第120話 で、次は?
正月の本家はいつもどおりだった。
広間では祖父と祖母が、出前を寿司にするか蕎麦にするかで揉めていた。
毎年のことで、今年は祖母が勝ったらしい。
台所から出汁の匂いがしていた。
父と母は親戚の挨拶に回っていて、美咲は明日の便の荷造りのために、朝のうちに帰っていった。
縁側の日だまりに悠蔵が仰向けに寝転んでいた。
正月なのに背広は着ていない。寝起きのような顔で空を見ている。
悠蔵はまだ独身だった。
見合いの写真は今でもときどき祖父から届くらしいが、返事はいつもどおり、のらりくらりと。
悠蔵の隣に腰を下ろした。庭の向こうに土蔵の白壁が見える。
五歳の春、あの白壁にゴムボールを投げて、跳ね返ったボールを捕っていた。
その日、悠蔵がこの縁側に座って言った。で、次は何に使う?
テニスコート、と五歳の俺は答えた。
この人は、なぜ、とは聞かなかった。代わりに、いくらかかるの、と聞いた。
それから二十年。この縁側で何度も同じ問いを聞いた。
で、次は? センターの土地。屋根のある練習場。
赤い土のコート。プロになる資金。パリと同じ土。
聞かれるたびに答えがあったから答えた。
悠蔵は答えを聞いて手帳に何か書き、「で、いくら損するの」と聞いて、それから「まあ、いいんじゃない」と言った。
悠蔵が寝転んだまま目だけをこちらに向けた。
「おめでとう」
「……どっちの」
「両方」
四つと、結婚。
「ありがとう」
悠蔵はまた空を見た。
しばらく二人とも黙っていると、広間の方から祖父の笑い声が聞こえた。
蕎麦が届いたのだろう。
悠蔵が寝転んだまま言った。
「で、次は?」
答えようとして口を開いた。何も出てこなかった。
で、次は? この問いに答えられなかったことは、一度もなかった。
答えはいつも一番下の欄にあった。四大大会全制覇。
その欄に、今は横棒が引いてある。
次の大会は決まっている。正月が明けたらオーストラリアへ発つ。
でも、それは予定だ。悠蔵が聞いているのは予定ではない。
次に何をしたいのか。何のために。
縁側の日だまりがじわりと動いていた。
庭の木の影が土蔵の白壁の方へ伸びていく。
「……分からない」
この縁側でこの問いに分からないと答えたのは、初めてだった。
悠蔵は何も言わなかった。寝転んだまま空を見ていた。
驚いた顔もしなかったし、手帳も出さなかった。
しばらくして、悠蔵が言った。
「へえ」
それだけだった。感心でも驚きでもない、ただの、へえ。
「……分からないって、言ったんだけど」
「聞こえたよ。分からないんだねえ」
「何か、言わないの」
「言うこと、あるかねえ」
「なんで分からないのか、とか」
悠蔵は少し首を傾けた。
「聞いたことないでしょ。僕が、なんでって」
ない。この人は一度も、なんで、と聞かなかった。
五歳の子どもがテニスコートと言ったときも、赤ん坊が株を当てたときも。
聞かないで、いくらかかるの、とだけ聞いた。
「分からないなら分からないで、いいんじゃない」
悠蔵は空を見たまま言った。
「まあ、いいんじゃない」
それから寝転んだまま腹の上で手を組み直して、目を閉じた。
日だまりがその顔の上まで動いてきていた。
悠蔵がゆっくりと身体を起こして縁側にあぐらをかいた。
ポケットに手を入れて、出てきた手の親指の上に、百円玉が載っていた。
古い百円玉だった。縁がすり減って丸くなっている。
俺が覚えている限り、ずっとこの人のポケットに入っていた百円玉だ。
昼飯の寿司と蕎麦を決めてきた百円玉。
この人が会社の金を預かって、一度も穴を開けずに来たその裏で、何を決めてきたのか、誰も知らない百円玉。
悠蔵は親指の上の百円玉を、俺の方へ少し差し出した。
「これで、決める?」
真顔だった。表が出たら何。裏が出たら何。
次に何をするのか、何のためにテニスをするのかを、百円玉で。
悠蔵を見た。
悠蔵は真顔のまま俺を見ていて、それから口の端がわずかに上がった。
冗談だった。
この人が俺の決めごとで冗談を言うのを、初めて聞いた。
百円玉で寿司を決めるのも本気で、赤ん坊の言うとおりに株を買うのも本気だった人だ。
笑った。声を出して笑った。
この縁側で声を出して笑うのは、子どもの頃以来かもしれない。悠蔵もつられて笑った。
「決めない」
「そう。それがいいよ」
悠蔵は百円玉を指で弾いた。
百円玉はくるくると回って、悠蔵の手の甲に落ちた。
悠蔵はそれを見もせずにポケットにしまった。
「表だった?」
「さあねえ」
「見てないの」
「見たら、決まっちゃうでしょ」
悠蔵はまた縁側に寝転んで空を見た。
「琢真の次は、百円玉じゃ決まらないでしょ」
少しして付け足した。
「僕の昼飯と、違うから」
広間から祖母の声がした。蕎麦が伸びますよ。
悠蔵は動かなかった。
伸びた蕎麦も、まあ、いいんじゃない、という顔だった。
広間で蕎麦を食べた。ちゃんと伸びていた。
祖父が伸びた蕎麦に文句を言って、祖母に、あなたが寿司寿司と言っているからです、と言われていた。
食べ終わってまた縁側に出ると悠蔵はもういなかった。
経理の書類を片付けに会社に寄ってから帰る、と言っていたそうだ。
元日に。
縁側に一人で座っていると、指が膝の上で何かを数え始めそうになった。
分からない、と答えた口のまま座っているのは、思っていたより落ち着かない。
塀の向こうからボールの音がしていた。
ばん、と一つ。少し間があって、また一つ。
塀沿いに回ってセンターに入ると、屋根のある練習場の壁の前で赤いウェアの背中がサーブを打っていた。
後輩の早瀬陸だった。
今朝もここで会っている。
俺が壁の前で打ち始めて少しすると、門の外に白い息を吐いて立っていた。元日なら一番だと思ったのに二番目だった、と本気で悔しがっていた。
早瀬は俺に気づくとラケットを下ろして腰を九十度に折った。
「明けまして、おめでとうございますっ」
「朝も聞いた」
「朝のは、門の外からだったので」
三日に早瀬はオーストラリアへ発つ。ランキングは百二十位台で、全豪は予選からだ。
打つか、と聞くと、練習場の端まで届く声で返事が来た。
外のハードの面で打ち合った。
早瀬の球が十本、二十本と続く。
一球ごとにSTATUSの端で経験点の数字が小さく動いた。
ロンドンから半年、たまった経験点をどの上限にも入れていない。
七月の芝で万能型にはっきり勝ちたい気持ちは、消えていなかった。
けれど上限解放の欄を開くと、指が勝手にどの上限から広げるかを選び始める。三十歳までの残りを割っていた頃の順番だ。それが嫌で毎回閉じてきた。
それでも腕は次のボールを探していて、そこだけは去年までと何も変わらなかった。
三十本を越えたあたりで、早瀬がベースラインの後ろに下がった。
両手打ちのバックハンドを大きく引く。去年の一月、赤土の魔人の役で百本ずつ打たせた構えだ。
高く跳ねる球が来る。半歩下がって待った。
来なかった。
同じ構えから、低く平らな球がストレートを抜けてきた。
手は出た。ラケットの先に当たった球はネットの手前に落ちた。
練習で後輩の球に半歩遅れたことは、これまで一度もなかった。
早瀬は打ち終わりの形のまま止まっていた。自分が何を打ったのかまだ分かっていない顔だった。
魔人の球ではなかった。四人の誰の球でもなく、俺が打たせた球でもない。
STATUSの端で数字が動いた。さっきまでのどの一球より大きく。
「……今のを、もう一回打て」
「今のって、どれですか」
「今のだ」
早瀬は二十球打った。同じ球は一球も来なかった。
高く跳ねるか、ネットにかかるか、フェンスを越えるか。本人にもどこから出てきた球なのか見当がつかないようだった。
日が沈むまで打った。
経験点は最後まで律儀に入って、最後まで行き先がなかった。
片付けのとき早瀬がボールかごを抱えたまま言った。
「明日も来ます。今度は一番に」
「明日は俺も来るぞ」
「じゃあ、門の前で寝ます」




