第107話 上位互換、再び
決勝の前の夜、ホテルの部屋でSTATUSを全部開いた。
上から順番に基礎能力・ショット・球種・コート適性。
全部の数字を一つずつ見ていった。
二十四歳。この月の終わりに二十五歳になる。
成長タイプは通常で、三十歳まで伸び続ける。
実際に伸びていた。
ニューヨークで万能型に全部が一段下だったとき、基礎能力は六つともBの後半だった。
今は六つともSに入っている。
ショットもほとんどがSに入った。コート適性はハードがSでクレーがA、グラスはまだBだった。
四人と打ち続けて負け続けて、勝ち始めた。
四人と打つたびに練習の一か月分や半年分の経験点が入った。その積み重ねがこの数字だった。
コート適性の下の特殊能力の欄も開いた。
センス○。天才肌。赤ん坊の頃からこの二つだけだ。
ここは一度も増えたことがない。
四人のSTATUSは見えない。
見えるのは打ち方だけだ。赤土の魔人は赤い土の上で、芝の王は芝の上で、ハード特化はハードの上でどこか一つが飛び抜けている。
では、万能型は。
あの男はどこか一つが飛び抜けているという打ち方をしない。
全部が高いところで揃っているのだと思う。
俺の表で見えている一番大きい数字はハードの九十七。基礎能力も全部が九十に届いた。
あの男の揃っている高さがそのあたりなら、数字の上ではそう変わらないのかもしれない。
同じくらいかもしれない。
考えてみれば、全部が同じくらいの相手と打ったことは一度もない。
それがどういう試合になるのかは、やってみないと分からなかった。
STATUSを閉じて机の上のノートを開いた。
三人の弱点を書いてきたノートだ。
万能型、のページをめくった。
白紙だった。
この男と打った試合は五つある。
ニューヨークの三回戦、ニューヨークの準決勝、メルボルンの準決勝、北京の準決勝、去年のニューヨークの準決勝。
全部負けた。
ほかの三人のページは負けた試合のあとに一行ずつ埋まっていった。
このページだけは何度負けても一行も増えなかった。
どこに打っても先にいる。
高い球も低い球も、速い球も遅い球も、前も後ろも右も左も、どれも同じくらい強い。
一つだけ突き抜けている場所がない代わりに、突き抜けていない場所もない。
三人を越えてきた型は、この男には効かない。
ノートの白紙のページを見ていた。
弱いところがないなら、強いところで行くしかない。
この男の強いところと、俺の強いところを、正面からぶつける。
どこに打っても先にいるなら、先にいる場所よりも、さらに先へ。
打つ前に動くなら、この男が動く前に。
北京でこの男は俺の読みを読んでいた。読みの一段上にいた。
明日はその一段上の、さらに一段上へ。
そこまで考えてペンを持った。
白紙のページに一行だけ書いた。
正面。
書いてから少しだけ笑った。
ノートを閉じて表紙を見た。表紙の角はすっかり丸くなっている。
これだけ使ったノートの最後の一行が二文字。圭の一つだけより短かった。
ドアがノックされた。
開けると、千夏が布の包みを持って立っていた。
千夏はこの決勝のためにロンドンに来ていた。
両親と祖父も準決勝の夜の電話のあと、今朝の便で着いている。祖父はホテルに荷物を置く前にセンターコートの方角を聞いたそうだ。
千夏は会社に一週間の休みを取って来た。入社して三年目で一番長い休みだった。
女子のバレーボールのチームの監督に休みを申し出たとき、監督は何も聞かずに「行ってこい」と言ったらしい。
「……入っていい?」
「うん」
千夏は部屋に入って机の上に包みを置き、布をほどいた。
中に塩むすびが二つ入っていた。いつもの、塩むすびだった。
三角で海苔も巻いていない、白い、塩だけの。
「……これ?」
「これ」
千夏は椅子に座った。
「決勝の前の夜だから、何か特別なのを作ろうと思った。ロンドンの市場で、いいお肉も見てきた」
「うん」
「でも、やめた」
千夏は塩むすびを一つ、俺の前に押した。
「特別なのは、だめ」
「だめ?」
「特別なのを食べると、身体が特別な日だと思う。特別な日だと思うと、いつもと違う動きをする」
千夏はきっぱり言った。
「明日は、いつもどおりに動いてほしい。だから、いつもどおりのを食べて」
塩むすびを手に取った。
中学三年の秋にセンターのベンチで最初に受け取ったとき、それはしょっぱくて硬かった。
今日のはしょっぱくも硬くもなくて、ちょうどよかった。
食べた。
「……うまい」
「知ってる」
千夏は自分の分を小さくかじった。
食べ終わると千夏は立ち上がった。
「脚は?」
「軽い」
「そう」
千夏はドアの前で一度だけ振り返った。
「明日、いつもどおりにね」
ドアが閉まった。
電気を消してベッドに入った。眠れなかった。
天井を見ながら五年前の夏を思い出していた。
ニューヨークの二番目に大きなスタジアム。
高く上がって一瞬止まるトス。
三十四本のラリーの最後のドロップショット。
全部が一段下だった。
握手のときにあの男の灰色がかった静かな目を見て、小学六年の夏の全国小学生の決勝の相手の目を思い出した。
あの子の目はこうだったのか。何をしても届かない。
届かない理由が、自分のどこか一つにあるのではなく、全部にある。
あの日の俺は、あの男をそういう目で見ていた。
あの夜もホテルの天井を見ながら、もう一度やりたいと思った。
面白い、と思った。そして打ち消した。面白い、で心臓は動かない。
明日はあの男と四つ目をかけて打つ。
勝てば心停止の期限が消える。負ければ、来年もう一度ここに来る。
三十歳まであと五年。まだ五回ある。
五回ある、と思うと少し楽になった。
けれど、それは嘘だった。五回あるのではなく、明日の一回があるだけだ。
明日を落とせば、来年の一回は明日より遠い。
勝てるかどうかは分からない。ニューヨークでは勝てなかった。
では、分からない試合に何を持っていくのか。
天井の暗がりの中で答えを探した。経験点ではない。
期限でもない。四つ目のカップでもない。
分からない。分からないまま、行く。分からないから、行く。
目を閉じると、まぶたの裏に、高く上がって一瞬止まるトスが浮かんだ。
明日、あのトスをもう一度見る。それが少し楽しみだった。
楽しみだと思っている自分を、今夜は打ち消さなかった。




