第11話 じいちゃん
その日は朝から母親の様子が違った。
掃除機をいつもより長くかけ、玄関の靴を二度並べ直し、座布団を押し入れから出してきて、ぱんぱんと叩く。鼻歌も歌っていない。
「そんなに気を遣わなくていいって。親父なんだから」
「あなたのお父さんだから気を遣うんですよ」
父親は俺を抱き上げて言った。
「いいか琢真。じいちゃんは声がでかいけど、怒ってるわけじゃないからな。泣くなよ」
念を押すあたり、父親自身が子どもの頃よく泣かされたのだろう。
「それと、じいちゃんが何かくれても、あんまり喜びすぎるなよ。調子に乗って、次は庭に砂場を作るとか言い出すから」
「あら、いいじゃないですか、砂場」
「前に上の兄貴のところでそれをやって、ダンプで砂を十トン持ってきたんだよ。甥っ子たちは大喜びだったけどな」
十トン。
砂場の単位ではない。
一歳の誕生日に届いた、自力で立つ封筒を思い出す。
父方の祖父は本当に加減というものを知らない人らしい。
一升餅の日に来た母方の祖父は、背広に議員バッジの人だった。今度はどんな人が来るのか。
俺は居間の柵につかまって立ち、玄関の方を見ていた。
昼過ぎ、家の前に車が止まる音がした。
エンジンの音が父親の車とは違う。低くて太い。
玄関の戸が開くと同時に声が飛び込んできた。
「おう、邪魔するぞ」
大きな声だった。
大きいというより、よく通る。怒鳴っているわけではないのに、家の奥まで届く。外で大勢の人間に指示を出すことに慣れた声だ。
居間に現れたのは五十半ばくらいの男だった。
背はそれほど高くない。けれど肩幅が広く、首が太い。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。仕立てのいい背広を着ているのに、どこか作業着の方が似合いそうな人だった。
「琢真、じいちゃんのことを覚えているか?」
言いながら、祖父は俺を柵の向こうからひょいと抱き上げた。
覚えていない。
生まれた直後に一度会ったきりで、そのときの俺は目が見えていなかった。
正月は熱で会えず、誕生日は封筒だけ。顔を合わせるのは、これが実質的に初めてだ。
代わりに、手を見た。
俺を支える手は分厚く、指の節が太い。爪の間に、洗っても落ちない何かが残っている。背広の男の手ではなかった。
俺はその指を握った。
握ったのは半分は反射で、半分は打算だった。
ほふく前進の効率が落ちてきた今、新しい動作は貴重だ。
加減はしたつもりだった。
けれど、この指は太すぎて基準がよく分からなかった。
祖父の眉が上がった。
「お。……おお?」
「こいつ、握りが強いな」
「でしょう。最近、なんでも掴むんですよ」
母親が少し誇らしげに言った。
「いい握りだ」
祖父は俺の手を見下ろし、にやりと笑った。
「土建屋の手になるぞ、こりゃ」
父親が台所でちょっとだけ嫌そうな顔をした。
「そうだ、土産だ」
祖父は背広のポケットから小さな箱を取り出した。
箱を開けると黄色いミニカーが出てきた。
ショベルカーだった。
手のひらに乗るほどの大きさで、先端のバケットがついたアームが、関節のところで曲がるようになっている。車輪ではなく、ちゃんとキャタピラがついていた。
「うちの現場で使ってるのと同じ型だ。ほれ」
祖父は俺の手にショベルカーを握らせた。
俺はアームをつまんだ。
関節を、曲げる。伸ばす。バケットを下ろして上げる。
テクニック +1
入った。
スプーン以来のテクニックの稼ぎ場だ。しかもスプーンと違って粥をこぼさない。母親の午後を犠牲にしなくていい。
アームを曲げる。伸ばす。バケットで床の上の積み木をすくう。
すくえた。積み木がバケットの中に収まっている。
テクニック +1
コントロール +1
「……おい、見ろ」
祖父が身を乗り出した。
「すくったぞ。こいつ、積み木をすくった」
「たまたまだろ、親父」
「たまたまで、アームをあんなふうに畳むか。見ろ、ちゃんと手前に引いてから上げてる。うちの若いのより上手いぞ」
祖父は膝を叩いて笑った。
俺は無言で二つ目の積み木をすくった。
人前では気をつける。その方針は変わっていない。
もっとも、封筒を自力で立たせる大人の前では、少しくらい目立った方が得な気がした。
祖父は俺の顔を覗き込んだ。
「琢真。お前、大きくなったら何になる」
一歳児に聞く質問ではない。
だがこれは好機だった。
言うべき言葉は決まっている。
テニス。三文字。この人に、今のうちに種を蒔いておく。
「……て」
「て?」
祖父が耳を寄せてきた。
続けろ。「に」だ。舌を上の歯の裏につけて――
「て……」
そこで、祖父の方が待てなかった。
「て、か」
祖父は俺の小さな手を持ち上げた。
「手だ。そうだろう、手だな。こいつは自分の手が何になるか分かってるぞ!」
「親父、たまたまだって」
「たまたまで『て』と言うか。土建屋の手だ。なあ、琢真」
違う。
テニスの「て」だ。
祖父は上機嫌で俺の手を振り回した。
「おむつ」「えんだ」に続き、俺の意思は三度目の誤訳を記録した。
この家の大人たちは俺の言葉を自分の聞きたいように聞く。中でもこの人は、聞き終わる前に聞きたいように聞く。
手を振り回されながら、ショベルカーのアームだけは律儀に動かしていた。
テクニック +1
後に世界の頂点を目指すことになる男が、スプーンとコップの次に握った道具。
それはラケットではなく、ショベルカーだった。
後世の伝記に書かれたら、たぶん編集者に削られる類の事実である。
祖父は夕方まで居間に座っていた。
父親と母親が交互に茶を運び、祖父は俺を膝に乗せたまま、ずっと喋っていた。
話の半分は俺には分からない固有名詞だった。どこそこの市議がどうした、どこそこの組合がどうした。
残りの半分は分かりすぎるほど分かった。
「駅前の話、動くぞ。うちも一枚噛む」
「再開発ですか」
「ああ。あとは道路と、川の堤防の方もな。仕事は向こう十年は切れん」
再開発。道路。治水。
祖父の口から出てくるのは町の形そのものを変える仕事ばかりだった。
丹羽建設はこの辺りでは知らぬ者のいない会社らしい。封筒の「社長」は、やはりこの人だった。
壁のカレンダーの会社がようやく人の形になった。
「お前も、銀行なんぞ辞めてうちに来りゃいいのに」
「それはもう何回も話したろ、親父」
「分かっとる。言ってみただけだ」
祖父はつまらなそうに鼻を鳴らし、湯呑みを空けた。
膝の上で、俺はショベルカーのアームを動かしながら考えていた。
金を持ち、多少の危険を承知で動き、子どもの言葉にも耳を傾けてくれる大人。
金はある。町の未来に自分から一枚噛みにいく人間なら、危険も承知の上だろう。
条件の三つのうち二つまでは満たしている。
残る一つ――子どもの言葉に耳を傾けてくれるかどうかは、分からない。
少なくとも、この人は赤ん坊がショベルカーで積み木をすくうのを見て、膝を叩いて笑う人だった。
夕方近く、祖父は庭に出てしばらく家の周りを歩いていた。
縁側から、母親に抱かれてその様子を見ていた。
祖父は塀の高さを目で測り、庭の土を靴先で蹴って、隣の空き地の方をじっと眺めていた。
「親父、何してんの」
「いや。この辺りの土は、水はけがいいなと思ってな」
「……うちの庭に、また何か作る気じゃないだろうな」
「作らん作らん。十トンの件は、懲りた」
祖父は笑ったが、目は、まだ隣の空き地を見ていた。
土地を見る目だ。
前世で、不動産屋の営業に物件を案内されたときに、こういう目を見たことがある。値段をつける前の目。
この人は目に入る土地を全部、頭の中で値踏みしている。
そして、その土地がこれから上がり続けることを、この人はまだ知らない。
知っているのは、縁側の一歳児だけだ。
帰り際、祖父は玄関で靴を履きながら振り返った。
「正月は本家に来い。琢真も連れてな」
「分かってるよ」
「あいつも、たまには顔を出すだろう」
あいつ。
父親が苦笑した。
「下の兄貴、また見合い断ったんだって?」
「断ったんじゃない。かわされたんだ。のらりくらりと。誰に似たんだか」
祖父は心底うんざりした顔をして、それから少しだけ笑った。
「まあいい。会社の金勘定を任せて、一度も穴を開けたことがない。あいつは、損はせん男だ」
車の太いエンジン音が遠ざかっていく。
融資規定の夜に父親が話していた下の兄。
会社の金を預かり、見合いをのらりくらりとかわす、損をしない男。
どんな人間なのかは、まだ分からない。
それでも損をしない男なら、損をしない話には耳を貸すかもしれない。
その正月が少し待ち遠しくなった。
手の中で黄色いショベルカーのアームが、かちりと音を立てて畳まれた。




