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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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115/145

第115話 言えること

 九月の終わりの、日曜日の夜だった。全米から戻って、時差もようやく抜けていた。

 センターの照明はもう消えていて、屋根のある練習場の非常灯だけが緑色に光っていた。


 ベンチに千夏が座っていた。

 夕方からセンターの台所で新しい補食を作っていて、帰る前にここで一息ついていたところだった。


 ベンチの横に自転車が停めてある。

 高校の頃から乗っている自転車で、タイヤだけが新しくなっていた。


 隣に座った。


「ここ、懐かしい」


 千夏が言った。


「十八の誕生日の夜」


「うん」


「梅干し、三百六十五個」


「全部、食べた」


「知ってる。毎年、瓶が空っぽで返ってくるから」


 七年分。七個の瓶。あの夜から、千夏は毎年、次の一年分を数えてくれていた。


 夜の空気は冷たくなり始めていた。

 赤い土のコートの方から湿った煉瓦の匂いがする。


 パリと同じ土に張り替えてから、匂いが少し変わった。

 国道の方でトラックが一台走り過ぎていった。


 しばらく二人とも黙っていた。千夏は膝の上で手を組んでいた。


 言うことは決めていた。全部は言わない。

 転生のことも、STATUSのことも、最終ミッションのことも、心停止のことも言わない。


 言える分だけ。

 十八歳の俺がここで言える分だけ言ったように、今の俺が言える分だけ。


 非常灯の緑が、赤い土の上に薄く落ちていた。


「千夏」


「うん」


 千夏は前を向いたままだった。俺は息を吸った。


「三十まで、生きられないと思ってた」


 言った。声が思ったより小さかった。


 千夏は動かなかった。膝の上の組んだ手も動かなかった。

 国道の方でまたトラックが一台走り過ぎていき、その音が遠くなるまで、千夏は黙っていた。


 理由を聞かれると思っていた。なんで、と。

 病気なの、と。誰かにそう言われたの、と。


 聞かれたらどう答えるか考えてきたが、答えは出なかった。

 本当のことは言えない。嘘はこの人にはつきたくない。


 だから、聞かれたら、言えない、とだけ言うつもりだった。


 千夏は聞かなかった。なんでとも、どうしてとも言わない。

 組んだ手の親指がもう片方の手の甲に爪を立てていた。しばらくそうしてから手をほどき、膝の上に置き直した。


「……そう」


 聞くときは正面から聞く人だ。県大会の帰り道には、あたしとやるときも手を抜いてるの、と聞いてきた。

 その人が今夜は聞かなかった。聞く代わりに、次のことを言った。


 千夏がこちらを向いた。非常灯の緑が横顔に薄く落ちていた。


「生きられないと、思ってた」


 千夏が俺の言葉をゆっくり繰り返した。


「思ってた、なんだね」


「……うん」


「過去形」


「過去形」


 千夏はまた前を向いた。膝の上で手がゆっくり握られていく。


「知ってた」


 千夏が前を向いたまま言った。


「知ってた?」


「理由は知らない。でも、知ってた」


 千夏は笑った。


「なんか、いつも数えてる顔してたから」


 数えてる顔。


「小学生のときから。試合に勝っても、誕生日のケーキの前でも。たくま、ときどきどこか遠くの方を見て、何か数えてる顔してた」


 千夏は指を一本ずつ折っていった。


「一、二、三、って。口は動いてないのに、目が数えてるの」


 知らなかった。そんな顔をしていたのか。


「十八の誕生日の夜、ここで三十までテニスするって言ったでしょ」


「言った」


「あのとき、分かった。数えてたの、それだったんだって」


 千夏は指を全部開いた。


「三十まで、って。変な数字だと思った。ずっと、でもなくて、引退まで、でもなくて。三十」


「中途半端だって、言われた」


「言った。区切りがいいなら、ずっと、って言えばいいじゃんって」


 七年前の、国道の信号の前だ。この人は全部覚えていた。


「たくまって変なところで数えるよねって、言った」


「言われた」


「あれ、半分、冗談じゃなかった」


 千夏は膝の上で手を組み直した。


「数えてる理由は聞かないことにしてた。聞いたら、たくま困るでしょ」


「困る」


「だから、聞かなかった。聞かないで、梅干しを数えることにした」


 三百六十五個。一年分ずつ。


 この人の方がずっと正確に数えていた。


「梅干しの数、一度も間違えなかったな」


「間違えたよ。一回だけ」


「いつ」


「おととしの夏に渡した瓶。次の二月がうるう年だった。三百六十六個入れなきゃいけなかったのに、三百六十五個」


 千夏は少し悔しそうだった。


「二月二十九日の分、足りなかったでしょ」


 気づかなかった。その一日を、俺は梅干しなしで生きていたらしい。


 しばらく二人とも黙っていた。コートの周りの草むらで虫が鳴いている。

 九月の虫の声は夏より細い。


 千夏が口を開いた。


「今は?」


「今は、数えてない」


 嘘ではなかった。


 あのロンドンの芝の上で、ボールが外に落ちてから、数えることをやめた。


 やめた、というより、数えるものがなくなった。

 目覚まし時計より先に目が開くこともだんだん減ってきて、この一週間で二回、目覚ましの音で起きた。


「数えてない」


 もう一度言った。


 千夏はしばらく俺の顔を見ていた。何かを確かめるような目だった。

 今度は俺も前を向かなかった。千夏の目を見ていた。


 非常灯の緑の中で千夏の目が揺れた。

 それから千夏は目をそらし、膝の上の手をほどいて立ち上がった。


「……そう」


 さっきと同じ二文字だったが、声が違った。


 千夏は自転車のハンドルに手をかけた。


「帰る」


「送る」


「いい。自転車だから」


 千夏は自転車にまたがり、ペダルに足をかけて、それから止まった。

 振り返らずに言った。


「……数えてないなら」


 千夏はペダルを踏んだ。

 自転車がセンターの門を出ていき、テールランプが国道の方へ小さくなっていった。


 ベンチに一人で座っていた。


 数えてないなら。その続きを、千夏は言わなかった。


 続きを言うのは、俺の番だった。

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