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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
転生・生存条件

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第10話 未来の記憶

 最初の言葉を何にするか。


 これは重要な問題だった。


 赤ん坊が初めて口にする言葉は、たいてい「まんま」か「ママ」か「パパ」だと相場が決まっている。そして、どれを選ぶかで家庭内の力関係が変わる。前世で同僚がそんな話をしていた。

「娘の最初の言葉が『ママ』だったせいで、俺は三年間、家で二番手だった」


 そういうものらしい。


 俺の場合、事情はもう少し複雑だ。


 最初の言葉はただの言葉ではない。

 いずれ俺はこの家の大人たちに、ありえないことを言わなければならなくなる。未来の話。金の話。テニスの話。そのとき、少しでも耳を傾けてもらえる土台を今から作っておきたい。


 候補は三つ。


「ママ」。母親の好感度が上がる。ただし母親は俺が何をしても「元気ねえ」と言う人だ。好感度が上がっても、あまり変わらない気がする。


「パパ」。父親の好感度が上がる。父親は疑り深い。その疑り深さを今のうちに溶かしておくのは悪くない。


「まんま」。無難。誰の好感度も上がらないが、誰も傷つかない。


 三日考えて、俺は「ママ」を選んだ。


 理由は単純で、一日の大半を一緒に過ごしているのが母親だからだ。練習の邪魔をされないためには、母親を味方につけておくのが一番いい。


 計画は完璧だった。


 問題は口が計画どおりに動かなかったことだ。


 その日の夕方、父親が帰ってきた。


 いつものように玄関で靴を脱ぎ、ネクタイを緩めながら居間に入ってくる。

 俺はそのとき、ちょうど発声練習の最中だった。


 「ま」の口の形を作る。唇を閉じて開く。

 まずは唇を閉じて――


「ぱ」


 破裂した。唇の閉じ方が少し強すぎたのだ。

 「ま」になるはずだった音が勢い余って「ぱ」になって飛び出していく。


 しかも、身体はそこで止まってくれなかった。


「ぱぱ」


 居間が静まり返った。


 父親がネクタイを半分ほどいた姿勢で固まっている。


「……今、言ったよな」

「言いましたねえ」

「パパって、言ったよな!?」


 父親が俺を抱き上げた。高い。天井が近い。


「琢真! パパだぞ、パパ! もう一回!」


 違う。今のは事故だ。


 けれど父親の顔を見て、訂正する気が失せた。

 普段は窓口の規則と支店長の出勤時間にぼやいてばかりの男が、見たことのない顔で笑っている。


 父親はその後三日ほど上機嫌だった。

 朝、支店長の愚痴を一度も言わずに出ていった。


 問題はもう一人の方だった。


 翌日から母親の様子が変わった。


「琢真。ママ、ですよ。マ、マ」


 俺の顔を覗き込み、ゆっくりと口の形を見せる。

 掃除機をかけながら、「ママ、ママ」。洗濯物を干しながら、「ママ」。離乳食のスプーンを差し出しながら、「はい、ママ」。


 おっとりしているようで、この人は存外に負けず嫌いだった。


 俺は一週間かけて、「まま」を習得した。

 母親は父親の三日を上回る五日間の上機嫌を記録した。


 家庭内の力関係は、どうにか均衡を保った。


 九月の連休が明けた夜だった。


 父親がネクタイも緩めずにテレビの前に座り込んでいた。

 ニュースの画面には、どこかの外国のホテルと、並んで立つスーツ姿の男たちが映っている。


「――週末にニューヨークで開かれた先進五か国の蔵相《ぞうしょう》・中央銀行総裁会議の、ドル高是正の合意を受けて、連休明けの東京市場は――」


「まいったな」


 父親がぼそりと言った。


「どうしたんですか?」

「円高になる。たぶん、すごく」

「それって困るんですか?」

「うちの取引先、輸出の町工場が多いんだよ。ドルで稼いでるところは、みんな苦しくなる」


 母親は「ふうん」と頷いて、父親の前に麦茶を置いた。

 俺も半分くらいしか分かっていなかった。


 ただ、残りの半分は知っていた。


 ドル高是正。先進五か国。ニューヨークのホテル。


 プラザ合意だ。


 学生時代、社会科の教科書で読んだ。試験に出るからと、年号と一緒に丸暗記した単語。まさか、それを生中継で見る日が来るとは思わなかった。


 そして教科書にはその続きが書いてあった。


 急激な円高。

 景気を支えるための金融緩和。

 あふれた金が土地と株に流れ込み――


 バブル景気。


 地価は上がり続け、株価は上がり続け、誰もがこのまま上がり続けると信じた。

 そして、弾けた。


 時期までは正確に覚えていない。けれど九〇年代の初めには崩れていたはずだ。そこから長い、長い不景気が続く。


 それだけではない。


 俺はこれから三十年ほどの間に世の中で何が起きるのかを、すべてではないにせよ、大まかに知っている。

 好景気とその崩壊。インターネットの普及。今はまだ誰も名前を知らない会社が、世界中の人間の生活を変えるほどに成長すること。


 これらの知識をうまく使えば大金を稼げるだろう。


 コートも、指導者も、遠征費も。

 いつかの朝に並べた「金さえあれば」の答えが、まるごと手の届くところに転がっている。


 問題は一歳児の言葉に耳を貸すような出資者はいないことだ。


 そもそもまだまともに喋れない。

 語彙は「まんま」「ぱぱ」「まま」「ぶー」の四つ。そのうち一つは事故である。


 仮に喋れたとして何と言う。


「父さん、今のうちに土地を買って、九〇年までに売って」


 一歳児がそう言ったら、俺なら病院に連れていく。


 父親は窓口の規則を毎晩ぼやくような、真面目な若手の銀行員だ。

 赤ん坊の突拍子もない話で家の貯金を株につぎ込むどころか、そういう無茶をする客を止める側の人間である。

 母親に頼むのは、もっと無理がある。


 俺に必要なのは、金を持ち、多少の危険を承知で動き、子どもの言葉にも耳を傾けてくれる大人だ。


 そんな都合のいい人間がいるものか。


 テレビではアナウンサーが為替の数字を読み上げていた。

 一ドル、二百三十円台。


 前世の感覚からすれば冗談のような数字だ。

 この数字がこれから何年もかけて、信じられないほど動く。


 俺は父親の膝によじ登った。

 テレビの数字を指さす。


 言え。

 一言でいい。この人の取引先の町工場がこれから苦しくなる。その一言の、最初の一音でいい。


「……え、ん」


 父親が俺を見下ろした。


「え?」


「えん……だ」


 「か」が出なかった。

 舌がその音の作り方をまだ知らない。


「えんだ?」


 父親はしばらく考えて、それからぱっと顔を明るくした。


「おい、聞いたか! 琢真が新しい言葉を喋ったぞ!」

「あら、なんて言ったんですか?」

「えんだ、って! ……えんだって、なんだろうな」

「さあ。えんだ、えんだ。かわいいですねえ」


 俺の生涯で最初の経済予測は、「えんだ」という謎の新語として、丹羽家に温かく迎えられた。


 父親は俺の頭を撫でた。


「テレビの数字なんか指さして。お前にはまだ早いぞ、琢真。お前が大きくなる頃には、もっと落ち着いてるさ」


 残念ながら、落ち着く予定はない。


 それから父親の帰りが遅くなった。


 九時。十時。ネクタイを外す手つきが日に日に乱暴になっていく。

 夕飯を温め直す母親に、父親はぽつりぽつりと話した。取引先の社長が頭を下げに来た。輸出の注文が止まった。融資を増やしてくれと言われても、支店の規則で出せない。


 テレビのニュースは毎晩のように為替の数字を読み上げた。


 二百二十円。二百十円。

 いずれ、二百円を切る。


 知っているとおりだ。

 知っているとおりに、父親の顔が疲れていく。


 予言が当たるというのは、もう少し気持ちのいいものだと思っていた。


 言葉が駄目なら、指がある。


 ある朝、父親が食卓で新聞を広げていた。

 俺は父親の膝によじ登り、新聞の一面をめくった。二面。三面。目当てのページが分からない。


 でたらめにめくっていくと、細かい数字がびっしり並んだページに行き当たった。

 株価の欄だ。


 俺はその数字の列を指でばんばん叩いた。


 ここだ。

 ここに、未来がある。


「お?」


 父親が新聞を覗き込んだ。


「……株価欄が好きなのか、お前」


 今のうちに買え。


 父親はしばらく俺の指の先を眺めていた。それから小さく笑って、新聞を畳んだ。


「株はな、琢真。お金が余ってる家がやるもんだ。うちは余ってない」


 今度は正しく伝わって、正しく断られた。窓口の向こう側の人間らしい、一番まっとうな答えだった。


 それでも俺は、新聞が広げられるたびに膝によじ登って株価欄を叩いた。

 父親はそのたびに「うちは余ってない」と同じ答えを返した。


 ある晩、父親は俺を膝に乗せてぼんやりとテレビを見ていた。


「えんだ」


 俺が言うと父親は力なく笑った。


「そうだなあ。えんだ、だなあ」


 意味は伝わっていない。

 けれど今度は少しだけ当たっている気がした。


 父親の膝の上で、俺は【STATUS】の最終ミッションを開いた。


 達成期限 三十歳


 三十年の間に起きることを、俺は知っている。

 知っていて、まだ一円にも換えられない。

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