第112話 空白の意味
四日後、日本へ帰る飛行機に乗った。
窓際の席で隣の通路側に圭が座っていた。
離陸して一時間で圭は腕を組んだまま眠ってしまった。
機内の明かりが落とされ、窓の外は夜になった。
小さな画面の地図の上で飛行機の印がゆっくりと東へ動いていく。
毛布を膝にかけてSTATUSを開いた。
あの日から何度も開いた。開くたびに一番下の欄を見た。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
――
成功報酬
失敗ペナルティ
――
横棒は四日たっても横棒のままだった。成功報酬の欄も、空白のままだった。
赤ん坊の頃からずっと空白だった欄だ。
四つ取れば何か出るのだと思っていたが、出なかった。
それから特殊能力の欄まで上がっていった。
センス○。天才肌。その下に、表彰台の上で見つけた欄がある。
■金特▽
獲得制限 解除
こちらも四日前から変わっていなかった。
金特。表彰台の上では何のことか分からなかったが、四日眺めているうちに、字の見当だけはついた。
金色の特殊能力。センス○や天才肌より一段上の種類なのだろう。
四人が持っているもの。
赤土の魔人の、赤い土の上の足。芝の王の、芝の上の手首。
表で見たことのある一番上の数字より、さらに上の何か。
制限は見たときにはもう外れていた。ただ、外れているのは制限だけで、中身は空っぽだった。棚だけができて、何も置いていない。
空白の報酬と、空っぽの棚。
並べて眺めているうちに飛行機が一度揺れ、圭が眠ったまま腕を組み直した。欄の方は揺れても何も変わらなかった。
センターコートのベンチでタオルをかぶって考えたことを、もう一度なぞった。
万能型のパスがボール一個分外に落ちた瞬間。一番強く思ったのは、もっと、強くなりたい、だった。
来年、と言ったあの男に、次はボール一個分ではなく、はっきりと勝ちたい。
そのために、もっと強く。
あの日の芝の上で流れながら落とした腰の低さ。あれをもう一段先まで欲しがっていたのは、頭より先に身体の方だった。
金特の欄に気づいたのは、そのあとだ。
表彰台の上でカップを抱えたまま開いた表示に、もう増えていた。獲得制限、解除。
今の表の数字のその先へ行くための棚なのかもしれなかった。
もっと強くなりたいと願った男に、もっと強くなるための棚が渡された。
偶然だろうか。
成功報酬の欄は、赤ん坊の頃からずっと空白だった。
空白だったのは、何もないからではなく、まだ決まっていなかったからではないか。
達成した瞬間に、その人間が一番強く願ったもの。それが報酬になる。
だとすれば、前もって書いておけなかったのも当然だ。願いの方がまだなかったのだから。
確かめようはない。STATUSのどこにも説明は書いていない。
経験点も上限も全部自分で数字の動きを見て推測してきた。
その推測はだいたい当たってきた。
十四歳の夏の夜のことを思い出した。
本家の庭の隅で千夏と二人で線香花火を持っていた。
最後まで落ちないと、願いがかなうんだって。
千夏がそう言った。俺の玉は千夏の玉より長くついていた。
願い、何にしたの。
何も。
嘘ではなかった。三十歳の先がない男には、願う先もなかった。
あの日から十一年。初めて願った。
もっと、強くなりたい。
もしそうなら、確かめる方法はあるかもしれなかった。
もう一度、何か別のものを強く願ってみる。
小さなものがいい。
大きなものを願って何も起きなかったら、がっかりの方も大きくなる。
小さくて、はっきり分かるもの。
機内の明かりがまた点いた。
通路の向こうから食事のワゴンの音が近づいてくる。夕食の時間だ。
決まった。
目を閉じて強く願った。
からあげ。からあげ。醤油と、しょうがと、にんにく。
揚げたての、衣の端が少し焦げたやつ。
決勝のボールが外に落ちた瞬間と同じくらいの強さで。
からあげ。
目を開けてSTATUSを開いた。変わっていなかった。
金特の欄は空っぽで、成功報酬の欄も白いままで、からあげはどこにも表示されていなかった。
ワゴンが俺の席の横で止まった。客室乗務員がにこやかに英語で言った。
「Fish, or……」
言いかけて、ワゴンの中を覗き込み、困った顔をした。
「……fish?」
魚か、魚か。チキンは前の方の席でなくなったらしい。
魚を受け取った。白身の魚と野菜と、付け合わせの米。
隣で目を覚ましていた圭も魚を受け取って付け合わせの米を一口食べた。
「……米が、硬い」
どこの米もこの人には硬いらしかった。
願いは何でも叶うわけではないのだろう。四つ取った瞬間の、一回きり。
あるいは、からあげに懸ける気持ちが決勝のマッチポイントに届いていなかったか。……届いていた気もするが。
圭が横目で俺のトレイを見た。
「……何を、がっかりしている」
「からあげが、なかった」
「……機内に、からあげは、ない」
圭はそれだけ言ってまた米を食べた。
魚はおいしかった。
食事のトレイが下げられたあと、ミッションの一覧を開いた。
一行ずつ上がってきた一覧だ。
町の大会。県の大会。全国の大会。国際大会。
プロの大会。ツアー。四大大会。全部の行が達成して消えていた。
最後に消えたのは、四大大会で優勝する、の一行だった。
その一行があった場所を、しばらく見ていた。
その下には、何もなかった。
今までは一行を達成すると、その行が消えて、下から次の一行が上がってきた。
いつも次の一行が先に待っていた。二年前の秋からは、一番下の最終ミッションがその一行だった。
今は待っていない。
赤ん坊の頃から、この表示が俺の行き先を決めてきた。
どこへ行けばいいのか、何をすれば次に進めるのか。
分からなくなったときは一覧を開けば、次の一行がそこにあった。
その一行が、もうない。
次のミッションがいつか出てきて、それを達成した瞬間に、また一番強い願いが報酬になるのだろうか。
窓の外が明るくなってきた。
東の空の端が薄い青に変わり始めている。日本の方角だった。
飛行機は迷わず朝の方へ飛んでいて、それがうらやましかった。
表示を閉じた。隣では圭がまた眠っていた。
次の一行を誰も書いてくれないなら、誰が書くのか。




