第108話 最後の一冠
日曜日の午後二時にセンターコートに入った。
二週目の芝はもう緑ではなかった。
二週間、何十人もの選手の足に踏まれて、ベースラインの後ろは芝の葉が消え、茶色い土が出ている。
ネットの前だけがまだ緑だった。
一万五千人が立ち上がって拍手をしていた。
ネットの向こうに万能型がいた。五年前のニューヨークから一度も勝っていない男。
万能型のサーブからだった。
万能型がトスを上げた。高く上がって一瞬止まるトス。
サーブがワイドに来た。芝の上で低く外へ逃げていった。
届かなかった。
一ポイント目から先にいた。
打ち合いになれば、万能型は俺の打つ先にもう立っていた。
読む。この男がどこへ動くか。読んだ先へ、打つ。
打った先に、この男がいた。
俺が読むことを、この男は読んでいた。北京と同じだった。
読みの一段上。
一度だけブレークされて一セット目は四対六。
ベンチに座ってタオルを顔に当てた。苦しかった。
ハードの上で、赤い土の上で、芝の上で、四人と打ち続けて上げてきた数字を全部持ってきた。
それでも、この男は先にいた。
タオルの中で息を吐いた。苦しい。それからもう一つのことに気づいた。
面白い。
この男の打つ球の一本一本が面白かった。
どこへ打っても先にいる男に、どこへ打てばいいのか。
一本ごとに考えて打って、先にいられて、また考える。
小学生の頃は全部が相手より上で、打つ前からどこへ打てばいいか分かっていた。
プロになったばかりの頃は、四人の前で全部が下で、打つ前から、どこへ打っても届かないことが分かっていた。
今日は打つまで分からない。それが面白かった。
ニューヨークのホテルの天井の下で、一度打ち消した言葉だった。
今日は打ち消さなかった。
タオルを下ろした。
二セット目から、ラリーが長くなった。
芝の上のテニスは本来短い。
サーブを打ってネットに出て、低く滑る球をボレーで終わらせる。
三本か四本で一ポイントが終わる。この日の決勝は違った。
三十本を越えるラリーが、芝の上で何度も続いた。
剥げたベースラインの茶色い土の上で、二人とも後ろに下がらなかった。
低く滑ってくる球を、膝を曲げて拾う。低く。
圭の一つだけ。
右へ走った。
足が芝の上で横に流れた。
けれど止まろうとはしなかった。
芝の上では点で止まれないから止まらない。あのクラブの二週目の水曜日から、毎日繰り返してきた足だ。
流れながら腰を落とすと、低くなった分だけ、足が芝の葉の下の柔らかい土をつかむ。
流れながら打った。流れた先で次の一歩がもう出ていた。
足が滑らなかった。
十七歳の夏、あのクラブの芝の上で何度も転んだ。
この芝の上で三度芝の王に崩されたときも、足が流れすぎた。
今日は流れても崩れなかった。
低くいろ。
あの人が芝の上で一度も勝てずに、たった一つだけ持って帰ってきた言葉が、この芝の上で、俺の足を支えていた。
二セット目を七対五で取った。
三セット目はタイブレークまで行った。
六対六から、万能型が三本続けてネットに出てきた。
この男がネットに出てくるのは珍しくて、読めなかった。そのセットは向こうに行った。
ベンチで千夏の補食の袋を開けた。バナナを半分と、小さな塩むすびを一つ。
いつもどおりの袋のいつもどおりの中身を、一口ずつ噛んだ。
身体がいつもどおりに動こうとしていた。
四セット目。
三十本のラリーの二十五本目あたりで、自分の膝がまだ曲がっていることに気づいた。
二時間半を越えても、腰の高さが一セット目と変わっていない。低い位置から見ると、ネットの向こうの面の向きがよく見えた。
万能型の足も止まってはいない。
ただ、ポイントの合間にあの男がタオルを取りに行く回数が増えていた。
四セット目を六対三で取って、セットカウント二対二。
五セット目にタイブレークはない。二ゲーム差がつくまで終わらない。
五セット目のサーブは万能型からだった。
俺のサービスゲームは、いつも一ゲーム後ろから始まる。一度落とせば、そこで終わる。
四対五。五対六。六対七。
追いかける側のまま、自分のサービスゲームを守り続けた。
日が傾いてきた。
センターコートの屋根の影が芝の上に長く伸びて、コートの半分が影になり、半分がまだ日の中にあった。
八対九のチェンジコートで、ベンチに座る前に、一度だけ客席の一角を見た。
選手の関係者の席だ。
圭が腕を組んで座っていた。三時間半、たぶん一度も腕を解いていない。
その隣で千夏が膝の上にノートを開いて、何かを書いていた。
移動を一日遅らせた美咲も、今日はちゃんと見に来ていた。
父と母が並んでいて、父は両手を膝の上で握りしめていた。
その一番端に祖父がいた。
八十が近くなって、海の向こうの芝を見に来た祖父は、身を乗り出していた。
ベンチに座った。脚が重かった。試合は三時間半を越えていた。
千夏の紙の「五時間」という字を思い出した。
チェンジコートのたびに、コップ半分の水と塩と糖を少しずつ。
五時間の試合の一時間ごとの量。身体はまだ動いた。
サーブを守って九対九。
万能型のサービスゲームは四ポイントで終わった。
九対十。
また一ゲーム後ろからだった。
最初のポイントでボレーがネットにかかった。
二本目は、万能型のリターンが足元で沈んで、拾えなかった。
〇対三十。
あと二ポイント落とせば来年になる。
ワイドへのサーブで一本取った。十五対三十。
次はセンターへ打って、そのままネットへ出た。
万能型のリターンがまた足元に沈んできた。さっき拾えなかった球と同じ高さだった。
止まらずに右へ流れながら腰を落とし、ラケットを芝の上に置くように差し出した。
ハーフボレーが、万能型の届かないネット際に短く落ちた。
三十対三十。
次のポイントは、こちらから組み立てた。
バックの深くへ三本続けて、万能型をコートの外へ下げる。四本目を、空いた逆へ打ち込んだ。
四十対三十。最後はサーブで取った。
十対十。
万能型のサービスゲーム。
このゲームだけで十分を越えた。
デュースが三度あって、三度とも万能型がアドバンテージを取り、こちらが取り返した。
四度目のデュースのあと、リターンが深く入って、今度はこちらがアドバンテージを取った。
ブレークポイント。五セット目で最初のブレークポイントだった。
ラリーになった。三十本を越えたところで、万能型がクロスの深いところに打った。
読んだ。この男は次にストレートへ打つ。
いや、この男は俺がストレートを読むことを読んでいる。
だから、クロスへもう一度。
そこまで読んで、もう一段上へ行こうとした。
この男は、俺がそこまで読むことも読んでいる。
なら、この男は。
読み合いの階段を、そこで降りた。
見たのは、この男の足でも肩でもない。ラケットの面だった。
四セット目から、低い位置のまま見えていたものだ。
読みで上回るのではない。見えたものに、この男より先に動く。
ノートの白紙のページに書いた二文字は、そういう意味だった。
面が開いた。
ストレートだった。
身体が動いていた。ボールより先に、ストレートの側に着いていた。
打ち返した。万能型の逆へ。
ボールが剥げた茶色い土の上で跳ねて、フェンスまで転がった。
ブレーク。
十一対十。
万能型は動かなかった。
ボールの転がった先を見ていて、それから俺の方を見た。
灰色がかった静かな目。その目の下で、口の端が少し上がった。
笑っていた。
テープの中で何百試合もこの男を見てきた。
勝っても負けても、この男は笑わなかった。勝つのが当たり前の顔をしていた。
その男が、ブレークされた芝の上で笑っていた。
俺も、たぶん笑っていた。
次は、俺のサービスゲームだった。
四十対三十。
チャンピオンシップポイント。
ボールを三回ついた。センターコートが静かになった。
一万五千人が息を止めていた。
トスを上げて、センターへ打った。
万能型が低く返してきた。足首の高さ。
ネットへ出た。
ボレーを深く、万能型のバックハンドの側のサイドラインぎりぎりへ置いて、クロスへ一歩寄った。
空けたのはストレートだけだった。
線の内側にボール一個分。通すには白い線の上を狙うしかない幅だけを残した。
最後の一本だけは、この男が打つ場所を俺が決める。
万能型が走った。四時間半走り続けた足で、走った。
追いついた。
走りながらバックハンドを振った。空けた幅へのパス。
速かった。俺の身体の横を抜けていった。追わなかった。
振り向いた。
ボールがサイドラインの向こうに落ちていた。
ボール一個分。白い線の外。
線審の声がコートに響いた。
「……Out」
万能型は判定に何も言わなかった。
落ちた場所を一度だけ見て、ネットの方へ歩いてきた。
膝が折れた。
芝の上に仰向けに倒れた。空が見えた。夕方のロンドンの長い空。
刈った芝の匂いがした。あのクラブと同じ匂いだった。
四つ。
二十四年と十一か月。赤ん坊の頃、あの七文字を初めて見た日から。
四つ。
音が戻ってきた。一万五千人の声だった。
起き上がってネットの前へ歩いた。万能型が手を差し出していた。
握ると、ニューヨークのときと同じ乾いた手だった。
「……Next year, it's mine」
来年は、僕のだ。
取ったばかりの男に言うことではない。
言い返す言葉を探しているうちに、あの男は手を離して、まだ笑ったまま自分のベンチへ歩いていった。




