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BIG5になりたくて~グランドスラムを取らなきゃ死ぬので世界最強目指します  作者: 夏冬
グランドスラム

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105/144

第105話 芝の二週間

 六月の初め、ロンドンから電車で一時間の、小さな町の駅に降りた。

 七年前と、同じ駅だった。


 駅前の通りを歩く。パン屋、郵便局、赤い電話ボックス。

 何も変わっていなくて、変わったのはパン屋の看板の色くらいだった。


 クラブの門をくぐると緑が広がっていた。

 芝のコートが八面。

 刈ったばかりの縞模様が、朝の光で明るい列と暗い列に分かれている。


 息を吸うと刈った芝の匂いがした。


 十七歳の夏、この門をくぐった。

 圭に連れられて二週間、芝のボールが脛の高さで滑ってくることを、身体で知った。


 あのときは試合に出なかった。

 ジュニアのタイトルは要らない、と圭が決めたからだ。


 今年も試合には出ない。全仏の決勝から全英の一回戦まで二週間。

 その二週間をこのクラブで過ごして、前哨戦の芝の大会には一つも出ない。


 芝の上で打つ時間を一時間でも多く取るためだ。


 圭がクラブの人と話していた。あのときと同じ人で白髪が増えていた。

 その人が俺の方を見て英語で何か言った。


「You came back」


 戻ってきたね。


「Last time, you were a boy」


 前は子どもだった。


 圭が一番端のコートを指さした。あのときと同じコートだった。


 打った。ボールが脛の高さで滑ってくる。

 膝を曲げて低く。


 芝の上で足が滑った。横に流れて流れた先で止まろうとする。

 この冬、パリと同じ赤い土の上で磨いた止まり方で、点で止まる。


 芝の上では点で止まれなかった。

 赤い土の粉の下は固い層だったが、芝の葉の下は柔らかい土だ。


 点で止まろうとした足が、芝の葉ごと、柔らかい土の上をもう半歩流れる。


 あのときと同じところで、つまずいていた。


 一週目の終わりの夕方、クラブハウスの前のベンチに圭と並んで座った。


 夏の英国の夕方は長い。

 夜の九時を過ぎても空はまだ明るくて、芝の上に木の影が長く伸びていた。


 圭はクラブハウスの壁を見ていた。

 壁にはこのクラブの昔の大会の写真が、額に入って並んでいる。


 白いウェアの選手たちが、トロフィーを持って並んで写っていた。


 圭がベンチから立ち上がり、壁の前まで歩いていって一枚の写真の前で止まった。

 白黒ではなく、色の褪せかけたカラーの写真だった。


 圭はその写真をしばらく見ていて、それから言った。


「……ここで、一度だけ打った」


 前置きはなかった。


「ウィンブルドンの前の週の、小さな大会だ。協会の枠で、本戦に入れてもらった」


 あの夏、ウィンブルドンの外周の小さなコートの前で、この人は「ここで負けた」と言った。

 あのときはそれだけだった。


「一回戦で、ここの芝の、あのコートで」


 圭は芝の向こうの一番端のコートを指さした。

 今日、俺が打っていたコートだった。


「……負けた」


「相手は」


「覚えていない」


 圭は写真を見たまま言った。


「覚えているのは、ボールが、跳ねなかったことだけだ」


「……跳ねなかった」


「日本の芝は、跳ねた。ここの芝は、跳ねなかった。跳ねない球に、一度も、ラケットが合わなかった」


 圭は写真の前から戻ってきてベンチに座った。


「その次の週に、ウィンブルドンに出た。ランキングの一番下で、ぎりぎり本戦に入った。外周のコートの一回戦で、負けた」


 あの夏に聞いた話の続きだった。


「芝で勝ったことは、一度もない」


 圭は夕方の芝を見ていた。


「……だから、低くいろ、しか、言えない」


 低くいろ。あの夏、この芝の上で聞いた一つだけ。


 圭はそれ以上何も言わなかった。

 この人が一度にこれだけ話すのを聞いたことがない。今年の分を使い切ったのかもしれない。


 その夜は圭にロンドンの店に連れていかれた。


 電車で一時間かけてロンドンに出ると、圭は駅から迷わずに歩いた。

 パリで道に迷った人が、ロンドンのこの道だけは迷わない。


 古い通りの小さなレストランだった。あのときと同じ店の、同じテーブル。

 窓際の二人がけの席に座った。メニューもほとんど変わっていなかった。


 圭はメニューを見ずに前と同じものを注文した。

 白身の魚と野菜と、付け合わせの米。


 料理が来ると、圭は魚を一口と野菜を一口食べて、それから付け合わせの米を一口噛んで飲み込んだ。

 フォークを置いた。


「……米が、硬い」


 一言一句、同じだった。

 同じ店の同じテーブルで、同じ米に同じ文句。


「……なんで、また来たんですか」


 聞くと圭はフォークを持ち直して米をまた一口食べた。


「……確かめに」


「何を」


「硬いかどうか」


 圭は文句を言いながら全部食べた。食べ終わってナプキンで口を拭いた。


「……硬かった」


 満足そうだった。


 あの夏この人は宿で十七歳の俺と千夏の干し芋を取り合った。

 明日の分を今日食べれば同じだ、と言って。


 今日ここに干し芋はない。千夏の補食の袋は宿に置いてきていた。


「……帰りに、干し芋、一枚、いいか」


 圭が聞いた。


 明日の分だった。


 二週目の水曜日も足は流れていた。

 右へ走って点で止まろうとすると、芝の葉ごと、柔らかい土の上を半歩流れる。


 昼の休みに隣のコートでクラブの人たちのダブルスを見た。

 最初の日に声をかけてきた白髪の人も入っていた。七十に近いはずだ。


 その人は止まらなかった。

 横に走って足が流れるのに任せたまま腰を落とし、流れの途中で打つ。打ち終わったときには、流れた先で次の一歩がもう出ていた。


 速くはない。それでも一度も転ばなかった。

 この芝の上で何十年も打ってきた足は、点で止まろうとしていなかった。


 その日の午後、止まるのをやめた。

 点で止まれないなら止まらない。流れるのに任せて腰だけを落とす。


 低くなった分だけ、足が芝の葉の下の柔らかい土をつかんだ。

 流れながら打った。打ち終わったときには次の一歩がもう出ていた。


 球出しをしていた圭がかごに手を入れたまま一度止まった。

 それから何も言わずに、同じ右へ次の球を出した。


 夕方には転ぶのが十本に一本になった。

 圭がかごを片づけながら言った。


「……低い」


 あの夏からこの人の言うことは一つしか変わっていない。

 命令形が終止形になっただけだ。


 二週目の最後の夜、町の宿のあのときと同じ狭い部屋でSTATUSを開いた。

 コート適性の欄。



 ■コート適性▽

 グラス  B 71 / 73▽

 クレー  A 88 / 90▽

 ハード  S 97 / 98▽



 グラスがBに入っていた。一年前はCの前半だった。


 この一年は芝の季節の前から、センターの屋根のある練習場の一面を人工芝のテニスコートに張り替えて打った。

 本物の芝ではないが、跳ねない球を低く待つ練習にはなった。


 そしてこの二週間は、一日八時間を本物の芝の上で打った。


 ハードとの差は二十六、クレーとの差は十七で、まだ一番低い。

 あの夏はFだった。あのときは一日でいくつも動いたことに驚いた。

 今回はここまで来るのにこれだけかかったことに驚いている。驚く理由が逆になった。


 芝の王の芝の上の数字は見えない。

 俺のハードの九十七くらいはあるのだとしたら、差は二十六。赤い土のときよりずっと大きい。


 けれど、あの男が遠いのは芝の上だけで、ほかの床ではもう俺の方が上にいる。

 メルボルンのハードの上でそれは確かめた。

 グラスの差はほかの全部と回数で埋める。どこに、何を、何回。


 机の上にノートを広げて今日の足のことを書いた。

 流れる足は、止まる前が一番頼りない。止まってしまえば立て直せるが、止まるまでのあいだはどこから球が来ても一歩目しか出せない。


 書きながら芝の王のことを考えていた。

 あの男はサーブを打った瞬間にネットへ走り出す。芝の上をネットに着くまで走り続ける。


 芝の上を走る足が止まる前に頼りないのは、俺の足だけではないはずだった。

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