第104話 全仏
六月、パリの赤い土の上で三度目の決勝に立った。
相手は赤土の魔人だった。
一回戦から準決勝まで六つ勝った。
この冬に全豪へ出なかった分ランキングは五位まで下がっていて、第五シードだった。
決勝の朝、千夏の表を開いた。表紙には、全仏決勝版、とある。
中は一時間ごとの欄に分かれていて、一番下の欄に、五時間、と書いてあった。
一セット目。
高く深い球を、赤土の魔人のバックハンドの側へ打った。
赤土の魔人は一歩下がって深く打ち返してきた。
崩れなかった。
また打った。同じ側へ、同じ深さで。
また深く返ってきた。
十回。
二十回。
崩れなかった。
どちらもサービスゲームを落とさないまま、タイブレークに入った。
タイブレークはサーブで取った。
ワイドに二本。赤い土の上でも、サーブだけは短く終わる。
二セット目も同じ球を打ち続けた。
三十回。四十回。
一本ごとに、赤土の魔人の立つ場所が靴半分ずつ後ろへずれていった。
それでも深く返してくる。テープの中にも、ここで崩しきれなかった相手が何人もいた。
五十回。
五十一回目の、赤土の魔人のバックハンドが、少しだけ浅くなった。
ベースラインの二メートル手前。
浅くなった球を反対側へ。
赤土の魔人のフォアハンドの側の、コートの隅へ。
赤土の魔人は走った。赤い土の上でこの男は速い。
滑った先で点で止まり、止まった場所から、すぐに次の一歩が出る。
届いた。
届いたけれど、返ってきた球は浅かった。浅い球をまた反対側へ。
そのポイントでブレークした。
二セット目は六対四。セットカウント、二対〇。
三セット目から、赤土の魔人は最初から下がって立った。
ベースラインの二メートル後ろ。押し下げられる前に、自分から下がっておく場所だった。
肩の高さで打たせるはずの球を、腰の高さで打たれた。
負けかけた試合の途中で、この男は立つ場所を変えられる。それはテープになかった。
三セット目を四対六で落とした。
四セット目、二メートル後ろの男を前に呼ぶために短い球を混ぜた。
一本目のドロップショットは決まった。二本目は、打つ前から魔人が走り出していた。三本目は打たなかった。
短い球が使えないなら、深い球をもっと深く打つしかない。深く打つには深く踏み込む。
一本ごとに、脚の中の何かが減っていった。
三時間を越えたころ、右へ走って止まった。
点で止まるはずの足が、赤い土の上に、短い線を一本引いた。
柏の赤い土の上で、消したはずの線だった。
そのゲームを落として、四セット目は三対六。
セットカウント、二対二。
五セット目に入るチェンジコートで、千夏の表の四時間の欄の分を袋から出して食べた。
一時間ごとの糖質。表のとおりの量だった。
五セット目。
四時間を越えたところで、右のふくらはぎが一度だけ跳ねた。
千夏の表の四時間の欄の量は、もう食べた。
残っているのは五時間の欄だけだ。表に続きはない。
跳ねたのは一度だけだった。二度目が来たら、走れるかどうか分からない。
次の俺のサービスゲームでブレークされた。
右へ走るのを一歩だけためらった。その一歩のあいだに球が横を抜けた。
二対三。
チェンジコートで脚を伸ばした。ふくらはぎはまだ黙っていた。
深い球を打つには深く踏み込む。その踏み込みが、今は怖かった。
顔を上げると、ネットの向こうで赤土の魔人がベンチから立ち上がるところだった。
立ち上がるのに、一度膝に手をついた。
次のゲーム、赤土の魔人が立っていたのは、ベースラインの一メートル後ろだった。
二メートルではなかった。下がっていられる脚が、あの男にも、もう残っていない。
一メートルなら、深い球でまた押し下げられる。
踏み込んだ。ふくらはぎのことは考えないことにした。
同じ側へ、同じ深さで。三本続けると、魔人の踵がまた後ろへずれた。
四本目の返球が浅くなった。浅い球を反対側へ。
ブレークを取り返した。三対三。
そこから先は、どちらも自分のサービスゲームを落とさなかった。
四対四から俺がサーブを守って、五対四。
五対四。
赤土の魔人のサービスゲーム。デュースが三回続いて、四回目のアドバンテージが俺の方に来た。
チャンピオンシップポイント。
四時間四十分が過ぎていた。
左利きの高いトスから、サーブが俺のバックハンドの側へ高く跳ねた。
返した。
高く、深く。
赤土の魔人が両手打ちで深く返してきた。
また打った。
深く返ってきた。
十本。
二十本。
三十本。
この試合の、何百回目か分からない同じ球。
三十四本目。
赤土の魔人のバックハンドが浅くなった。
ベースラインの二メートル手前。五十一回目のときと同じ場所だった。
踏み込んだ。
赤い土の上で点で止まって、そこから一歩。
フォアハンドで反対側へ。
赤土の魔人のフォアハンドの側の、コートの隅へ。
赤土の魔人は走った。
滑った。
点で止まった。
止まった場所から、次の一歩が出た。
届いた。ラケットの先でボールをすくい上げた。
すくい上げた球が高く上がった。
ロブだった。俺の頭の上を越えていく。
下がった。
赤い土の上で後ろへ三歩。
三歩目で、右のふくらはぎがもう一度跳ねた。
それ以上は下がれなかった。
ボールがベースラインの手前に落ちてきた。
赤い土の上で高く跳ね上がった。
跳ねて、落ちてくるまでのあいだ、下がれない脚のまま待つことができた。
落ちてきたところで、叩いた。
赤土の魔人はもう走らなかった。
スマッシュは赤い土で高く跳ねて、そのまま客席の三列目に飛び込んだ。
そこにいた子どもが、赤い粉のついたボールを両手で持ち上げていた。
場内の音が戻ってきたのは、その子が立ち上がってからだった。
電光掲示板の時計は四時間四十二分で止まっていた。
赤い土の上に倒れはしなかった。膝もつかなかった。
立ったまま、ネットの向こうの赤土の魔人を見ていた。
赤土の魔人も立っていた。
あの男の肩が上下していた。
三つ。
四つのうちの、三つ。
残りは一つ。
ネットの前に歩いていくと、赤土の魔人が先に来ていた。
この男はいつも先に来る。勝ったときも負けたときも。
差し出された手を握った。
大きな手で、手のひらが赤い土で少し赤くなっていた。
赤土の魔人は何も言わなかった。
二年前の全米の準決勝では、ここでは、ここでだけだ、と言った男だ。
握手の手を離すと、赤土の魔人が一歩近づいて、右手を俺の肩に置いた。
一度だけ軽く叩いた。
ぽん、と。
それから手を離して自分のベンチの方へ歩いていった。
ベンチに座ってタオルを頭からかぶる。
タオルの下でこの男がどんな顔をしているのかは、見えなかった。
この男の赤い土の上の数字は、今日も見えなかった。
俺のクレーは九十に届いていない。ハードの欄の数字より、まだ十近く下にある。
それでも勝った。同じ球を、百回。見えない差を回数で埋めた。
シャツの肩に赤い粉が手の形に薄くついていた。
はたいても、しばらく落ちなかった。
その夜、パリの小さな店に四人で入った。
圭と、悠蔵と、美咲と、俺。
悠蔵は決勝を見るためにパリへ来ていた。
ニューヨークで最初の海外を済ませた人が、二度目にパリを選んだのだ。
飛行機の中で百円玉を三百回投げたらしい。
石造りの古い店だった。白いテーブルクロスに銀色のナイフとフォーク。
ウェイターは黒いベストを着ている。
テーブルに座ると悠蔵が咳払いをした。
「……今夜は」
全員が悠蔵を見た。悠蔵は胸を張っていた。
「今夜は、僕が……」
言いかけた。続きは、奢る、しかありえない。
ニューヨークのホットドッグは、四ドルの撤退ラインの内側だった。
けれど、店の椅子に座って誰かの祝いを奢るところは、一度も見たことがない。
お年玉を株にしたときも、コートを作ったときも、センターを建てたときも、この人は必ず、損か得かを手帳に書いた。
祝いの席は手帳に書けない。その人が、今夜は僕が、と言ったのだ。
ウェイターがメニューを持ってきた。
悠蔵はメニューを開いてしばらく見ていた。
顔が少しずつ固まっていく。
メニューの値段は、ニューヨークのホットドッグの何十倍かだった。
悠蔵はメニューを閉じてもう一度咳払いをした。
「……撤退する」
声が一段低くなっていた。撤退のときの声だった。
美咲がテーブルの下で足をばたつかせて笑いをこらえている。
圭が黙って上着の内ポケットから財布を出し、テーブルの真ん中に置いた。
「……一つだけ言う」
悠蔵が圭を見た。
「……今夜は、俺が払う」
祝いの席を一度も奢らなかった人の撤退を、十二年間一つだけしか言わなかった人が、引き受けた。
悠蔵はしばらく圭の財布を見ていた。
それから胸ポケットの手帳を出して何か書いた。
「……借りにしとく」
「借りじゃない」
「じゃあ、損にしとく。藤代さんの損」
圭は何も言わずに、ウェイターに一番高いワインを指さした。
悠蔵の顔がまた固まった。
乾杯のあと、圭はグラスに口をつけないまま窓の外を見ていた。
「……芝は、跳ねない」




