第103話 赤い土の研究
北京から三週間後、ニューヨークの準決勝でまた万能型と当たった。
前年の王者、と場内のアナウンスが言った。
前後の足は三週間では直らなかった。
一セット目は取ったが、二セット目から短い球で前に呼ばれ、深い球で下げられた。北京の三セット目と同じだった。
その半歩を取り返そうとして、ラリーを短くした。
五本目でラインを狙った。入らなかった。七本目でもう一度狙った。入った。その次は入らなかった。
去年の夏までなら、二十本でも三十本でも待てた。
残りの二つが遠い床にある以上、ハードの上でだけは負けられない。そう考えた分だけ、待てなくなっていた。
三セット目も四セット目も、ラインを狙った一本から崩れた。
ロッカールームでラケットをしまうとき、グリップに巻いたテープが擦り切れているのに気づいた。
一試合でここまで擦り切れたことは、なかった。握りすぎた跡だった。
十二月、柏に戻った。
センターの赤い土のコートの前に丹羽建設のトラックが並んでいる。
八年前に海の向こうから取り寄せた煉瓦の粉の赤い土を重機で剥がしていた。
剥がした下に新しい層を敷き、その上に新しい赤い土を撒く。
パリの赤い土だった。悠蔵がパリの大会の会場を管理している会社を調べた。
同じ土を、同じ厚さで、同じ層の順番で取り寄せたのだ。
その悠蔵がコートの脇で手帳を開いていた。
「で、いくら損するの?」
いつもの問いだった。ただ、コートの張り替えの費用の話ではない。
この人は費用などとっくに手帳に書いている。
「冬、ぜんぶ」
と答えた。一月の全豪には出ない。
十二月から五月の全仏まで、冬の間ずっとここで赤い土の上で打つ。
全豪は今年の一月に取った。
取った大会をもう一度取っても、最終ミッションの欄は変わらない。残りは赤い土と芝で、だから冬を全部赤い土に使う。
悠蔵はしばらく剥がされていく赤い土を見ていた。
「……冬、ぜんぶね」
手帳に何か書いた。
「全豪の賞金も、ぜんぶ?」
「ぜんぶ」
「ランキングのポイントも?」
「ぜんぶ」
悠蔵は手帳を閉じてトラックの荷台の赤い土の山をもう一度見た。
「へえ。そう来るか」
「そう来た」
「まあ、いいんじゃない」
重機が最後の赤い土の一山をトラックの荷台に落とした。
赤い土が剥がされたコートは、灰色の平らな地面になっていた。
コートの向こう、屋根のある練習場の前で背の高い男がラケットを振っていた。
後輩の早瀬だった。プロになって二年近くが過ぎていた。
ランキングは百五十位前後。
下の大会を回りながら、柏に戻るたびに、このセンターで俺と打っている。
初めて打った日、この男に手加減はしないと決めた。
今日はこちらから頼む側だった。この男に、赤土の魔人になってもらう。
一月、パリと同じ赤い土の上で後輩が悲鳴を上げていた。
「……無理です!」
後輩はベースラインの一メートル後ろでラケットを振っていた。
赤土の魔人の球を真似しろ、と頼んだのは俺だ。
早瀬は右利きで赤土の魔人は左利きだ。魔人のフォアハンドと同じ球を、早瀬は両手打ちのバックハンドで打つしかない。同じ回転と同じ深さで、百本。
「……無理です!」
「もう一球」
「……もう一球、お願いします、は、僕の台詞です!」
門の前で毎朝その台詞を言っていた男が、今日は言われる側だった。
後輩は叫びながら打ち続けた。打ちながら少しずつ球が深くなっていく。
三日目にはベースラインの近くまで届く球が十本に一本来るようになった。
一週間目には三本に一本になった。
球が深くなるたびに、後輩は叫ぶのをやめて黙った。黙っているあいだの球が一番魔人に近かった。
その球を打ち返し続けながら探した。
赤い土の上の、赤土の魔人の突き抜けていない場所。
テープを全部見直した。赤い土の上で、あの男が負けた試合はほとんどない。
四年間で三つだけで、その三つとも相手が同じことをしていた。
高く深い球を同じ側へ打ち続けていたのだ。
三つの試合はどれも四時間を越えていた。勝った三人とも、最後の一時間を脚で払っていた。
赤土の魔人は深い球を下がって受ける。下がれば時間ができるから、どんな球でも深く返してくる。
ただ一度下がった足はすぐには前に戻らない。深い球が続くと立つ場所が少しずつ後ろへずれていく。
一回や二回では崩れない。十回、二十回でも崩れない。
それを五十回、百回と続けたとき、下がりきったあの男の返す球がたぶん少しだけ浅くなる。
浅くなった球を、反対側へ打つ。
ハードなら一本で終わるラリーが赤い土では終わらない。
終わらない床だから百回が打てる。
ネットの向こうで後輩が一メートル下がってまた深く打ち返してきた。
何回下げても後輩の球は浅くならなかった。
こちらが探しているのは、百回目に浅くなる一本だった。
同じ一月の終わりの日曜日、センターのクラブハウスの台所に千夏が立っていた。
会社の休みの日だった。千夏はこの冬、休みのたびに柏に戻ってきた。
実業団の女子バレーボールのチームの献立を組みながら、休みの日には、センターの台所で俺の献立を組む。
会社の仕事と、センターの仕事。センターの方は仕事ではない、と千夏は言った。
研究の続きなのだそうだ。給料の出ない仕事を研究と呼ぶのは、大学にいた人の癖らしい。
台所のテーブルに広げた紙には、赤い土、と書いてあった。
「長いラリーの試合は、ハードの試合と身体の使い方が違う」
千夏はペンで紙の上の表を指した。
「全仏の決勝、去年は何時間だった?」
「三時間半くらい」
「おととしは?」
「三時間ちょっと」
「今年は、もっと長くなる」
千夏ははっきり言った。
「長いラリーで勝つつもりなら、たぶん四時間を越える。五時間になるかもしれない」
紙の上に、五時間、と書いた。
「五時間の試合なら、三回食べる」
「三回」
「試合の前と、試合の途中と、試合のあと。途中はチェンジコートのたびに少しずつ。糖質を一時間ごとに、この量」
千夏は紙の上に数字を書き込んでいった。
「ハードの試合は速いから、身体が短く強く使われる。赤い土の試合は遅いから、身体が長く少しずつ使われる。減っていく量が違うの。だから、足していく量も違う」
千夏の字が紙の上を埋めていく。
しょっぱくて硬い塩むすびから九年たって、千夏は五時間の赤い土の試合の糖質を一時間ごとに計算している。
「……いつ、調べたの」
「会社の図書室。あと、陸上の長距離の子たちの献立を組んだとき。マラソンの子たちと、身体の減り方がちょっと似てるの」
千夏はペンを置いた。
「赤い土のテニスは、たぶんマラソンに近い」
窓の外ではパリと同じ赤い土の上で、後輩がまた悲鳴を上げていた。
千夏が窓の外を見た。
「……あの子にも、何か作る?」
「作ってやって」
「好きなもの、あるかな」
「たぶん、何でも食べる」
千夏は少し笑った。
「たくまの、昔と同じ」
二月の初め、後輩がセンターに来なかった。
二年と少し、柏にいる日は一日も休まずに、朝の六時半に門の前に立っていた男が、である。
昼過ぎに来た。赤いウェアを着ていた。
上から下まで赤く、シャツも短パンも靴下も赤くて、靴だけが白かった。
「……どうした」
「……母に、怒られました」
後輩はラケットバッグを下ろしながら言った。
「白いウェアが全部赤くなったって言われました。洗っても落ちないんです」
パリと同じ赤い土は、柏の赤い土より粉が細かい。
細かい粉は布の目の奥まで入り込む。
「洗濯機も、二台壊れかけました」
「二台」
「一台目が壊れかけたので、二台目を買ったんです。二台目もです。それで今日は、母と服を買いに行ってました」
後輩は自分の赤いシャツを指でつまんだ。
「全部、赤いのにしました。汚れが目立たないので」
「……全部」
「はい。全部です」
早瀬は真顔だった。
屋根のある練習場の方から美咲が歩いてきた。
美咲もこの冬は、大会の合間に柏へ戻ってきていた。兄の赤い土の研究を横から見ていたのだ。
その美咲が後輩の姿を見て立ち止まり、上から下まで眺めた。
「……それ、私が中学のときにやったやつ」
後輩が美咲を見た。
「え」
「赤い土を始めたときに白いのが全部赤くなって、で、お母さんが洗うの諦めて、で、私、赤いのしか着なくなったの」
美咲は腕を組んだ。
「真似しないでよ」
「……真似してないです」
「してる」
「してないです。僕の方が、赤いです」
「何それ」
二人はしばらく、どちらの方が赤いかで言い合っていた。
挨拶だけが大きかった男が、二年とちょっとで、言い返すようになっている。
赤土の魔人に、勝てるのか。
後輩の赤いウェアを見ながら考えた。
あの男の赤い土の上の弱点は見つけた。
あとはそれを百回、続けられるかどうかだった。




