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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
未来・結婚

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111/144

第111話 翌朝

 目が覚めた。いつもの時間だった。


 目覚まし時計はまだ鳴っていなかった。鳴る十分前に目が開く。

 二十年近く、ずっとそうだった。


 ロンドンのホテルの白い天井。カーテンの隙間から夏の朝の光が細く差していた。


 身体を起こそうとすると脚が重かった。昨日、四時間半も芝の上を走った脚だ。


 枕元の机に金色のカップの小さな複製が置いてあった。

 本物はクラブに返して複製の方を持って帰ってきた。


 それを見て昨日のことを順番に思い出した。

 ボール一個分。芝の匂い。シバダ。


 STATUSを開いて一番下まで下りていった。

 期限の欄に、横棒が一本、引いてあった。


 夢ではなかった。表示を閉じ、起き上がろうとして止まった。

 起きて、何をするのか。


 いつもなら考えなくてもよかった。起きる。

 顔を洗う。千夏の献立表のとおりに朝食を食べる。


 練習に行く。理由は全部、一番下の欄にあった。

 三十歳、心停止。

 あの二つの言葉があったから、毎朝、目覚ましより先に目が開いた。


 一日練習を休めば、三十歳までの日数が一日無駄になる。

 今日は休んでも、もう何も減らない。


 天井を見ながら考えた。起きる理由が、ない。

 二十四年と十一か月、一度もなかったことだ。


 ないものを探してみた。試合はしばらくない。

 次の大会まで一か月あまりある。


 来年、と言った万能型に、次ははっきり勝ちたい。それは昨日のベンチで思った。

 けれど来年の七月は、今朝ベッドから出る理由にするには遠すぎた。


 理由を探しているうちに目覚まし時計が鳴った。

 鳴るに任せて、しばらく聞いていた。


 この音を最後に聞いたのがいつだったか、思い出せなかった。

 いつも鳴る前に止めていたから。

 目覚まし時計というのは、こんなにうるさいものだったのか。


 手を伸ばして止めてから、また天井を見た。


 顔を洗って部屋を出た。


 理由は見つからなかった。

 見つからないまま、身体がいつもどおりに動いて、気がつくとラケットバッグを肩にかけて廊下に出ていた。


 廊下の向こうから圭が歩いてきた。圭もいつもの時間だった。

 紺のジャンパーを着て、手にはクリップボード。練習の予定を書き込む、いつもの板だ。


 圭は俺の肩のラケットバッグを見て、それからクリップボードを見た。

 クリップボードの紙は白かった。今日の予定が一行も書いていない。


 圭はしばらく白い紙を見ていてから顔を上げた。


「一つだけ言う」


 廊下は静かで、どこかの部屋で掃除機の音がしていた。


「……今日は、休め」


 休め。十二年間、この人の口から一度も聞いたことのない言葉だ。

 雨の日も熱のある日も、この人はコートに来いと言った。打たなくていい、見ていろ、と。


「休む」


 繰り返すと、圭はうなずいてクリップボードを脇に挟んだ。


「俺も、休む」


 圭は自分の部屋の方へ戻っていき、ドアの前で一度立ち止まった。

 振り返らずに言った。


「……休み方は、知らん」


 ドアが閉まった。


 廊下に一人残されて、肩のラケットバッグを下ろした。下ろしてから置き場所に迷った。

 休み方を知らない師匠の弟子は、ラケットバッグの置き方も知らなかった。


 ホテルの近くの公園に行った。

 休むとは何をすることなのか分からなかったので、とりあえず座ることにした。


 公園は広く、刈っていない柔らかい芝生がどこまでも続いていた。

 ベンチに座ると目の前の芝生で犬が走っていた。


 ベビーカーを押す人、ジョギングをする人、新聞を広げて芝の上に寝転がっている人。

 みんな休んでいた。休み方を知っている人たちだった。


 座っていた。五分、十分。


 手持ちぶさただった。

 手のひらが何かを握りたがって、ラケットのグリップの太さに、指が勝手に丸まっている。


 指を開いてまた座っていた。二十分、三十分。


 ジョギングの人が、目の前を通り過ぎていった。

 その足の運びを見ていた。右、左、右。着地がかかとから。


 あれだと膝に来る。見るのをやめた。


 四十分。

 ベンチの前の芝を見ながら、刈っていない芝の上でボールはどう跳ねるのだろう、と考えて、考えるのをやめた。

 五十分。一時間。


 気がつくと足が動いていた。

 ベンチに座ったまま、両足のつま先が交互に、小さく地面を叩いている。


 右、左、右、左。スプリットステップの前の、細かい足踏みだった。

 相手が打つ瞬間に両足で小さく跳ねて、どちらにも動けるようにする、その前の準備の足だ。


 座ったまま足が準備をしていた。止めても三十秒たつとまた動いている。

 昨日の芝の上で四時間半この足踏みを続けたのだ。


 隣のベンチの老人が新聞の上から俺の足を見ていた。

 何か言いたそうな顔をしてから新聞に戻った。


 休むとは何をすることなのか。

 一時間かけて分かったことは、一つだけだった。


 俺の足は休み方を知らない。


 夕方、ホテルの近くの貸しコートに行った。

 結局、行った。圭には言わなかった。


 ボールかごを一つ借りてコートの端に立った。

 相手はいない。サーブを打つことにした。


 ボールを三回ついて、トスを上げて、打った。

 サーブは向こうのサービスコートの、センターのラインの上に落ちた。


 経験点が入って、STATUSの端で数字が小さく動いた。


 もう一球、ワイドへ。入った。経験点も入った。

 打つたびにトスの下で膝が沈む深さが気になった。昨日の朝までより指一本分深い。

 決勝の芝の上で流れながら腰を落としたときの低さが、一晩たっても脚に残っていた。


 もう一球、もう一球。深く沈んだ分だけボールが前で捕まる。

 ボールかごが空になるまで打って全部入った。経験点も律儀に全部入った。


 入る。どこへ。


 ボールかごの横にしゃがんでSTATUSを開いた。

 昨日の決勝の分と今日のサーブの分で経験点がたまっていた。


 これでどこかの上限を広げられる。広げた上限まで、練習で上げられる。


 上げてどうするのか。


 拾いかけたボールを握ったまましばらく動けなかった。

 それから表示を閉じてボールを拾い集め、ボールかごをもう一度いっぱいにした。

 トスを上げて打った。入った。


 身体はそれでいいと言っていた。打てば入る。

 入ればたまる。昨日より一段沈む膝が、もう次のボールを待っている。


 頭だけが、ついてこなかった。


 コートの外の道を誰かが通り過ぎていった。

 振り向くと、紺のジャンパーの背中だった。圭だ。

 圭はこちらを見ずに、ボールかごを一つ提げて隣のコートに入っていった。


 そして一人で球出しの練習を始めた。誰もいないコートの向こうへ、一球ずつ丁寧に。

 休め、と言った人の休日がこれだった。


 球出しの一球一球が、十二年前と同じ高さだった。


 フェンス越しに目が合った。二人とも何も言わなかったし、どちらも手を止めなかった。

 俺はトスを上げた。

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