白いって言うよって。当たった」
控室の奥で美咲が携帯電話を握って得意そうな顔をしていた。賭けていたらしい。
式は短かった。
誓いの言葉はこの先の何十年かを人前で約束する言葉だった。去年の夏までの俺には言えなかった言葉だ。三十歳から先の日付を勝手に約束することになるから。
今年は言えた。言い終えてから、自分の声が思っていたより普通だったことに少し驚いた。
千夏も言った。千夏の声の方が、少しだけ震えていた。
千夏の左手の薬指に指輪をはめた。
千夏の指は細くて、厨房の水と包丁の柄で少し荒れていた。
十年分の、塩むすびの指だった。
披露宴は式場の二階の小さな広間だった。
丸いテーブルが六つ。
家族と親戚と、センターのスクールのコーチたちと、千夏の職場の人たち。
千葉の寮の厨房で、最初に俺に気づいた同僚も来ていた。
後輩の早瀬も来ていた。白いシャツに、赤いネクタイをしている。
なぜ赤なのかは聞かなかった。
赤い土の冬から、この男の服は、どこかが必ず赤かった。
料理が半分ほど進んだところで、司会の人がマイクを持った。
「それでは、新婦のお父様、藤代圭様より、ご挨拶をいただきます」
広間が静かになった。
圭が立ち上がった。
紺の背広で、顔合わせのときより少し襟が楽そうだった。
千夏の母が仕立て直したらしい。
圭はマイクの前まで歩いていってマイクを受け取り、広間を見回した。
センターのコーチたちが身を乗り出している。
この人の挨拶がどういうものか、知っている人たちだった。
圭が口を開いた。
「一つだけ言う」
広間がしんとした。誰も動かなかった。
圭はマイクを持ったまま、黙っていた。
五秒。広間の全員が待っていた。
十秒。早瀬がナイフとフォークを、音を立てないようにそっと置いた。
十五秒。祖父が身を乗り出していた。
母方の祖父が何か言いたそうに口を開きかけて、母方の祖母に袖を引かれていた。
二十秒。千夏の母がテーブルの下でハンカチを握っていた。
笑うのをこらえているのか、泣くのをこらえているのか、分からなかった。
三十秒。
圭がようやくマイクを口元に近づけた。広間の全員が息を止めた。
「……千夏の飯は、残すな」
圭はマイクを司会の人に返して、自分の席に戻り、座って腕を組んだ。
広間はしばらく静かで、それから、センターのコーチの一人が拍手をした。
拍手が笑い声と一緒に広がっていった。
千夏の母がハンカチで目元を押さえながら笑っていた。
千夏が隣で小さく言った。
「……残したこと、ないのにね」
「ない」
「一回も、ない」
千夏はそう言って少し泣いた。
最後のデザートが出たとき、司会の人がまたマイクを持った。
「ここで、急遽ではございますが、新郎の妹様、丹羽美咲様より、一言いただけることになりました」
美咲がフォークを持ったままテーブルで固まった。
「……え」
美咲のテーブルの横で祖父が満面の笑みでうなずいていた。
司会の人に何か頼んだらしい。美咲は祖父をにらみ、それから祖母を見た。
祖母は首を振った。止められなかった、という顔だった。
美咲はフォークを置いて立ち上がり、マイクの前まで歩いていってマイクを受け取った。
「……えっと」
美咲は広間を見回した。
「やらないって、言ったんですけど」
広間に小さな笑いが起きた。
「兄にも、千夏ちゃんにも、祖父にも。絶対、やらないって、言ったんですけど」
美咲はもう一度祖父の方をにらんだが、祖父はまったく気にしていなかった。
「……一言だけ、話します」
美咲は話し始めた。一言では、なかった。
三歳の頃、兄の壁打ちのボールを拾って回っていたこと。
拾ったボールを誰かに見せたくて、千夏ちゃんに見せに行ったら、千夏ちゃんが下がったこと。
ボール一個分ずつ速くしていたのを見抜いたのが、自分だったこと。
からあげの夜のこと。美咲も、なる、と言ったこと。
成田空港の丹羽建設の旗、三年後の美咲だけの旗、今日の祝の旗。
千夏ちゃんが自分の分のノートも作ってくれていたこと。
手首を痛めた秋に、千夏ちゃんから毎週小包が届いて、中身が全部手首にいいという食べ物だったこと。
半分くらい、本当にいいのか分からなかったこと。
兄の試合を夜中にテレビで見ていると、母がいいところで決まってお茶を淹れに立ち、一番いいところを見逃したこと。
次の朝には父が駅の売店の新聞を全部買って帰ってきたこと。
止まらなかった。
十分たった。司会の人が腕時計を見ていた。
十五分たった。後輩がナイフとフォークをまたそっと置いていた。
二十分たった。美咲は泣いていた。泣きながら、話し続けていた。
「……だから、千夏ちゃんが、お姉ちゃんになるのは、私にとっては、ずっと前から、そうだったことに、名前がつくだけで」
美咲はマイクを両手で握った。
「……以上です」
広間が拍手で揺れた。美咲は真っ赤な顔で席に戻っていった。
今日の披露宴で一番長いスピーチだった。
スピーチはやらないからね。
十二月のセンターのベンチで、そう言った妹だった。
披露宴が終わって控室に戻った。二人だけだった。
千夏はドレスのまま椅子に座って、靴を脱ぎ、足の指を少し動かしていた。
「この靴、もう二度と履かない」
「似合ってた」
「似合うのと履けるのは、別」
千夏は脱いだ靴をそろえて、椅子の下に押し込んだ。
窓の外は夕方で、三月の薄い光だった。
式場の入口の方から祖父の声が聞こえた。
旗を片付けているらしい。片付けるのを名残惜しんでいる声だった。
千夏が窓の方を見たまま言った。
「どこに住む?」
聞かれて考えた。今まではどこにも住んでいなかった。
一年の三百日近くを、どこかの国のホテルで過ごしてきた。
柏の家の子ども部屋は、帰る場所ではあったけれど、住んでいる場所ではなかった。
「ツアー」
答えると、千夏がこちらを見た。
「ツアーは、住所じゃないよ」
「……住所じゃない」
「郵便、届かないでしょ」
届かない。
千夏は考える顔をした。
「会社、先月の末で終わった」
辞めると聞いたのは一月のメルボルンだった。
休みを一週間取って来た千夏が、ホテルの朝食の席で、決めた、とだけ言った。聞いていたのはその一言だけだった。
「名刺も、もう丹羽で刷った」
「……それは、聞いてない」
「言ってない。今、言った」
千夏は足の指をまた動かした。
「厨房の子たちの献立は、下の子に引き継いだ。ノートも全部置いてきた。たくまの以外」
それから、足の指が止まった。
「会社に言った夜は、眠れなかった。二十八人の顔が、朝ごはんを残す子から順番に出てきて」
千夏は窓の外を見た。
「それでも行く。ついていく、っていうのとは違うの。世界のご飯を見に行く。世界中の選手が世界中の町で何を食べてるのか、全部見てみたい」
千夏はこちらを向いた。
「だから、ツアーはあたしの職場になる。でも、住所はいる」
「……柏」
「柏」
千夏はうなずいた。
「センターの近く。小さい家でいい。帰る場所」
「探しとく」
「三軒まで絞ってある。そこから先は、二人で決めたい」
千夏はドレスの横に置いた鞄から紙を三枚取り出した。
不動産屋の間取り図で、どれもセンターから歩いて十分以内だった。
一枚は、センターの塀のすぐ隣だった。
「これは、なし」
「近い方がいいでしょ」
「近すぎる。休みの日も、壁の音が聞こえる」
千夏は少し考えて、それから笑った。
「聞こえたら、行くもんね」
千夏はペンでその一枚に線を引いた。
残った二枚も、台所が広かった。




