第117話 公園の壁
十一月の初めの日曜日、夕方の公園に千夏を呼んだ。
家から歩いて五分の公園だ。ブランコ、砂場、すべり台。
鉄棒が一本増えていたが、それ以外はほとんど変わっていなかった。
公園の奥にあの壁があった。コンクリートの灰色の壁。
五歳の春から毎日夕方にボールを打ち続けた壁だ。
壁の前で子どもが一人打っていた。
小学校の低学年くらいの男の子で、身体の半分くらいの大きさのラケットを両手で握って、壁に向かってボールを打っている。
下手だった。足が近すぎる。肩が回っていない。
打点が身体に近い。ごく普通の、健全な下手さだった。
壁の表面にボールの跡が残っていた。薄い灰色の丸い跡だ。
無数の跡が壁の真ん中のある高さに帯のように並んでいる。
ほとんど同じ高さに、右の端から左の端まで、均等に。
俺の跡だ。
同じ高さに同じ強さで同じ場所へ打ち続け、経験点が減ってからは、高いところと低いところ、右の端と左の端へ打ち分けた。
その跡が雨に打たれて薄くなり、それでもまだ残っていた。
その帯の上に新しい跡がばらばらについていた。
今打っている男の子の跡だ。高いところ、低いところ、ときどき壁の外。
男の子のボールが壁の端に当たって植え込みの方へ飛んでいき、男の子はそれを追いかけて植え込みの中に潜り込んでいった。
壁の前に立って帯のような跡に手のひらを当てた。
冷たかった。五歳の手で触ったときと同じ冷たさだった。
後ろで足音がした。千夏だった。
千夏は壁の前の俺を見てから、壁の跡を見た。
「まだ、残ってるんだ」
「残ってた」
「たくまの跡でしょ。同じ高さの」
「分かるのか」
「分かるよ」
千夏は壁の跡を見上げていた。
「毎日見てたもん」
壁の前から少し離れたところに木のベンチがあった。
何度も塗り直されて、緑だったペンキが今は茶色になっている。
場所だけは変わっていなかった。
千夏がベンチの端に座った。
二十年前、五歳の千夏が座っていた、同じ端だった。
座ってから千夏も気づいたのか、小さく笑った。
隣に座った。
壁の前では植え込みから出てきた男の子が、またボールを打ち始めていた。
ばん。ばん。不規則な音だった。
それでも打つうちに十球に一球くらいは帯の近くに当たるようになっていた。
夕方の光が壁の灰色を少し橙色に染めていた。
言うことは決めていた。決めていた、というより、一つしかなかった。
コートの上なら何でも言葉なしでできた。
ボール一個分ずつ速くすることも、肩の高さに打ち続けることも、正面から上回ることも、全部ボールでやってきた。
これだけはボールではできない。
長く言えば、言っているうちにたぶん崩れる。
圭のように、三分しゃべって止まる。だから、短く。
横を向くと千夏は壁の前の男の子を見ていた。
男の子のボールがまた壁の端に当たって、植え込みの方へ転がってきた。
勢いのない球だった。地面を二度跳ねて、あとは転がるだけの球。
ボールはベンチの脚に当たって千夏の足のすぐ横で止まった。
千夏は足を引かなかった。ボールを拾って男の子の方へ軽く投げ返した。
男の子が、ありがとう、と叫んで、千夏は手を振った。
ラケットのない手の置き場がなかった。膝の上に置いた。
「千夏」
千夏がこちらを向いた。
「結婚してほしい」
言った。
壁の前で男の子のボールの音が一つ響いた。
千夏は動かなかった。目を見開いて、俺の顔を見ていた。
ばん。
壁の前で男の子のボールがまた壁に当たった。
千夏はまだ動かなかった。
答えはすぐには来なかった。来なくてもよかった。
子どもの頃から、この人はボールが来るまでじっと待って、見て、それから打つ人だった。
千夏が口を開いた。
「……もう一回」
小さな声だった。
もう一回。本家のコートで、真っ赤な顔をしてラケットを構え直した子の言葉だ。
ただ、今日の千夏の目は、あの日のように据わってはいなかった。潤んでいた。
「結婚してほしい」
もう一回言った。同じ速さで。
千夏は下を向いた。膝の上で両手を握っていた。
壁の前では、男の子が植え込みから拾ってきたボールをまた打ち始めていた。
千夏が顔を上げた。
「はい」
短かった。千夏の答えも一つだけだった。
それで、足りた。
壁の前で、男の子のボールが壁の真ん中に当たった。
ばん。帯の上の、同じ高さだった。
跳ね返ったボールを男の子が打ち返すと、また同じ高さに当たった。
二球続いたのは、今日初めてだった。男の子は驚いた顔で壁を見ていた。
千夏がそれを見て笑い、笑いながら目元を指で拭った。
「あの子、今、一個分うまくなった」
「なった」
「ずるいよね。今、なるの」
千夏はまた笑った。
公園を出て二人で歩いた。
日が沈みかけて、住宅地の道の街灯がぽつぽつと点き始めていた。
千夏の家と俺の家は、公園を挟んで反対の方向にある。
小さい頃は公園の入口で、それぞれの母親に手を引かれて別れた。
今日は千夏の家の方へ並んで歩いた。
しばらく二人とも黙っていた。黙っているのが気まずくなかった。
二十年、ずっとそうだった。
千夏が口を開いた。
「どうやって言う?」
「誰に」
「みんなに」
みんな。指を折って数えた。父と母。美咲。
祖父と祖母。悠蔵。母方の祖父と祖母。千夏の方は母と、圭。
「お父さんには、もう言ったんでしょ」
「言った。先月」
「知ってる。お母さんから聞いた。三分しゃべったって」
千夏は笑った。
「お父さん、あれから一か月ずっとそわそわしてた。あたしが帰るたびに何か言いたそうな顔して、言わないの」
「言わなかったのか」
「言わなかった。お母さんに口止めされてたから。あなたが言っちゃう前に、琢真くんが言うのよって」
千夏の母は両方に同じことを言い、そのうえ自分は全部しゃべっていたらしい。
角を曲がると、千夏の家の屋根が見えてきた。
千夏がふと立ち止まった。
「ねえ」
「うん」
「おじいさん、旗、出すよね」
祖父の旗。成田の出発ロビーに掲げられた、丹羽建設の旗。
「出すな」
「絶対、出すよね」
「絶対、出す」
「何て書くと思う?」
祖父が何を書くか考えた。
「祝。それと、でかい字で二人の名前」
「会社の名前は?」
「おばあさんが、止める」
「式場に旗、持ち込めるのかな」
「持ち込む」
「警備員さん、困るね」
「たぶん、同じ人が来る」
千夏は声を出して笑った。
夕方の住宅地に千夏の笑い声が響いて、どこかの家の犬が一度だけ吠えた。
千夏の家の前に着いた。
玄関の明かりが点いていて、二階の窓で人影が一つ動き、すぐにカーテンの陰に隠れた。
紺のジャンパーの色が、一瞬だけ見えた。
千夏が二階を見上げて、小さく息を吐いた。
「……見てたね」
「見てたな」




