第102話 北京
八月、北京の選手村は人でいっぱいだった。
宿舎の廊下では見上げるほど背の高いバスケットボールの選手とすれ違い、エレベーターでは首の太い柔道の選手と乗り合わせた。
世界中の競技の選手が同じ敷地の中にいる。
テニスの選手はふだん国を背負わない。
ランキングの名前の横に国の略称が三文字並んでいるだけだ。
JPN。
その三文字が、今日は白と赤のジャージの、胸の真ん中に縫いつけてある。
選手村には美咲もいた。
シングルスは枠に届かず、日本の女子の四つ年上の選手と組んだダブルスでの出場だ。
「おにいちゃん! あの人、柔道の!」
食堂の入口で美咲が俺の袖を引いた。
前の五輪で金を取った、テレビで何度も見た顔だった。
「サイン、もらってくる」
「……前の五輪のときも、テレビの前で同じこと言ってたぞ」
「あのときは画面の向こうだったもん。今年は同じ村にいるから」
美咲は走っていって色紙を胸に抱えて戻ってきた。
向こうで柔道の選手が軽く頭を下げたので、頭を下げ返した。
「おにいちゃんのこと、知ってたよ。全米と全豪の人だよねって。でね、おにいちゃんのサインも、もらっといてって」
「俺の?」
「うん。あとで持ってくの」
妹が兄のサインを柔道の金メダリストに届ける。
選手村はそういう場所らしかった。
その日の昼に選手村の食堂で圭と並んで座った。
体育館を三つつなげたくらいの広さに世界中の料理が一日中並んでいる。
何でもある場所で何を食べるか決めるのは意外と難しい。俺は決めなくていいので楽だった。
千夏の表があった。表紙に、北京版、と書いてある。
選手村の食堂のメニューを千夏は事前に調べていた。
表のとおりに鶏肉と野菜と米とスープを取って席に戻ると、圭のトレイは焼き餃子の山だった。
二十個はあった。
表の一番下には、コーチの欄、と千夏の字で小さな欄があって、圭の分の献立もちゃんと書いてある。
その欄に、餃子はなかった。
「……それ」
圭の皿を指さすと、圭は餃子を一つ箸でつまんだ。
「……これは、補食だ」
補食。練習のすぐあとに、少しだけ食べるもの。
山盛りの焼き餃子は、たぶん補食ではなかった。
「千夏の表に、ないですよ」
「……表に、ないものは、補食だ」
圭は餃子を口に入れ、飲み込んで、二つ目をつまんだ。
「……一つだけ言う」
二つ目の餃子を箸で持ったまま、圭は言った。
「……千夏には、言うな」
言わない、と答えた。
その夜、千夏に電話をした。
「脚は?」
「軽い」
「そう。……お父さんは、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「表どおり?」
受話器の向こうでペンの音が止まった。
「補食を、多めに」
千夏はしばらく黙っていた。
「……餃子?」
言っていないのに、ばれていた。
準決勝で万能型と当たった。
八月の北京は蒸し暑かった。
ニューヨークの湿気とも、メルボルンの乾いた熱とも違う、灰色の暑さだった。
この男とは一年半ぶりだった。今年の四大大会では一度も当たらなかった。
万能型は前に当たったときと何も変わっていなかった。
どこに打っても先にいる。打つ前に動いている。
変わったのは俺の方だった。
打つ前の足の向き、肩の開き、ラケットの引き方で、この男がどこへ打つのか読めるようになっていた。
一セット目は読めた分だけ取れた。六対四。
二セット目で分かった。この男は、俺が読むことを読んでいる。
俺が動き出すとその動き出しを見て打つ方向を変える。読みの、一段上にいた。
三対六。
三セット目。
読むのを、やめた。
真ん中に立って全部の球に走った。ハードの床の上なら、この脚はまだ誰にも負けない。
どこへ打たれても届いた。届いた球をこの男の足元へ返した。
三対三までそうやってついていった。
七ゲーム目から、万能型は左右ではなく前後に打ってきた。
深い球と、短い球。前へ走り、後ろへ走り、また前へ。
前後の動きでは、俺の足は左右ほど速くない。
この男はそれを読むのをやめた俺の走り方を六ゲーム見ただけで見つけていた。
四対六。五輪は決勝の前まで三セットマッチで、それで終わりだった。
三位決定戦には勝った。
相手は欧州の二十位台の選手で、あっという間に終わって、よく覚えていない。
決勝は万能型とハード特化で、万能型が勝った。
四人は全員ベスト8に残っていた。四人と、俺。
表彰台に三人が並んだ。一番高い台に万能型、その右にハード特化、左に俺。
首にかけられたメダルは銅だった。係の人が一段上の万能型の首に金をかける。
表彰台の一段は三十センチくらいの高さの違いだ。
国旗が三本揚がり、万能型の国の国歌が流れた。
首のメダルを手のひらに載せた。
裏には北京の文字と五つの輪が刻んであった。カップと違って、俺の名前はどこにも彫られていない。
表彰台の下で美咲が日の丸の小旗を振っていた。
美咲の女子ダブルスは二回戦で負けている。それでも泣かずに、兄の銅を自分のことのように振っていた。
俺のサインの色紙は、その朝のうちに美咲が柔道の宿舎へ届けていた。
表彰台を降りるとき万能型が振り返って俺を見た。
何も言わなかった。首の金メダルに一度だけ手を当てて、また前を向いた。
四つを取れば心停止は外れる。この一段は、その四つの中には入っていない。
ミッション一覧にも五輪の行はない。
それでも、三十センチを目で測っていた。




