第123話 何のために
決勝の夜、ホテルの部屋の明かりを消した。
千夏はもう隣のベッドで、こちらに背中を向けて眠っていた。
静かで規則正しい寝息が聞こえていた。
吸って、吐いて。一定の間隔で。
千夏の枕元にノートが一冊置いてあった。
世界・一。砂漠から数えて一か月で、半分くらい埋まっていた。
市場の果物。大会の食堂の皿。どの国の選手が何を取っていたか。
チナツ、と呼ぶ店主たちの名前。
厨房のノートと同じ、小さくなった千夏の字だ。
窓の外でフロリダの夜の海の音がしていた。
千夏が海の音が好きだと言ったから、窓を少し開けていた。
ベッドに仰向けになって暗い天井を見た。
ホテルの天井は、どこの国でも、だいたい白くて平らで、何も書いていない。
その下でいつも何かを数えていた。三十歳まであと何年。
四大大会まであと何回。
今夜は数えるものがなかった。
千夏の寝息なら数えられる。吸って、吐いて。一、二、三。
……数えていることに気づいて、やめた。癖というのは、期限より長生きするものらしい。
なんか、いつも数えてる顔してたから。
センターのベンチで、千夏はそう言った。
今もそういう顔をしていたのだろう。暗くて誰にも見えないのが幸いだった。
今日の決勝の三セット目、先に立っていた場所にボールが来たあの瞬間。
面白い、と思った。
打ち消さなかった。打ち消す理由がもうなかった。
六年前の夏、ニューヨークのホテルで一度同じことを思った。万能型に全部が一段下だった夜だ。
面白い、で心臓は動かない。そう言い聞かせて打ち消した。
あの頃は心臓を動かすためにテニスをしていた。
三十歳の先へ行くために。面白いかどうかは関係なかった。
関係ないことに、していた。
でも、打ち消したあの夜から、本当はずっと面白かった。
四人の突き抜けていない場所を一つずつ見つけていったときも、万能型と最後まで勝ち負けの見えない試合をしたときも。
昨日届かなかった球に今日は届く。上限を広げれば、身体があとから追いついてくる。その手応えも全部。
面白いと思うたびに期限の数字の下に押し込んできた。
押し込んだ本人が気づかないふりを続けていたのだから、世話はない。
ロンドンのベンチで一番強く願ったのは、もっと強くなりたい、だった。
来年と言ったあの男に、次はボール一個分ではなく、はっきりと勝ちたかったからだ。
隣のベッドで千夏が寝返りを打ってこちらを向いた。
眠ったままだった。
口が動いて何か言ったが、聞き取れなかった。
献立の話だろう。この人は眠っていても、誰かの明日の朝ごはんを組んでいる。
面白いものなら、もう一つあった。
元日のセンターで早瀬が打った一球。
高く跳ねる球の構えから、低くまっすぐ抜けていった。打った本人もどこから出てきた球なのか見当がついていなかった。
もう一回打て、とあのとき言ったのは俺だった。
経験点のためではなかった。次の一球が見たかった。
あれから何度も打ったが、あの球は一度も来ていない。
次に来たとき、俺は半歩遅れずにいられるだろうか。
考えていると眠気が遠のいた。試合の前の夜でもないのに。
でも、面白いだけでは足りなかった。
面白いから強くなる。
強くなって、あの男にもう一度、ボール一個分ではなく、はっきりと勝つ。
それで、その先は。
あの男に勝って、四つをもう一度取って、もっと強くなって、それは何のためなのか。
面白いから、というのは理由だろうか。半分は理由だった。
残りの半分が見えなかった。
生きるために打っていた頃は、全部が理由だった。
一球ずつが三十歳の先への一歩で、一日ずつが心停止から遠ざかる一日だった。理由は一つで足りた。
今はその一つがなくなって、代わりに、面白い、が残った。
面白い、は、一つでは足りない気がした。
面白いだけなら、壁に向かって打っていても面白い。
千夏は世界の食事を見に行くと言った。
世界中の選手が世界中の町で何を食べているのかを見て、誰かの献立を組むために。千夏には千夏の、何のために、がある。
俺には。
もっと強くなりたい。面白い。それは何のために、の答えではなかった。
何のために、の手前の何かだった。
で、次は?
悠蔵の声が聞こえた気がした。縁側で、分からない、と答えてから三か月。答えはまだ出ていない。
それでも今日は勝った。明日は柏に帰る。
式の翌日に二人で見て回って決めた、センターから歩いて七分の台所の広い小さな家に。
答えの出ないまま次の大会に出て、そのまま打つ。それでいいのかどうかも決められなかった。
ただ、それを怖いとは思わなかった。
STATUSを開いた。暗い部屋の中で薄い青い光が目の前に広がった。
赤ん坊の頃から、毎晩のように開いてきた表示だ。
一番上から順番に見ていった。
基礎能力。ショット。球種。コート適性。特殊能力、センス○、天才肌。
どの欄も上限はロンドンの夜のままだ。使っていない経験点だけが、端の方で黙ってたまっている。
ミッションの一覧は、達成した行が消えたあと、次の一行が出てこない。
一番下の最終ミッション。横棒。空白。横棒。
次の一行は自分で書く。三十歳を越えても見つからないかもしれない。
それでもいい。三十歳の先はある。
金特。獲得制限、解除。空っぽの棚。
獲得、と書いてある以上、何かを取ってきて並べる棚なのだろう。
何をどこで取るのかはどこにも書いていない。不親切な説明書だ。
閉じて、もう一度開いた。棚は空のままだった。
三度目を開こうとして、開いた回数を数えている自分に気づいた。癖は本当に、期限より長生きする。
表示を閉じた。薄い青い光が消えて、部屋が暗くなった。
千夏の寝息が聞こえた。吸って吐いて。今度は、数えなかった。
目を閉じた。
生きるためのテニスは、終わった。
眠る前に、確かなことを一つ思い出した。
明日の朝ごはんは、七時だ。
何のために生きるのかは、分からない。
何時に食べるのかは、千夏が決めてくれている。




