第118話 両家
十二月の半ばの日曜日、柏の駅から少し離れた古い料亭の座敷に、二つの家が集まった。
床の間に水仙が一輪生けてあった。
長い座卓のこちら側に丹羽の家。
父と母、祖父と祖母、それから母方の祖父と祖母。
向こう側に藤代の家。圭と千夏の母。そして座卓の端に、俺と千夏。
人数が合っていなかった。こちらが六人で向こうが二人。
千夏の母は座敷に入ってこちらの列を見るなり言った。
「あら、にぎやか」
圭は笑わなかった。
紺の背広を着ていて、十月のワイシャツよりさらにきつそうだった。
全員が座り、仲居さんがお茶を配って下がると、座敷が静かになった。
誰も口を開かなかった。
父が座布団の上で背筋を伸ばした。
父はこの日のために、ネクタイを三回締め直していた。
家を出る前に二回、料亭の玄関でもう一回。三回目でようやくまっすぐになった。
父が座卓の向こうの圭に頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
圭も頭を下げた。
「……こちらこそ」
それで終わった。二人とも頭を上げて、それきり黙った。
父は地方銀行の融資の机で三十年近く、初めて会う町工場の社長たちと膝を突き合わせてきた人だ。それがなぜここで黙るのか。
圭の方は、黙ること自体が本業のようなものだが。
父がお茶を飲み、圭もお茶を飲んで、同時に湯のみを置いた。
かちり、と二つの音が重なった。
二人とも気まずそうに目をそらした。
千夏が座卓の下で俺の膝を指でつついた。
見ると、千夏は口元を手で隠していて、肩が少し揺れていた。
料理が運ばれてきた。先付け。お椀。お造り。
座敷の空気が少しずつほどけていった。
千夏の母と俺の母が話し始めた。
二十年前、公園の入口で母親同士が知り合ったときと同じように。
幼稚園の話の代わりに式場の話を、夕飯の献立の話の代わりに引き出物の話を。
祖母がときどきそこに加わった。男たちは黙ってお造りを食べていた。
お造りの皿が下げられたとき、祖父が箸を置いた。
座卓の上で両手を組み、背筋を伸ばす。
祖父が何か言おうとしているのが、座敷の全員に分かった。
祖父が息を吸った、その瞬間に、祖母が言った。
「会社の名前は、入れないでくださいね」
静かな声だった。祖父は息を吸ったまま止まった。
「……まだ、何も言ってねえ」
「言う前に、言っておきました」
祖母はお椀の蓋をそっと閉じた。
「旗にも、引き出物にも、式場の看板にも。丹羽建設の四文字は、どこにも入れないでください」
「入れるなんて、言ってねえ」
「言う顔をしていました」
祖父は口を開けて閉じて、それから腕を組んだ。
千夏の母が吹き出して、からからと座敷の天井まで響く声で笑った。
母がつられて笑い、父の肩が震えていた。
圭は湯のみを持ったまま動かなかったが、湯のみの中のお茶が小さく揺れていた。
祖父は腕を組んだまましばらく天井を見ていて、それから小さく言った。
「……祝、だけなら、いいだろう」
「祝、だけなら」
祖母がうなずいた。
「それと、二人の名前」
「それと、二人の名前」
「字の大きさは」
「普通に」
「普通って、どれくらいだ」
「あなたの普通の、半分」
祖父は黙った。半分にしても、祖父の字は普通より大きい。
千夏が座卓の下でまた俺の膝をつついた。今度は二回だった。
お酒が回り始めた頃、母方の祖父が立ち上がった。
母方の祖父は市議会で何期も務めてきた議員だ。
父親の代からも、そのまた父親の代からも、何かしらの議員をやってきた家で、選挙のたびに名前だけの旗が町中に立つ家の主だった。
年を取っても背筋はまっすぐだった。
母方の祖父は座卓を回って藤代の家の側へ歩いていき、圭の前で止まった。
圭が座ったまま顔を上げた。
母方の祖父が右手を差し出し、圭が戸惑いながら右手を出した。
握手をしたその瞬間に、母方の祖父の左手が動いた。
左手が上から圭の右手を包み、両手でしっかりと握って、上下に三回振った。
「どうぞ、よろしく」
腹の底から出るよく通る声だった。何十年も駅前の街頭で鍛えてきた声だ。
「どうぞ、よろしく、お願いいたします」
目をまっすぐに見てにこやかに。
圭は固まっていた。
両手で包まれた右手を引くこともできずに目を見開いている。
世界の百十八位まで行った人だった。
芝の上で、跳ねない球に一度もラケットが合わなかったときでさえ、コートの上で固まったことはなかったはずだ。
その人が料亭の座敷で固まっていた。
母方の祖父の握手は長かった。
上下に三回、それからもう一度、上からぎゅっと握った。
「藤代さんの、最後の全日本。あの日、客席の一番後ろで、見ておりました」
「……は」
「いい試合でした。あの年の、十一月」
圭の目が少し動いた。引退の年の全日本。
客席の一番前に八歳の千夏がいた試合だ。
「負けた方の選手を、覚えている客は、少ないんです。わたくしは、選挙で負けた経験がありますから。負けた方を、覚えておくことにしている」
母方の祖父はようやく手を離した。
圭は自分の右手をしばらく見ていて、それから小さく頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
母方の祖父は満足そうにうなずいて自分の席に戻っていった。
戻る途中で、仲居さんとも両手で握手をしていた。
癖らしかった。
母が額に手を当てていた。
「……お父さん、それ、選挙のやつです」
小さな声だった。母方の祖父には聞こえていないようだった。
会がお開きになって料亭の廊下に出た。
磨かれた板張りの長い廊下で、窓から小さな庭が見える。
石灯籠に薄く夜露がついていた。
大人たちはまだ座敷の入口で挨拶をし合っていた。
父と圭は並んで靴箱の前に立ち、二人とも黙ったまま、同時に靴べらに手を伸ばした。
手がぶつかって二人とも手を引いた。どうぞ、と同時に言って、また黙った。
祖父は玄関の外でもうタクシーを呼んでいて、祖母がその横で祖父のマフラーを直していた。
母方の祖父は料亭の女将と両手で握手をしていた。
千夏が廊下の窓の前で立ち止まって石灯籠を見ていた。
それから大きく息を吐いた。
「……疲れた」
「疲れた」
「試合より?」
「試合より」
本当だった。四時間半の決勝より、三時間の顔合わせの方が、身体の知らないところが疲れていた。
「ねえ」
千夏が玄関の方を指さした。
「おじさんとお父さん、まだ黙ってる」
見ると父と圭が靴を履き終えて玄関の外に並んでいた。
並んで黙って、同じ角度で夜空を見上げていた。
「あれ、たぶん仲良くなってる」
「なってるな」
五十に手の届く二人だった。どちらも三十の先をとうに越えてきた人だ。
その先には、ああして黙って並ぶ夜もあるのか。去年までの俺には、考える必要のなかった夜だった。
「補食、いる?」
「いる」
千夏は鞄の中から小さな包みを取り出した。塩むすびが一つ入っていた。
半分に割って片方を俺に渡し、二人で廊下の窓の前で塩むすびを食べた。
千夏は残りの一口を飲み込んで、玄関の二人を見たまま言った。
「三十年たったら、たくまもあれやるのかな」
「やらない」
「やるよ。もうちょっと黙るのがうまくなったら」




