第109話 期限が消えた
ベンチに座った。
表彰式の準備で、係の人たちがコートの真ん中に台を運んでいた。
タオルを頭からかぶって、その中でSTATUSを開いた。
一番下まで下りていく。赤ん坊の頃から一度も変わらなかった欄。
■最終ミッション▽
達成条件
四大大会全制覇
達成期限
――
成功報酬
失敗ペナルティ
――
期限の欄が消えていた。
三十歳、の三文字がなくて、横棒が一本、引いてあるだけだった。
空白の成功報酬の欄を挟んで、その下の失敗ペナルティの欄も同じだった。心停止の三文字の代わりに横棒が一本。
もう一度見た。横棒だった。
成功報酬の欄は、達成したあとも空白のままだった。
何がもらえるのか。何ももらえないのか。分からなかったが、今はそれどころではなかった。
赤ん坊の頃、目を開けるとこの表示があった。
三十歳と心停止という字を、その日のうちに覚えた。
それから、夜、眠る前に何度もこの欄を開いて、三十歳を見て、あと何年か数えた。
あと二十六年。あと十六年。あと七年。数えることをやめたことはなかった。
その数える先がなくなった。
数えなくていいということに、身体がまだ追いついていない。
指がタオルの中で、まだ何かを数えようとしていた。
タオルの中は静かで、自分の心臓の音が聞こえた。
四時間半走ったあとの速い音だった。しばらくそれを聞いていた。
ミッションの一覧も開いた。
小ミッションの行は、達成すればいつも消えて次の行が上がってくる。この行だけは消えずに、一覧の一番下に残っていた。
【MISSION】
・四大大会全制覇 達成
世間がグランドスラムと呼ぶものが、一行になってそこにあった。
期限の欄の横棒をもう一度見た。三十歳で死ぬ男は、もうどこにもいない。
三十歳の先がある男が、センターコートのベンチで、タオルをかぶっていた。
タオルの中で目を閉じると、最後の一本が勝手に戻ってきた。
万能型のパスが、ボール一個分外に落ちた瞬間。
助かった、ではなかった。終わった、でもなかった。
期限のことはあの瞬間には頭のどこにもなかった。
四時間半この男と打って、読み合いの階段を降りて、一度だけ先に着いた。
それでもこの男は最後のボールに追いついた。
ストレートに一個分だけ残したのは俺だ。
けれどそれを外へ出したのは、四時間半走り続けたこの男の足の最後の一歩の、ほんの少しの狂いだった。
あと一個分うまく打たれていたら、そこには何もなかった。
同じ高さには来た。けれど上には行っていない。
来年は僕のだ、とこの男は言った。
あのとき、何を一番強く思ったか。
もっと、強くなりたい。
それだけだった。
タオルを取った。
係の人に呼ばれて立ち上がった。コートの真ん中へ芝の上を歩いた。
ネットの前のまだ緑の芝と、ベースラインの後ろの剥げた茶色い土。
脚がうまく前に出なかった。
四時間半流れ続けた足はまっすぐ歩くやり方を少し忘れていて、一歩ごとに腰が勝手に下がろうとする。
芝の葉の下の柔らかい土が靴の裏で沈んで戻った。
ふくらはぎが小さく攣りかけて、表彰台までの二十歩がやけに長かった。カップを落とさずに持ち上げられるかどうかを、少しだけ本気で心配した。
十七歳の夏、ロンドンから電車で一時間の小さなクラブの芝の上で何度も転んだ。
この土の柔らかさを最初に教えたのはあの芝だった。
それから柏の家の居間の柱。
十七歳の選手がこの芝の上で優勝した記事を、父が画鋲四つで貼った切り抜き。その横に、ニューヨークの一つ目のカップの記事が一枚増えている。
父がスポーツ新聞の三紙を並べて一時間悩んでも決まらず、帰ってからようやく選んだ一枚だ。
そしてこの芝の上で芝の王に負けた夜に、ロンドンのホテルに一枚のファクスが届いた。
筆ペンの大きな字。
芝だ。
あのときは何が言いたいのか分からなかった。慰めなのか命令なのか。
分からないまま、ラケットバッグの内ポケットに入れて、全米にも全豪にもパリにも持っていった。
今日もベンチのバッグの中にある。
祖父がテニスについて知っていることは、たぶん柱の切り抜き一枚分しかない。
テニスは芝だ。本場は芝だ。
その芝の上を、今は下がりたがる腰をなだめながら歩いていた。
コートの真ん中に置かれた台の上に、金色のカップが載っていた。
金色のカップを受け取って頭の上に持ち上げた。
夕方の光がカップの縁で光った。
センターコートの客席が総立ちになった。
英国の拍手は礼儀正しくて揃っていて、長くて静かだった。
その拍手が途切れた一瞬だった。
客席の一角から、声が飛んだ。
「芝だ!」
日本語だった。しわがれた大きな声。社訓の額の字と同じ太さの声だった。
祖父だった。
選手の関係者の席の一番端で、祖父が立ち上がって、両手を口の横に当てていた。
「芝だあっ!」
もう一度、叫んだ。
周りの席の英国の人たちが祖父の方を振り向いた。
何と言ったのかは誰にも分からない。
分からないが、優勝した選手の家族が何かを叫んでいることだけは、伝わった。
祖父の後ろの席の帽子をかぶった老紳士が真似をした。
「……シバダ?」
その隣の婦人も真似をした。
「シバダ!」
それが広がった。
決勝のセンターコートの客席は、こういうとき乗るのが好きらしかった。
「シバダ!」
「シバダ!」
センターコートの客席のあちこちから「シバダ」が聞こえ始めた。
意味は誰も知らない。知らないまま楽しそうに揃えている。
一万五千人の、礼儀正しい、シバダ。
祖父は満足そうに腕を組んで座った。
自分が始めたことだとは、思っていないらしい。
あのファクスは慰めでも命令でもなかった。ただ、これを言っていた。
ロイヤルボックスの方では、身なりのいい人たちが隣の人に何か聞いていて、聞かれた人も首を傾げていた。
選手の関係者の席で美咲が両手で顔を覆っていた。
母は祖父の袖を引っ張っていた。父は泣いていた。
圭は下を向いて肩を揺らしていて、全米のときと同じだった。
千夏はノートを閉じてこちらを見て笑っていた。
石畳の路地で一歩下がった夏の夜が、一瞬だけ頭をよぎった。
あのとき下がった理由の三文字は、さっき横棒になった。
カップを下ろした。カップの底に歴代の優勝者の名前が刻まれている。
一九八五年の、十七歳の選手の名前もそこにあった。
その下の方のまだ何も刻まれていない場所に、今年は俺の名前が入る。
カップを抱えたまま、もう一度だけSTATUSを開いた。
期限の横棒がまだそこにあるか確かめたかった。横棒はそこにあった。
閉じかけたとき特殊能力の欄で目が止まった。
センス○。天才肌。
赤ん坊の頃からこの二つだけだった欄の下に、見たことのない欄が一つ増えていた。
■金特▽
獲得制限 解除
金特。何のことか分からなかった。獲得制限という字も初めて見た。
初めて見た制限が、見たときには、もう解除されていた。
それ以上は表示のどこにも書いていなかった。
STATUSを閉じてカップを抱え直した。
拍手はまだ続いていた。
その中でカップを抱えたまま、しばらく立っていた。
白い線の外の、最後のパスが落ちたあたりを見た。
ネットの向こうで、あの男がもう一度だけこちらを振り返った。
カップを抱えた指が、また何かを数えていた。
三十歳まで、ではなかった。
来年の、この芝まで。




