第105話 芝の二週間
六月の初め、ロンドンから電車で一時間の、小さな町の駅に降りた。
七年前と、同じ駅だった。
駅前の通りを歩く。パン屋、郵便局、赤い電話ボックス。
何も変わっていなくて、変わったのはパン屋の看板の色くらいだった。
クラブの門をくぐると緑が広がっていた。
芝のコートが八面。
刈ったばかりの縞模様が、朝の光で明るい列と暗い列に分かれている。
息を吸うと刈った芝の匂いがした。
十七歳の夏、この門をくぐった。
圭に連れられて二週間、芝のボールが脛の高さで滑ってくることを、身体で知った。
あのときは試合に出なかった。
ジュニアのタイトルは要らない、と圭が決めたからだ。
今年も試合には出ない。全仏の決勝から全英の一回戦まで二週間。
その二週間をこのクラブで過ごして、前哨戦の芝の大会には一つも出ない。
芝の上で打つ時間を一時間でも多く取るためだ。
圭がクラブの人と話していた。あのときと同じ人で白髪が増えていた。
その人が俺の方を見て英語で何か言った。
「You came back」
戻ってきたね。
「Last time, you were a boy」
前は子どもだった。
圭が一番端のコートを指さした。あのときと同じコートだった。
打った。ボールが脛の高さで滑ってくる。
膝を曲げて低く。
芝の上で足が滑った。横に流れて流れた先で止まろうとする。
この冬、パリと同じ赤い土の上で磨いた止まり方で、点で止まる。
芝の上では点で止まれなかった。
赤い土の粉の下は固い層だったが、芝の葉の下は柔らかい土だ。
点で止まろうとした足が、芝の葉ごと、柔らかい土の上をもう半歩流れる。
あのときと同じところで、つまずいていた。
一週目の終わりの夕方、クラブハウスの前のベンチに圭と並んで座った。
夏の英国の夕方は長い。
夜の九時を過ぎても空はまだ明るくて、芝の上に木の影が長く伸びていた。
圭はクラブハウスの壁を見ていた。
壁にはこのクラブの昔の大会の写真が、額に入って並んでいる。
白いウェアの選手たちが、トロフィーを持って並んで写っていた。
圭がベンチから立ち上がり、壁の前まで歩いていって一枚の写真の前で止まった。
白黒ではなく、色の褪せかけたカラーの写真だった。
圭はその写真をしばらく見ていて、それから言った。
「……ここで、一度だけ打った」
前置きはなかった。
「ウィンブルドンの前の週の、小さな大会だ。協会の枠で、本戦に入れてもらった」
あの夏、ウィンブルドンの外周の小さなコートの前で、この人は「ここで負けた」と言った。
あのときはそれだけだった。
「一回戦で、ここの芝の、あのコートで」
圭は芝の向こうの一番端のコートを指さした。
今日、俺が打っていたコートだった。
「……負けた」
「相手は」
「覚えていない」
圭は写真を見たまま言った。
「覚えているのは、ボールが、跳ねなかったことだけだ」
「……跳ねなかった」
「日本の芝は、跳ねた。ここの芝は、跳ねなかった。跳ねない球に、一度も、ラケットが合わなかった」
圭は写真の前から戻ってきてベンチに座った。
「その次の週に、ウィンブルドンに出た。ランキングの一番下で、ぎりぎり本戦に入った。外周のコートの一回戦で、負けた」
あの夏に聞いた話の続きだった。
「芝で勝ったことは、一度もない」
圭は夕方の芝を見ていた。
「……だから、低くいろ、しか、言えない」
低くいろ。あの夏、この芝の上で聞いた一つだけ。
圭はそれ以上何も言わなかった。
この人が一度にこれだけ話すのを聞いたことがない。今年の分を使い切ったのかもしれない。
その夜は圭にロンドンの店に連れていかれた。
電車で一時間かけてロンドンに出ると、圭は駅から迷わずに歩いた。
パリで道に迷った人が、ロンドンのこの道だけは迷わない。
古い通りの小さなレストランだった。あのときと同じ店の、同じテーブル。
窓際の二人がけの席に座った。メニューもほとんど変わっていなかった。
圭はメニューを見ずに前と同じものを注文した。
白身の魚と野菜と、付け合わせの米。
料理が来ると、圭は魚を一口と野菜を一口食べて、それから付け合わせの米を一口噛んで飲み込んだ。
フォークを置いた。
「……米が、硬い」
一言一句、同じだった。
同じ店の同じテーブルで、同じ米に同じ文句。
「……なんで、また来たんですか」
聞くと圭はフォークを持ち直して米をまた一口食べた。
「……確かめに」
「何を」
「硬いかどうか」
圭は文句を言いながら全部食べた。食べ終わってナプキンで口を拭いた。
「……硬かった」
満足そうだった。
あの夏この人は宿で十七歳の俺と千夏の干し芋を取り合った。
明日の分を今日食べれば同じだ、と言って。
今日ここに干し芋はない。千夏の補食の袋は宿に置いてきていた。
「……帰りに、干し芋、一枚、いいか」
圭が聞いた。
明日の分だった。
二週目の水曜日も足は流れていた。
右へ走って点で止まろうとすると、芝の葉ごと、柔らかい土の上を半歩流れる。
昼の休みに隣のコートでクラブの人たちのダブルスを見た。
最初の日に声をかけてきた白髪の人も入っていた。七十に近いはずだ。
その人は止まらなかった。
横に走って足が流れるのに任せたまま腰を落とし、流れの途中で打つ。打ち終わったときには、流れた先で次の一歩がもう出ていた。
速くはない。それでも一度も転ばなかった。
この芝の上で何十年も打ってきた足は、点で止まろうとしていなかった。
その日の午後、止まるのをやめた。
点で止まれないなら止まらない。流れるのに任せて腰だけを落とす。
低くなった分だけ、足が芝の葉の下の柔らかい土をつかんだ。
流れながら打った。打ち終わったときには次の一歩がもう出ていた。
球出しをしていた圭がかごに手を入れたまま一度止まった。
それから何も言わずに、同じ右へ次の球を出した。
夕方には転ぶのが十本に一本になった。
圭がかごを片づけながら言った。
「……低い」
あの夏からこの人の言うことは一つしか変わっていない。
命令形が終止形になっただけだ。
二週目の最後の夜、町の宿のあのときと同じ狭い部屋でSTATUSを開いた。
コート適性の欄。
■コート適性▽
グラス B 71 / 73▽
クレー A 88 / 90▽
ハード S 97 / 98▽
グラスがBに入っていた。一年前はCの前半だった。
この一年は芝の季節の前から、センターの屋根のある練習場の一面を人工芝のテニスコートに張り替えて打った。
本物の芝ではないが、跳ねない球を低く待つ練習にはなった。
そしてこの二週間は、一日八時間を本物の芝の上で打った。
ハードとの差は二十六、クレーとの差は十七で、まだ一番低い。
あの夏はFだった。あのときは一日でいくつも動いたことに驚いた。
今回はここまで来るのにこれだけかかったことに驚いている。驚く理由が逆になった。
芝の王の芝の上の数字は見えない。
俺のハードの九十七くらいはあるのだとしたら、差は二十六。赤い土のときよりずっと大きい。
けれど、あの男が遠いのは芝の上だけで、ほかの床ではもう俺の方が上にいる。
メルボルンのハードの上でそれは確かめた。
グラスの差はほかの全部と回数で埋める。どこに、何を、何回。
机の上にノートを広げて今日の足のことを書いた。
流れる足は、止まる前が一番頼りない。止まってしまえば立て直せるが、止まるまでのあいだはどこから球が来ても一歩目しか出せない。
書きながら芝の王のことを考えていた。
あの男はサーブを打った瞬間にネットへ走り出す。芝の上をネットに着くまで走り続ける。
芝の上を走る足が止まる前に頼りないのは、俺の足だけではないはずだった。




