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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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118/145

第118話 両家

 十二月の半ばの日曜日、柏の駅から少し離れた古い料亭の座敷に、二つの家が集まった。

 床の間に水仙が一輪生けてあった。


 長い座卓のこちら側に丹羽の家。

 父と母、祖父と祖母、それから母方の祖父と祖母。

 向こう側に藤代の家。圭と千夏の母。そして座卓の端に、俺と千夏。


 人数が合っていなかった。こちらが六人で向こうが二人。

 千夏の母は座敷に入ってこちらの列を見るなり言った。


「あら、にぎやか」


 圭は笑わなかった。

 紺の背広を着ていて、十月のワイシャツよりさらにきつそうだった。


 全員が座り、仲居さんがお茶を配って下がると、座敷が静かになった。

 誰も口を開かなかった。


 父が座布団の上で背筋を伸ばした。

 父はこの日のために、ネクタイを三回締め直していた。

 家を出る前に二回、料亭の玄関でもう一回。三回目でようやくまっすぐになった。


 父が座卓の向こうの圭に頭を下げた。


「……よろしく、お願いします」


 圭も頭を下げた。


「……こちらこそ」


 それで終わった。二人とも頭を上げて、それきり黙った。


 父は地方銀行の融資の机で三十年近く、初めて会う町工場の社長たちと膝を突き合わせてきた人だ。それがなぜここで黙るのか。

 圭の方は、黙ること自体が本業のようなものだが。


 父がお茶を飲み、圭もお茶を飲んで、同時に湯のみを置いた。

 かちり、と二つの音が重なった。


 二人とも気まずそうに目をそらした。


 千夏が座卓の下で俺の膝を指でつついた。

 見ると、千夏は口元を手で隠していて、肩が少し揺れていた。


 料理が運ばれてきた。先付け。お椀。お造り。

 座敷の空気が少しずつほどけていった。


 千夏の母と俺の母が話し始めた。

 二十年前、公園の入口で母親同士が知り合ったときと同じように。


 幼稚園の話の代わりに式場の話を、夕飯の献立の話の代わりに引き出物の話を。

 祖母がときどきそこに加わった。男たちは黙ってお造りを食べていた。


 お造りの皿が下げられたとき、祖父が箸を置いた。

 座卓の上で両手を組み、背筋を伸ばす。


 祖父が何か言おうとしているのが、座敷の全員に分かった。


 祖父が息を吸った、その瞬間に、祖母が言った。


「会社の名前は、入れないでくださいね」


 静かな声だった。祖父は息を吸ったまま止まった。


「……まだ、何も言ってねえ」


「言う前に、言っておきました」


 祖母はお椀の蓋をそっと閉じた。


「旗にも、引き出物にも、式場の看板にも。丹羽建設の四文字は、どこにも入れないでください」


「入れるなんて、言ってねえ」


「言う顔をしていました」


 祖父は口を開けて閉じて、それから腕を組んだ。


 千夏の母が吹き出して、からからと座敷の天井まで響く声で笑った。

 母がつられて笑い、父の肩が震えていた。


 圭は湯のみを持ったまま動かなかったが、湯のみの中のお茶が小さく揺れていた。


 祖父は腕を組んだまましばらく天井を見ていて、それから小さく言った。


「……祝、だけなら、いいだろう」


「祝、だけなら」


 祖母がうなずいた。


「それと、二人の名前」


「それと、二人の名前」


「字の大きさは」


「普通に」


「普通って、どれくらいだ」


「あなたの普通の、半分」


 祖父は黙った。半分にしても、祖父の字は普通より大きい。


 千夏が座卓の下でまた俺の膝をつついた。今度は二回だった。


 お酒が回り始めた頃、母方の祖父が立ち上がった。


 母方の祖父は市議会で何期も務めてきた議員だ。

 父親の代からも、そのまた父親の代からも、何かしらの議員をやってきた家で、選挙のたびに名前だけの旗が町中に立つ家の主だった。


 年を取っても背筋はまっすぐだった。


 母方の祖父は座卓を回って藤代の家の側へ歩いていき、圭の前で止まった。

 圭が座ったまま顔を上げた。


 母方の祖父が右手を差し出し、圭が戸惑いながら右手を出した。


 握手をしたその瞬間に、母方の祖父の左手が動いた。

 左手が上から圭の右手を包み、両手でしっかりと握って、上下に三回振った。


「どうぞ、よろしく」


 腹の底から出るよく通る声だった。何十年も駅前の街頭で鍛えてきた声だ。


「どうぞ、よろしく、お願いいたします」


 目をまっすぐに見てにこやかに。


 圭は固まっていた。

 両手で包まれた右手を引くこともできずに目を見開いている。

 世界の百十八位まで行った人だった。


 芝の上で、跳ねない球に一度もラケットが合わなかったときでさえ、コートの上で固まったことはなかったはずだ。

 その人が料亭の座敷で固まっていた。


 母方の祖父の握手は長かった。

 上下に三回、それからもう一度、上からぎゅっと握った。


「藤代さんの、最後の全日本。あの日、客席の一番後ろで、見ておりました」


「……は」


「いい試合でした。あの年の、十一月」


 圭の目が少し動いた。引退の年の全日本。

 客席の一番前に八歳の千夏がいた試合だ。


「負けた方の選手を、覚えている客は、少ないんです。わたくしは、選挙で負けた経験がありますから。負けた方を、覚えておくことにしている」


 母方の祖父はようやく手を離した。

 圭は自分の右手をしばらく見ていて、それから小さく頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」


 母方の祖父は満足そうにうなずいて自分の席に戻っていった。

 戻る途中で、仲居さんとも両手で握手をしていた。

 癖らしかった。


 母が額に手を当てていた。


「……お父さん、それ、選挙のやつです」


 小さな声だった。母方の祖父には聞こえていないようだった。


 会がお開きになって料亭の廊下に出た。

 磨かれた板張りの長い廊下で、窓から小さな庭が見える。


 石灯籠に薄く夜露がついていた。


 大人たちはまだ座敷の入口で挨拶をし合っていた。

 父と圭は並んで靴箱の前に立ち、二人とも黙ったまま、同時に靴べらに手を伸ばした。


 手がぶつかって二人とも手を引いた。どうぞ、と同時に言って、また黙った。


 祖父は玄関の外でもうタクシーを呼んでいて、祖母がその横で祖父のマフラーを直していた。

 母方の祖父は料亭の女将と両手で握手をしていた。


 千夏が廊下の窓の前で立ち止まって石灯籠を見ていた。

 それから大きく息を吐いた。


「……疲れた」


「疲れた」


「試合より?」


「試合より」


 本当だった。四時間半の決勝より、三時間の顔合わせの方が、身体の知らないところが疲れていた。


「ねえ」


 千夏が玄関の方を指さした。


「おじさんとお父さん、まだ黙ってる」


 見ると父と圭が靴を履き終えて玄関の外に並んでいた。

 並んで黙って、同じ角度で夜空を見上げていた。


「あれ、たぶん仲良くなってる」


「なってるな」


 五十に手の届く二人だった。どちらも三十の先をとうに越えてきた人だ。

 その先には、ああして黙って並ぶ夜もあるのか。去年までの俺には、考える必要のなかった夜だった。


「補食、いる?」


「いる」


 千夏は鞄の中から小さな包みを取り出した。塩むすびが一つ入っていた。

 半分に割って片方を俺に渡し、二人で廊下の窓の前で塩むすびを食べた。


 千夏は残りの一口を飲み込んで、玄関の二人を見たまま言った。


「三十年たったら、たくまもあれやるのかな」


「やらない」


「やるよ。もうちょっと黙るのがうまくなったら」

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