第114話 千夏の仕事
八月の初め、北米の大会へ発つ前の週に、千葉の海沿いの町の会社の寮を訪ねた。
千夏の勤め先だ。
大きな会社の運動部の寮で、女子バレーボール部と陸上の長距離部が、同じ敷地に寮を構えている。
寮の一階に選手たちの食堂があり、その奥に厨房があった。
千夏はそこで働いていた。入社して三年目になる。
大学で栄養学を学んで、卒業研究で八年分の俺のノートをまとめ、それと一年分の美咲のノートを持ってこの会社の面接に行った、と前に電話で聞いた。
受付で名前を言うと受付の女性が俺の顔を見て目を丸くした。
それから何も言わずに内線の電話を取った。
しばらくして厨房の奥から千夏が出てきた。
白い調理服を着て白い帽子に髪を全部しまっている。
センターの台所でエプロンをして立っている千夏しか、俺は知らなかった。
「来たの?」
「来た」
「来るなら、前の日に言って。見学の届け、出さなきゃいけないんだから」
「昨日、決めた」
千夏は眉を寄せ、厨房の入口の棚から白いエプロンを一枚取り出した。
「届けはあたしが書いとく。見学なら、これ」
手渡された。四大大会を全部取った男が、見学者用のエプロンを。
「それと、手を洗って。爪の間まで」
厨房は広かった。
大きな鍋がコンロの上にいくつも並び、ステンレスの調理台がずらりと続いている。
壁際の棚に大学ノートが何十冊も並んでいた。
背表紙に手書きの字がある。バレー部・二〇〇七。
バレー部・二〇〇八・前期。長距離・夏合宿。長距離・駅伝前。
その棚の一番端に色の違う古いノートがひと束差してあった。
たくま・一。たくま・二。
センターのベンチで、中学三年の千夏が、俺の脚を書き始めたノートだった。
千夏の字は昔より少し小さくなっていた。
調理台の向こうで若い女性が野菜を切っていた。
千夏と同じ白い調理服で、千夏より二つか三つ年下に見える。
その人が包丁を止めて顔を上げ、俺をしばらく見てから、ぱっと顔を明るくした。
「あ、ノートの人だ」
ノートの人。
「ノートの人?」
「そうです。藤代さんの、一番古いノートの人」
その人は棚の端の古いノートを包丁の柄で指した。
「たくま・一から、たくま・二十二まで。藤代さん、新しい選手の献立を組むとき、いつもあれを開くんです。十五歳の男の子が何を食べて、どれだけ背が伸びたか、全部書いてあるって」
全部、書いてあるらしかった。
「私、入ったときに研修で、あのノート全部読まされました」
「全部」
「全部です。高一の冬に、からあげを食べすぎた日のことも」
千夏が横から咳払いをしたが、その人は気にしなかった。
「ずっとノートの人って呼んでました。実物、初めて見ました」
実物、という言い方をされた。
「テレビで見てる人じゃ、ないんですか」
「テレビは、見てません。忙しいので」
その人はきっぱり言った。
「でも、ノートの人は知ってます。ノートの人のおかげで、うちの長距離の子たち、夏にばてなくなったので」
その人はまた野菜を切り始めた。とん、とん、とん。
千夏がまた咳払いをした。
「ほら、仕事して。お昼、十一時半からなんだから」
「してます」
その人は包丁を動かしながら、にこにこしていた。
白い帽子の縁の下で千夏の耳が赤くなっていた。
昼の食事の準備が始まった。千夏は調理台の端で今日の献立表を広げていた。
バレー部十六人分、長距離十二人分。
一人ずつ名前が書いてあって、その横に細かい数字が並んでいる。
「この子は先週、貧血の数値が下がったから、鉄を多めに」
千夏は紙の上の一人の名前をペンで指した。
「この子は膝を痛めてて練習量が落ちてるから、全体を少なめに。でも、たんぱく質は減らさない。この子は試合前だから、炭水化物を三日前から増やしていく」
ペンが紙の上を一人ずつ動いていった。二十八人分。
俺の知らない名前ばかりで、その一人ずつに、千夏は俺にしてきたのと同じことをしていた。
昨日の体重。今日の練習。明日の試合。身体が何を必要としているか。
食堂に選手たちが入ってきた。
背の高い女の子たち、細くて日焼けした女の子たちが、トレーを持って配膳の列に並ぶ。
千夏は配膳の台の後ろに立って一人ずつトレーに皿を載せていった。
「今日、脚どう?」
「ちょっと重いです」
「そう。じゃあ、これ全部食べて」
皿の上の量がその子だけ少し多かった。
「昨日はちゃんと寝た?」
「六時間です」
「足りない。今日は七時間」
千夏は選手の顔を見て皿を選んでいた。顔色、目の下、歩き方。
センターのベンチで、俺の顔を見て補食の袋を選んでいたのと、同じ目だった。
昼の配膳が終わると、千夏は調理台に戻って今日誰が何をどれだけ残したかを紙に書き込んでいた。
「すごいな」
言うと、千夏はペンを止めなかった。
「すごくない。これが仕事だから」
それから一度だけ手を止めた。
「たくまの分は、仕事じゃないけどね」
ペンがまた動き出した。
千夏は俺についてきたのだと、ずっと思っていた。
十五歳でノートを持って、高校も大学も俺のために栄養の勉強を選んだのだと。
壁際の棚には何十冊ものノートが並んでいて、俺の分はその端のひと束だった。
夕方、寮の門の前まで千夏が送ってくれた。
調理服から私服に着替えていて、海の方から潮の匂いの風が吹いていた。
「駅まで歩ける?」
「歩ける」
「じゃあ、ここで」
千夏は門の柱に手をかけた。
「来週、柏に帰るから。センターの補食、新しいの作ってく」
「うん」
「……期限、なくなったんでしょ」
足が止まった。千夏は海の方を見ていた。
「全部取ったら、ほっとした顔すると思ってた。あとでテレビで見返したら、ほっとした顔じゃなかった」
「どんな顔だった」
「分かんない。初めて見る顔」
千夏はそれだけ言って門の中に戻っていった。
振り返らなかった。
駅までの海沿いの長い道を一人で歩いた。
期限、と千夏は言った。STATUSも最終ミッションも心停止も知らないのに、期限と言った。
十八歳の夜の「三十まで」を、千夏はどこかにしまっていたのだ。
ずっと隣にいて、一度も踏み込まなかった。
三十歳で心臓が止まるかもしれない男が、隣の人に何を言えるのか。
言えば、その人は一緒に数えることになる。三十まであと何年、あと何日。それだけはさせたくなかった。
千夏が自分で選んだ厨房を今日まで見に来なかったのも、たぶん同じだ。
見れば、踏み込みたくなる。
海からの風が背中を押していた。駅が見えてきた。
一緒に数えさせる数字は、もうない。それでもまだ言えないのは、なぜか。
理由と呼ぶには情けないものが一つ残っていた。
四大大会を全部取った男の、最後の壁にしては低すぎる。
言うのが怖い。
改札の前で切符を買おうとして、小銭を一枚足元に落とした。
決勝のマッチポイントでも指はこんなふうにはならなかった。




