第119話 妹の道
十二月の終わり、センターの屋根のある練習場で美咲と打った。
年末年始の短い休みだった。美咲は年明けすぐにオーストラリアへ発つ。
俺も正月が明けたら同じ国へ発つ。同じ国の、違う大会へ。
四年前の春、この練習場で美咲はプロになると言った。
ロブの構えから低いパスを打って、兄の知らない打ち方を見せた。
打ち合った。美咲の球はあの頃よりさらに重くなっていた。
十本、二十本と続いた。
美咲がベースラインの少し後ろに下がって、ラケットを大きく引いた。
ロブの構え。
今度は詰めなかった。
低いパスが来た。読んでいた。打ち返した。
美咲の逆へ。
美咲は追わずに、ボールがフェンスに当たるのを見ていた。
「……読まれた」
「前に、見た」
「あのときのままじゃ、ないんだけどな」
美咲はボールかごから次のボールを取った。
また打ち合って、しばらくしてから、美咲がラケットを下ろし、タオルで顔を拭いた。
「来年は百位切りたい」
なんでもないことのように言った。
美咲の今のランキングは百十位台だった。
今年の夏、全英の本戦に出たときは九十位台にいた。
秋に手首を痛めて二か月休み、休んでいる間にポイントが消えていって、戻ってきたときには百十位台に落ちていた。
四大大会の本戦に自分のランキングで入れるかどうかの境目だ。
入れなければ予選から出る。
「百位切ればさ、本戦ちゃんと入れるじゃん」
「うん」
「今年はぎりぎり入れてた。来年はたぶん予選から」
美咲はタオルを首にかけた。
「オーストラリアも予選から。三つ勝たなきゃ」
美咲の声は明るかった。
ここまで明るく言えるようになるまでに、遠征先のホテルで一人、暗い声で言った夜が何度かあったはずだ。俺の知らない夜が。
また打ち合った。美咲のバックハンドが浅い。
手首を痛めた方の打ち方だ。
痛めてから手首をかばって、振り切る前に力を抜いている。だから深く飛ばない。
見れば分かった。直し方も分かった。
手首ではなく、肘から先をもう少し前に出す。
そうすれば手首に頼らなくても振り切れる。
一つだけ言えば、三つ直る。どこかで聞いた理屈だ。
口を開きかけた。
美咲がこちらを見た。何も言わなかった。
ただ見て、それから次のボールを、バックハンドの側へ打ってきた。
打ち返すと、美咲のバックハンドがまた浅くなった。
美咲はそれを自分で見ていた。浅くなったボールがどこに落ちたか。
落ちた場所を見て眉を寄せた。
次の一球。美咲は肘を少し前に出していた。浅くならない。自分で見つけたのだ。
口を閉じた。
あの春、美咲はこの練習場で言った。
おにいちゃんに聞いたら、同じこと言うでしょ。
お前が決めることだ、って。だから、聞かなかった。
今日も美咲は聞かなかった。
打ち合いが続いた。
美咲のバックハンドが一本ごとに、ボール一個分ずつ深くなっていく。
「……何か言いたそうな顔してる」
美咲が打ちながら言った。
「してない」
「してた。さっき。口、開いてた」
「開いてない」
「開いてた。バックハンドのとき」
ばれていた。
「言わなくていいよ」
美咲はボールを打ちながらにっこり笑った。
「もう直したから」
練習のあと、ベンチに並んで座った。
美咲はスポーツドリンクのボトルを両手で持っていて、屋根の下の冬の空気が冷たかった。
「式、三月でしょ」
「三月の初め」
「オーストラリアから帰ってきて、アメリカの大会の前。ちょうど間」
美咲はボトルを振った。
「出られる。予定空けた」
「ありがとう」
「当たり前でしょ。おにいちゃんの式だよ」
美咲はボトルの蓋を開けて一口飲み、蓋を閉めて、きっぱり言った。
「でも、スピーチはやらないからね」
「……頼んでない」
「頼まれる前に言っとく。お母さんが、私に何か一言とか言い出しそうだから」
美咲はボトルを膝の上に置いた。
「私、ああいうの苦手なの。人前で改まって話すの」
「インタビューは、してるだろ」
「インタビューは聞かれたことに答えるだけでしょ。スピーチは話すこと自分で決めなきゃいけないじゃん」
美咲は首を振った。
「無理。絶対無理。何話していいか分かんない。おにいちゃんの子どもの頃の話とかしたら、止まらなくなるし」
「止まらなくなるのか」
「なるよ。ボール拾いの話とか、からあげの話とか、成田の旗の話とか。全部話したら一時間かかる」
一時間。それはもう講演だ。
しかも聞かされる客の半分は親戚で、話の半分には俺が出てくる。逃げ場がない。
「だから、やらない」
美咲はボトルをぎゅっと握った。
「絶対やらない。千夏ちゃんにも言っといて」
「言っとく」
「おじいちゃんにも。おじいちゃん、絶対私に振ってくるから」
「振ってくるな」
「振ってきても、やらない」
美咲はボトルを持ったまま腕を組んだ。固い決意の顔だった。
帰り支度をしながら、美咲が携帯電話をひらひらと振った。
「千夏ちゃんのドレス、試着の写真もらったんだ」
「……見せろ」
「だめ。おにいちゃんには当日まで見せないって約束だから」
美咲は携帯電話をしまった。
「結婚式は、ちゃんと妹として出る。選手としてじゃなくて」
美咲はにっこり笑った。
「妹は、スピーチしないの」
話はちゃんとそこに戻ってきた。
ラケットバッグのファスナーを閉めていると、美咲が言った。
「おにいちゃん」
「うん」
「私、おにいちゃんのあと追ってないよ」
ファスナーを閉める手が止まった。
美咲は自分のラケットをケースにしまっていて、こちらを見ていなかった。
「みんなそう言うの。記者の人とか、テレビの人とか。お兄さんのあとを追って、って」
美咲はケースのファスナーを閉めた。
「追ってない。たまたま同じだけ」
「同じ」
「同じ家に生まれて、同じコートで、同じ壁で打って、同じ時期に同じ職業を選んだ。それだけ」
美咲はケースを肩にかけて屋根の外の冬の空を見た。
「道は同じじゃないよ。おにいちゃんは四つ取った。私は百位を切りたい。それだけでも違う道でしょ」
「……違う」
百位を切りたい、と美咲は言える。来年の行が自分の頭の中にある。
四つ取った方の一覧には、来年の行が一つもなかった。どちらが先の見えている道なのか、すぐには言えなかった。
「おにいちゃんの道は、たぶん上の四人と打つ道。私の道は、たぶんもっと下の方で、いっぱい打つ道」
美咲は指を折って数えた。
「予選で三つ。本戦で一つか二つ。下の大会で、優勝したり、しなかったり。手首を痛めたり、治したり。ランキングが上がったり、下がったり」
全部の指を開いた。
「おにいちゃんが知らない道」
四年前、美咲は兄の知らない打ち方を一つ持っていた。
今は兄の知らない道を一本持っていた。
美咲は練習場を出て、冬の夕方の中を、ラケットのケースを肩にかけて歩いていった。
四年前、プロになると言った十八歳の背中より、少し広かった。
兄のあとを、追っていない背中だった。




