第116話 一つだけ
十月の初めの土曜日、藤代家の玄関の前に立った。
前の日に電話をしておいた。
明日お話ししたいことがあって、伺ってもいいですか。
電話に出た千夏の母は少し黙ってから、どうぞ、と言った。声が笑っていた。
あの人にも言っておくわね、と。千夏は今日は千葉の寮にいる。
呼び鈴を押すと千夏の母が戸を開けた。
「いらっしゃい」
いつもの大きな声だった。
通された居間は小さく、こたつの布団はまだ出ていなかった。
低いテーブルを挟んで座布団が二枚向かい合わせに置いてある。
圭が座っていた。紺のジャンパーではなく、白いワイシャツだ。
初めて見る圭のワイシャツ姿で、襟がだいぶきつそうだった。
座布団の上に正座すると、千夏の母がお茶を二つテーブルに置いて何も言わずに台所の方へ下がっていった。
下がる前に一度だけ圭の背中を見ていった。
居間の奥に細い薄暗い廊下が見えた。その先に台所がある。
十六年前の三月の夜、あの廊下で、パジャマ姿の八歳の千夏が、この人に呼び止められた。
一つだけ言う。ちゃんと、見てたな。
その話を、大学生になってからの千夏が、一度だけセンターのベンチで話してくれたことがある。
四年待った、一つだけ、だった、と。
圭は湯のみに手を伸ばさなかった。膝の上に両手を置いていた。
俺も湯のみに手を伸ばさずに背筋を伸ばした。
「千夏さんのことで」
膝の上の圭の手がぴくりと動いた。
「結婚を、申し込みたいと、思っています」
言った。
「本人には、まだ言っていません。先に、お話ししておきたくて」
居間が静かになった。
台所の方で何かを置く音がして、それからその音も止まった。
圭はしばらく黙っていた。湯のみから湯気が細く上がっていた。
圭が口を開いた。
「一つだけ言う」
いつもの言い方に、背筋が伸びた。この人の一つだけは、いつも一言で済む。
肘。ハード。低くいろ。休め。さて、今日は何が来るのか。
「……君を、最初に見たのは、公園の壁の前だった。六歳だった。下手だった。だが、直し方が、正しかった。一つ言えば、三つ直した。俺は、あの日、家に帰って、女房に、変な子がいる、と言った」
圭はテーブルの上を見ていた。
「千夏は、その前から、君を見に行っていた。ボールが怖いのに、毎日。女房からそれを聞いて、俺も見に行った。俺は、何も言えなかった。俺の父親は、喋りすぎる人だった。だから、俺は、喋らないことにした。娘には、何も教えないことにした。教えれば、娘のテニスが、俺の顔になる」
圭の声は低くて平らで、止まらなかった。
「君が、ボール一個分ずつ、速くした。千夏は、怒った。それから、もう一回、と言った。俺が四年かけて、一つも言えなかったことを、七歳の君が、一年かけて、ボールでやった。俺は、フェンスの外で見ていて、何も言わずに帰った」
圭は湯のみをちらりと見たが、手は伸ばさなかった。
「中学から、君を見た。俺は、球出しのかごの横から、ベンチを見ていた。君の背中の向こうに、娘の顔が、見えた。あそこが、一番よく見えた。娘が、君の横で、自分のことを見つけていくのを、俺は、あのかごの横から、ずっと見ていた。テニスじゃないところで。俺の顔じゃないところで」
台所の方から物音はしなかった。
「娘は、今、自分の仕事をしている。君のためだけじゃない仕事を。それでいい。それが、いい。君は、それを、分かっているか。千夏は、君の、補食係じゃない。献立表の係でもない。千夏は、千夏の――」
圭がそこで止まった。口を開けたまま壁の時計を見た。
三分たっていた。
圭は自分でも驚いた顔をしていた。眉が上がっている。
五十年近く生きてきて、こんなに一度に話したのは初めてだという顔だった。
圭は口を閉じて、膝の上の手を握り直した。
「……一つに、ならんな」
小さな声だった。
台所の方で誰かが吹き出す音がして、すぐに止まった。
圭は台所の方を、意地でも見ないようにしていた。
圭が何も言わずに立ち上がり、廊下の方へ出ていった。
しばらく座ったまま待っていたが、圭は戻ってこなかった。
立ち上がって廊下の入口まで行った。
圭は薄暗い廊下の真ん中に、壁の方を向いて立っていた。
台所の明かりが奥から細く差している。
八歳の千夏が立っていた場所だった。
圭はこちらを振り向かなかった。
「……ここで、千夏に、一つだけ言った」
「聞いています」
「……そうか」
圭は壁を見ていた。
「あのときは、一つで、足りた」
しばらく黙っていた。
「今日は、足りなかった」
圭が振り向いて、廊下の薄暗がりの中で、俺の顔を正面から見た。
この人に正面から見られたことは何度もある。
コートの上で。ベンチの前で。表彰台の横で。
今日の目は、俺の肘も足も見ていなかった。
「琢真」
名前を呼ばれた。公園の壁の前で会ってから十九年、この人は俺を、一度も下の名前で呼ばなかった。
「……千夏を」
圭はそこで一度言葉を切った。
「……頼む」
圭は頭を深く下げた。廊下の床板を見ていた。
襟のきつい白いワイシャツの背中が、震えていた。
俺も同じ深さで頭を下げた。
「はい」
廊下の奥の台所で湯を沸かす音がしていた。
二人ともしばらく頭を上げなかった。
帰りがけ、玄関で靴を履いていると、千夏の母が見送りに出てきた。
圭は居間に残っていて、居間の方から湯のみを持ち上げる音がした。
やっとお茶を飲んだらしい。とっくに冷めているはずだった。
千夏の母は玄関の上がり框に立って腕を組んでにこにこしていた。
「どうだった?」
「長かったです」
「長かったでしょう」
千夏の母はからからと笑ってから、少し声を落とした。
「あの人、昨日から、練習してたのよ」
「練習、ですか」
「あなたから電話があったって言ったら、黙って二階に上がっていって。夜中まで何かぶつぶつ言ってた」
千夏の母は二階の方をちらりと見上げた。
「今朝も洗面所の鏡の前で、ぶつぶつ。一つだけ言う、一つだけ言うって。何回も」
千夏の母は笑いをこらえるように口元を押さえた。
「それで、あのワイシャツ。十年ぶりに箪笥から出してきたの。襟、きつかったでしょう」
「きつそうでした」
「首回り、太くなってるのよ。現役のときより」
千夏の母はまた笑った。
「一つだけ言う、の練習をして、三分しゃべったのね」
「三分です」
「練習の成果ね」
千夏の母は目尻を指で押さえた。
「あなたの一つだけは、いつも足りないって。あの人に二十五年、言ってきたの」
目尻を押さえたまま、千夏の母は言った。
「今日は、足りたみたいね」
靴を履き終えて立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
千夏の母が玄関の戸を開けてくれた。
「千夏には、あなたが言うのよ」
「はい」
「あの人が言っちゃう前に」
戸の外は秋の夕方だった。居間の方から圭の咳払いが一つ聞こえた。




