第2話 仕事人令嬢は証拠で裁く
全2話の短編、後半です。
前半「希望を胸に帝都へ」からお読みいただければ幸いです。
「あなたは、まだ辞めていない」
その言葉が、古い石の壁に吸い込まれて消えた。
シャンティは、月明かりの中に立つ銀の髪を見上げていた。
「……どういう、意味ですか?」
「言葉のとおりです」
ユースティアは高い窓のほうへ、わずかに目をやった。
「六人は、全員が地方の出身でした。全員が平民の特待生。全員が、帝都に強い後ろ盾を持っていなかった。そして全員が――ブローム侯爵令息と接触したあとに、学園を去っています」
「……全員」
「ええ」
シャンティの背中を、冷たいものが撫でた。
「でも、それなら……どうして誰も気づかなかったんですか。そんなに何人も辞めていたら、噂くらい」
「退学の理由が、ばらばらだからです」
ユースティアの声は淡々としていた。
「家庭の事情。金銭問題。素行不良。学業継続困難。自主退学。――どれも、一つだけなら不自然とは言えない理由です。誰も、一本の線として見なかった」
「じゃあ、どうしてユースティア様は」
「線に見えたからです」
それだけ言って、ユースティアは一歩、月明かりの外へ出た。
銀の髪が影の中に沈み、輪郭だけが淡く残る。
「後から名簿を追いました。退学の時期。奨学関係の記録。図書館の貸出履歴。ばらばらの理由の下に、同じ形が並んでいた。――ですが」
わずかな間があった。
「それは、共通点にすぎません」
「共通点……」
「六人全員が、退学前に彼と接触していた。それは分かった。しかし、彼が何をしたのかを示すものは、何ひとつありませんでした」
シャンティは、震える手を握り合わせた。
「本人たちに、聞いたんじゃないんですか」
「聞きました」
ユースティアの声が、初めてわずかに低くなった。
「ブローム家の名を恐れて口を閉ざした者もいます。家族に知られたくない、もう思い出したくないと断った者も。すでに帝都を離れ、連絡の難しい者もいました」
「……」
「証言を拒む理由は、私にも分かります」
シャンティは、何も言えなかった。
もし自分が退学して、田舎の店に戻って、それでもまだ借金の名前だけが残っていたとして――帝都の公爵令嬢から手紙が来て、証言してくれと言われたら。
きっと、封も開けずに引き出しの奥へしまう。
「疑うことと、裁くことは別です」
ユースティアが言った。
「裁くのであれば、証拠が要る。――そして、その証拠を揃える前に、六人は全員いなくなりました」
その言葉の意味が、遅れて胸に落ちてきた。
さっき、この人は言ったのだ。証拠もなく告げても、あなたが判断する材料にはならなかったでしょう、と。
あれは言い訳ではなかった。
この人は、ずっとそのやり方で来て、そのやり方で、六回間に合わなかったのだ。
「六人には、間に合いませんでした」
ユースティアは、それを悔しがりも、嘆きもしなかった。
ただ事実として置いた。
「ですが、あなたはまだここにいる」
緑の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「まだ、学園にいる。まだ、彼と接触できる。まだ――今、この瞬間に起きていることを、証拠にできる」
◇
シャンティは、その場に立ち尽くしていた。
言われていることは分かる。
分からないのは、なぜこの人がそこまでするのか、だった。
公爵令嬢だ。
シャンティから見れば、雲の上にいるような人だ。
田舎の雑貨屋の娘が一人退学したところで、この人の生活には何ひとつ影響しない。
「……あの」
「はい」
「どうして、私なんかのために……?」
ユースティアは答えなかった。
代わりに、こう言った。
「あなたが望むのであれば、仕事として引き受けます」
「仕事……?」
「ええ」
銀の髪が、わずかに動いた。
「ですから、報酬をいただきます」
シャンティの喉が鳴った。
報酬。
お金だ。
反射的に、頭の中で財布の中身が数えられてしまった。
寮費の残り。
今月の食費。
仕送りもない。
借金だけが、実際より倍近い額で記録されている。
「私、お金なんて……」
「卒業なさい」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
ユースティアは繰り返さなかった。
ただ、もう一度だけ短く言った。
「それが報酬です」
シャンティは、口を開けたまま動けなかった。
「それ、は……報酬じゃ、ないです」
「私が決めることです」
「でも」
「学園を辞めないこと。卒業すること。それ以外は受け取りません」
言い方は、どこまでも事務的だった。
値引きも交渉も受け付けない、というような。
「――退学届は破りなさい」
シャンティの脳裏に、寮の机の上が浮かんだ。
書きかけの、白い紙。
まだ最後まで書き終えていない。
名前と、日付と、理由の欄が半分。
あれを置いて、自分はここへ来た。
破る。
考えるより先に、そう思っていた。
けれど、それだけでは足りないことも分かっていた。
破っても、記録は消えない。
金額も消えない。特待生資格の審査も、サジェスも、何ひとつ消えない。
破っただけでは、明日また同じ紙を取りに行くことになる。
だから。
「……」
言葉が、喉の途中で詰まった。
これまで一度も言ったことがなかった。
家族にも、フローレンスにも、誰にも。
困ったことがあったら必ず知らせなさい、と父は言ったのに、それでも一度も言わなかった。
言ってしまったら、迷惑をかける。
自分の問題を、この人たちに背負わせることになる。
それでも――一人で帰ろうとして、私は何も守れなかった。
シャンティは、深く息を吸った。
そして、頭を下げた。
「……助けてください」
声が震えた。
みっともないくらい震えた。
「私、まだ……辞めたくないです。文官になりたいんです。ここで勉強したいんです。だから――」
「結構です」
ユースティアが遮った。
顔を上げると、銀の髪の下の緑の瞳が、こちらを見ていた。
表情は、ほとんど変わっていない。
「引き受けました」
◇
旧礼拝堂を出て、ユースティアが向かったのは図書館だった。
裏口へ回ると、扉が内側から開いた。
顔を出したのは、濃紺の髪の細身の令嬢だった。
――あ。
シャンティは思わず声を出しそうになった。
図書委員の席にいた人だ。
いつも黙って判を押していた。
令嬢に案内されて閲覧室へ入ると、奥の一角にだけ小さな灯りが点いていた。長机には書類が積まれ、椅子を後ろ向きにまたいだ男子生徒が一人、座っていた。
シャンティに気づくと、ぱっと片手を上げる。
「どうも。噂の特待生ちゃん」
「えっ、あ、あの」
「ベルク男爵家のレオナード。よろしく」
明るい。
明るすぎて、この状況に全然合っていない。シャンティが半歩下がると、レオナードは笑った。
「そんな顔しないでよ。こっちは味方」
「余計なことは言わなくて結構です」
ユースティアが椅子を引いた。
「同感」
濃紺の髪の令嬢が、初めて口を開いた。
それだけ言って、また紙に目を戻す。
「相変わらず二人とも冷たいなあ」
レオナードは肩をすくめ、それからシャンティのほうへ顎をしゃくった。
「あっちはノルン子爵家のエルシア。図書委員。喋らないけど、紙のことなら全部知ってる」
「……エルシア・ノルンです」
エルシアは顔を上げずに名乗った。
シャンティは、この場の空気に戸惑っていた。
三人とも、まるで昨日も一昨日も同じ机に集まっていたような座り方をしている。
段取りの説明がない。役割の確認もない。
ユースティアが席に着くと、エルシアが黙って書類の束を滑らせた。
ユースティアがそれを受け取る。
レオナードが「三年の名簿もいる?」と聞き、エルシアが「もう出した」と答える。
それだけで、話が進んでいく。
――この人たち、初めてじゃない。
シャンティは、ようやくそれを理解した。
◇
「これを」
ユースティアが、卓の上に何かを置いた。
掌に収まるほどの、小さな金属の箱だった。表面に細かい紋様が刻まれ、縁に沿って複雑な文字が回っている。
「これは……?」
「記録の魔導具です。声を残せます」
シャンティは思わず手を伸ばしかけて、止めた。
魔導具。
学園の授業でも名前だけは聞いた。
実物を見るのは初めてだった。
細工の細かさと、縁に嵌まった小さな石の色を見ただけで分かる。
実家の店では、とても手の届かない金額だ。
「……こんな高そうなもの、私が持っていていいんですか?」
「壊さなければ」
ユースティアはそれだけ答えた。
レオナードが横から吹き出した。
「相場言ってやりなよ。この子、多分もう自分で計算してるけど」
「余計なことです」
エルシアが、書類越しに短く補足した。
「認証印がある」
「……認証印?」
「ここ」
エルシアの細い指が、箱の裏の紋様を示した。
「作られた時に押される魔術の印。記録したあと中身をいじると、これが壊れる。壊れていなければ、後から書き換えていない証拠になる」
ユースティアが続けた。
「学園にも、これを鑑定できる者がいます。ですから――この記録が、後から編集されたものではないことは証明できます」
シャンティは、金属の箱を両手で受け取った。ずしりと重い。
「……これで、全部解決しますか?」
「いいえ」
即答だった。
「これ一つでは足りません。声だけでは、言い方の問題だと逃げられます。書類と、数字と、証言と――全部が揃って、初めて逃げ道がなくなる」
◇
「明日から、サジェスに従ったふりをしてください」
ユースティアがそう言った瞬間、シャンティの手の中で、魔導具が滑りかけた。
「……」
血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
あの廊下が浮かんだ。
窓辺の笑顔。
半歩の距離。
これからは、もう少し僕の言うことを聞いてほしいな。
あそこへ、自分から戻る。
それも、従うふりをして。
「……怖いです」
言ってしまってから、恥ずかしくなった。
頼んだのは自分なのに。
助けてくださいと言ったのは自分なのに。
「すみません、私、そんなつもりじゃ――」
「怖くて当然です」
ユースティアは慰めなかった。
同情もしなかった。
ただ、当たり前の事実を告げるように言った。
そして、少し間を置いた。
「一人にはしません」
シャンティは、しばらく何も言えなかった。
やがて、こくりと頷いた。
◇
寮の部屋へ戻ったのは深夜だった。
机の上に、それはまだあった。
書きかけの退学届。
ペンを置いたときのまま、白い紙が机の上で待っていた。
シャンティは机の前に立ち、それを手に取った。
今度は、迷わなかった。
びり、と乾いた音がした。
紙が二つに裂けた。
もう一度重ねて、また裂いた。
くずかごへ落とすと、部屋は元の静けさに戻った。
何も変わっていない。
借金も、疑惑も、明日会いに行かなければならない相手も、そのままだ。
それでも、息が少しだけ楽になった。
◇
翌日の放課後、シャンティは自分からサジェスのもとへ行った。
上級生の教室が並ぶ棟の廊下。
金色の髪は、すぐに見つかった。
「ブローム様」
サジェスが振り返る。
空色の瞳が、いつものように柔らかく細められた。
「やあ……どうしたんだい、そんな顔をして」
制服の内側で、魔導具が胸に当たっている。
硬い。
冷たい。
シャンティは頭を下げた。
「昨日まで、すみませんでした。私が……よく分かっていなかったんです」
声が震えた。
演技のつもりだったのに、勝手に震えた。
顔を上げられなかった。
上げたら、たぶん顔に出る。
「――そうか」
サジェスの声は、優しかった。
「分かってくれればいいんだ」
肩に手が置かれた。
反射的に身体が強張ったが、彼はそれを別のものと受け取ったらしい。
「怖い思いをさせたね。でも、僕は最初から君の味方だよ。あんなふうに事務局に呼ばれて、混乱するのも当然だ」
「……はい」
「大丈夫。僕の近くにいれば、特待生資格の件も悪いようにはしない」
胸の内側で、魔導具が静かに声を拾っていた。
◇
そこから、調査は本格的に動き始めた。
シャンティ自身にもできることがあった。
当事者として、学園事務局に保管されている自分の記録の閲覧を申し出ることだ。
正規の手続きだから、誰にも咎められない。自分の記録に誰がいつ触れたかも、合わせて照会した。
写しが揃った夜、閉館後の閲覧室で、エルシアが紙を並べた。
「学園側へ提出された記録は、二つある」
「学外貸付通知。これが一枚目」
エルシアが指した紙には、あの夜シャンティが署名した貸付の金額だけが記されていた。
ブローム家出資の学生向け貸付。
利息なし。
在学中の返済義務なし。
それだけ。
「もう一枚が、これ」
二枚目の表題は、「付随給付明細」となっていた。
参考書。
物品。
会食費用。
日付が古い順にずらりと並び、それぞれに金額が振られている。
そして最後に、合計。
シャンティが事務局で見せられた、あの数字だった。
その横には、シャンティが署名した正式な貸付契約の写しも置かれていた。
シャンティの署名があるのは、その正式な契約だけだった。付随給付明細には署名がない。それを、署名済みの契約に最初から付いていた書類として扱っているのだ。
「これは、契約時に添付されていた書類ということになっている」
エルシアは淡々と続けた。
「でも、日付が合わない」
「……日付?」
「ここ」
細い指が、紙の隅の小さな数字と印を示した。
「学園の受付番号と、受理日。一枚目は契約した月。二枚目は――その二か月後」
シャンティは、二枚を並べて見比べた。
確かに、違う。
「契約時添付なら、同時に受理されているはず」
エルシアが言った。
「番号が違う。受理日も違う。この明細は、後から出された」
ユースティアが、静かに口を挟んだ。
「ヴィクトル・レインは、書類に強い。ですが、学園側の受付台帳までは触れません。あれは事務局が管理しています」
「じゃあ……」
「問題なのは貸付ではない。後から追加された『援助』の記録」
エルシアが短く言い切った。
シャンティは、二枚目の紙をもう一度見た。
そして、気づいた。
「……これ、おかしいです」
三人の目が、こちらを向いた。
参考書の欄。
会食の欄。
物品の欄。
一行追うごとに、違和感が増えていく。
「この金額、私が受け取ったものじゃありません」
エルシアが、初めてまっすぐシャンティを見た。
「分かる?」
「はい。数字なら」
エルシアは少しだけ目を細めた。
「……上出来」
それからまた紙に戻った。
◇
数日後、レオナードが遅れて閲覧室にやってきた。
「ガレス、思った以上に素直だったよ」
ユースティアが顔を上げる。
「何を聞きました?」
「サジェスに頼まれて、シャンティを見張ってたってさ」
シャンティの手が止まった。
渡り廊下。
壁のような背中。
進路を塞ぐ位置に立って、世間話みたいな声で。
――ちゃんと感謝してるか?
あれは、偶然通りかかったのではなかった。
「本人はさ――」
レオナードは椅子に腰を下ろしながら続けた。
「悪いことだと全然思ってないんだよ。田舎から出てきた後輩に変な奴が寄ってこないよう見ててやれって頼まれた、くらいの認識。サジェス様は面倒見がいいって、心底信じてる」
「……そうですか」
シャンティは、なぜか少しだけ胸が重くなった。
あの人は、自分を苦しめている側の人間だ。
でも、あの素朴な声の調子を思い出すと、嘘をついているようには聞こえなかった。
少なくとも、サジェスが何をしているのか、その全部を知っているようには思えなかった。
◇
「あと、もう一件」
レオナードが言った。
「ミュラー嬢も、何か話したいそうだ」
シャンティは弾かれたように顔を上げた。
「フローレンス様が? だ、駄目です。あの方は関係ありません」
「もう関係あるよ。君の異変に最初に気づいたのは、あの子だろ」
「でも、相手は侯爵家です。ミュラー家は男爵家で、私のせいであの方まで――」
「決めるのは、あなたではありません」
ユースティアの声だった。
シャンティは口をつぐんだ。
「彼女は、自分で選んでいます。あなたが止める権利はありません」
翌日、放課後の空き教室で、シャンティはフローレンスと向き合った。
亜麻色の巻き毛の令嬢は、いつものように背筋を伸ばして立っていた。
ただ、指先がスカートを少し握っている。
「シャンティ」
「……フローレンス様」
「わたくし、怒っておりますのよ」
いきなりそう言われて、シャンティは目を丸くした。
「あなた、一度もわたくしに何もおっしゃらなかったでしょう。あんなに毎日一緒にいたのに」
「それは……ご迷惑を、かけたくなくて」
「迷惑ですって?」
フローレンスの眉が上がった。
「あなた、わたくしに算術を教えるとき、迷惑だと思ったことがおありなの?」
「……ないです」
「わたくしもございませんわ」
それきり、フローレンスは何も言わなかった。
代わりに一歩近づいて、シャンティの手をぎゅっと握った。
指が、少し冷たかった。
震えていた。
――この人も、怖いんだ。
侯爵家を敵に回すことの意味を、貴族の令嬢が分からないはずがない。
分かったうえで、ここに立っている。
シャンティの視界が滲んだ。
「……ありがとう、ございます」
「お礼はまだ早くてよ。全部終わってから伺います」
◇
数日後、シャンティはもう一度、サジェスへ接触した。
放課後の中庭。
人はまばらだった。
胸の魔導具が、いつもより重く感じる。
「あの、ブローム様」
「うん?」
「……ひとつだけ、確認させてください」
サジェスは穏やかに首を傾げた。
「私が言うことを聞いていれば、本当に資格は大丈夫なんですか」
「もちろん」
即答だった。
「あの記録は、書類の上の話だ。事務局は形式で動くからね。誰かが正しく説明すれば、それで終わる問題だよ」
「……誰か、というのは」
サジェスは笑った。
「僕の言うことを聞いていれば、問題にはならない」
言葉が、風の中で妙にはっきり響いた。
「君の特待生資格を守れるのは誰だと思っている?」
シャンティは、俯いた。
「退学したくないだろう?」
胸の内側で、小さな金属の箱が、その全部を拾っていた。
◇
異変を感じたのは、その数日後だった。
サジェスの様子が、少しだけ違った。
いつもの笑顔。
いつもの柔らかい声。
それなのに、質問だけが妙に細かくなっていた。
「最近、誰かに相談した?」
「……いいえ」
「そう。事務局の件、不安だろうと思ってね」
「はい。ブローム様がいてくださるので」
「うん」
サジェスは頷いた。
頷いてから、こちらの目をじっと見た。
「僕について、何か聞かれなかった?」
心臓が跳ねた。
胸の内側の魔導具が、急に十倍の重さになった気がした。
顔に出る。
絶対に出る。
シャンティは、握った拳を制服の陰に隠した。
昨日の夜も、閲覧室に三人がいた。
エルシアが紙をめくる音がしていた。
レオナードが茶を淹れて、ユースティアがそれを黙って飲んでいた。
顔を上げる。
「……何もありません」
「そうか」
サジェスは、少しだけ笑った。
信じたようには見えなかった。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
◇
呼び出しは、その翌日に来た。
学園事務局からの正式な通知だった。
紙には、いくつもの項目が並んでいた。
正式な貸付以外の利益供与を隠していたこと。
学園へ虚偽の申告をしていたこと。
貸付および給付の記録を不当に否認していること。
特待生制度を不正に利用した疑いがあること。
申立人の欄に、サジェス・ブロームの名があった。
シャンティは、紙を持ったまま閲覧室へ駆け込んだ。
「どうしよう……」
レオナードが紙を覗き込み、口の端を歪めた。
「先に動かれたな」
「予定より早い」
エルシアが短く言う。
ユースティアだけが、動じなかった。
紙を受け取り、上から下まで一度だけ目を通す。
そして、静かに言った。
「……そう来ましたか」
「あの、私、どうすれば」
「予定を変えます」
ユースティアは書類の束を引き寄せた。
「隠れて集めるのは、ここまでです。向こうが公の場を用意してくれたのなら、そこで出しましょう」
「でも、まだ全部は――」
「揃っています」
指が、束の上を順に叩いた。
「貸付通知。付随給付明細。受付番号と受理日。あなたが見つけた数字の矛盾。ガレス・バルドの発言。ミュラー男爵令嬢の証言。そして」
最後に、シャンティの胸のあたりを見た。
「あなたが取った、彼自身の声」
ユースティアが立ち上がった。
「行きましょう」
銀の髪が、灯りの下で流れた。
◇
評議は、大講堂の隣の広間で開かれた。
正面に学園幹部と教師たち。
左右に机。
傍聴の生徒も何人か入っている。
シャンティは、右側の席に座らされていた。膝の上で手を握っても、震えは止まらなかった。
向かい側に、サジェス・ブロームがいた。
背筋の伸びた立ち姿。
乱れひとつない制服。
金色の髪が、窓からの光を上品に弾いている。
その隣に、銀縁の眼鏡をかけたヴィクトル・レインが、書類の束を抱えて控えていた。
「僕としても、このような形になったことは残念です」
サジェスの第一声は、静かで、丁寧だった。
「彼女は地方から出てきた優秀な特待生です。生活が苦しいと知って、僕にできる範囲で支援をしました。参考書を貸し、必要な物を用立て、食事にも誘いました。返済を急がせたこともありません」
幹部の一人が頷いた。
「ですが、彼女はその援助を受けていないと主張し、学園への申告も行っていない。援助そのものが問題なのではありません。隠されていたことが問題なのです」
ヴィクトルが立ち、書類を提出した。
「学外貸付通知、および契約時添付の付随給付明細です。総額はこちらに」
読み上げられた金額に、傍聴席がざわめいた。
シャンティは俯いた。
数字が、頭の上を通り過ぎていく。
自分が、貴族から金をせびって、隠していた平民の少女として、この部屋の全員の頭の中に描かれていくのが分かった。
「……以上が、我々の申し立てです」
サジェスが軽く一礼した。
完璧だった。
声も、姿勢も、表情も。
――こうやって、私を辞めさせるつもりなんだ。
◇
「発言を、よろしいでしょうか」
広間の後方から、声がした。
全員が振り返った。
銀の髪が、扉の側の光の中に立っていた。
ざわめきの質が変わった。
教師の一人が慌てて立ち上がりかけ、幹部が目を見開く。
「オールドー公爵令嬢……?」
サジェスの声だった。
初めて――シャンティが知る限り、本当に初めて、その顔から余裕が抜けた。
ほんの一瞬だったが、確かに抜けた。
ユースティア・オールドーは広間の中央へ進み出た。
誰にも家名を告げなかった。告げる必要がなかった。
「いくつか、確認したいことがあります」
◇
幹部が発言を許可した。
ユースティアが書類を開こうとする。
その前に、シャンティは椅子を鳴らして立ち上がっていた。
全員の視線が集まった。
膝が笑っている。
喉が渇いている。
声が出るかどうかも分からない。
それでも。
「――それについては、私から説明させてください」
自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
「シャンティ嬢、着席を」
「いえ」
シャンティは首を振った。
「これは、私が何を受け取ったかの話です。だったら、私が話すべきです」
一瞬の沈黙のあと、幹部が手で促した。
シャンティは、写しの束を両手で持って前に出た。
紙が震えている。持ち方を変えて、机の上に置いた。
「まず、私が実際にお借りした金額を申し上げます」
数字を口にする。
実際に借りた額。
契約書に記されていた額。
合計は、きちんと一致している。
「これが、私が署名した契約の金額です。ここまでは、私も認めます。借りました。返します」
顔を上げる。
「でも、この明細は違います」
指を、二枚目の紙に置いた。
「参考書。ここに購入価格が書いてありますが、私は買っていただいていません。お借りしただけです。返す約束の本です。借りただけの本の購入価格が、なぜ私への援助になるんですか」
サジェスは黙って聞いている。
「会食費用も違います。私は招かれた側です。ブローム様やご学友も同席していました。それなのに、ここに書いてあるのは、その席の請求総額です。皆さんの分まで、私一人への援助として計上されています」
ざわめきが起きた。
「それから、この物品。革の手袋、外套、書見台。私はこれを受け取っていません。話に出たこともありません。持っていないものの代金を、返せと言われています」
一息に言ってから、シャンティは深く息を吸った。
「私は、この金額を受け取っていません」
サジェスが、静かに口を開いた。
「――君が、覚えていないだけでは?」
穏やかな声だった。
責める調子ですらない。
むしろ、混乱した後輩を気遣うような。
「あれだけのことがあったんだ。全部を正確に記憶しているほうが難しい。僕は君を責めているわけじゃないよ」
上手い、と思った。
これを言われたら、たいていの人間は自信をなくす。
自分の記憶のほうが間違っているのかもしれない、と思ってしまう。
でも。
「数字なら覚えています」
シャンティは、まっすぐ彼を見た。
◇
「補足します」
エルシアが立ったのは、そのすぐ後だった。
濃紺の髪の令嬢は、広間の空気にも幹部の視線にも、まるで関心を払っていなかった。
ただ紙を二枚、机に置いた。
「受付番号が違う」
「……何のことでしょう」
ヴィクトルが眼鏡に手をやった。
「一枚目、学外貸付通知。受付番号と受理日は契約の月」
エルシアの指が、紙の隅を示す。
「二枚目、付随給付明細。契約時添付とされている。でも受付番号は続き番号じゃない。受理日は、二か月後」
幹部の一人が身を乗り出し、書記が台帳を運んできた。照合が始まる。
広間が静かになった。
やがて、書記が顔を上げた。
「……相違ありません。付随給付明細の受理は、貸付通知の二か月後です」
ユースティアが、初めて口を開いた。
「なぜ、契約時の添付書類が、後から提出されているのですか」
ヴィクトルの喉が動いた。
けれど、何も言わなかった。
眼鏡の奥で、視線が一度サジェスのほうへ流れた。
それから戻った。
「もう一点」
エルシアが続けた。
「当初の通知にも、記載がない」
「もうひとつ」
エルシアが三枚目の紙を置いた。
「事務局の閲覧記録。レイン様が、シャンティ嬢の貸付関係書類を閲覧した日付」
指が、その日付を示した。
シャンティは息を呑んだ。
サジェスの誘いを断った、その後だ。
沈黙が落ちた。
隣で、サジェスの表情はまだ動かなかった。
◇
ガレス・バルドが呼ばれたのは、その次だった。
大柄な体は、広間の中では場違いなほど縮こまっていた。
「俺は……そんなことになるとは思ってなくて」
「何を頼まれたのです」
ユースティアが聞いた。
「シャンティを見てろって……変な奴が近づかないようにって、サジェス様が」
シャンティは、渡り廊下を思い出した。
進路を塞ぐ位置。
世間話のふりをした声。
あれは、報告のためだったのだ。
サジェスが、穏やかに口を挟んだ。
「誤解のないように申し上げますが。彼女は地方から出てきたばかりで、周囲に頼れる者もいない。心配だったから、見守らせただけです」
「――違う!」
ガレスの声だった。
本人が一番驚いた顔をしていた。
それから、混乱したように早口で続けた。
「見守るなんて言われてない。俺は見張れって頼まれただけだ! 誰と話したか、どこへ行ったか、報告しろって……そうだよ、報告しろって言われたんだ。見守るだけなら、なんで報告がいるんだよ」
広間が、しんとした。
サジェスの口元が、ほんのわずかに動いた。
ガレスは、自分が今何をしたのか分からないという顔で、それでも喋り続けた。
「そういえば……最近、レオナードにサジェス様のことを色々聞かれたから、それでヴィクトルに話しただけで……俺、変なこと言ったか? なあ、サジェス様、俺――」
ヴィクトルが、はっきりと顔を背けた。
シャンティは、そこでようやく理解した。
サジェスが急に鋭くなった理由。
あの日の質問。
きっかけは、この大男の何気ない一言だったのだ。
悪意もなく、ただ素直に。
◇
「発言をお許しください」
フローレンス・ミュラーが立ったのは、その後だった。
亜麻色の巻き毛の令嬢は、顔を青くしながら、それでも背筋を伸ばしていた。
「わたくしは、シャンティさんと同じ学年の者です。入学の初日から、隣の席で学んでまいりました」
声が少し高い。
緊張しているのが分かる。
「まず申し上げたいのは、シャンティさんは、入学してからずっと真面目でした。授業にも課題にも手を抜かず、わたくしが算術を教えてほしいとお願いしたこともございます」
幹部の一人が頷いた。
「昼食は、いつも一番安い定食を選んでいました。わたくしがお茶会にお誘いしたときも、手土産の焼き菓子を用意するのに、ずいぶん悩んでおりました」
シャンティの視界が、また滲みそうになった。
見られていた。
何ひとつ言わなかったのに、全部見られていた。
「その方が、貴族から金銭を得るために近づくとは、わたくしには考えられません」
フローレンスは、そこで初めてサジェスのほうを見た。
「変わられたのは、ブローム様と親しくなられてからです」
「……」
「笑わなくなりました。食事にも手をつけなくなりました。何かありましたのと伺っても、寝不足だとおっしゃるだけで……そして最後には、事務局で退学届をお受け取りになるところを、わたくしが見ました」
声が震えた。
「あの子が、あんなに勉強したがっていたあの子が、辞めようとしていたのです。わたくしはそれを、どうしても見過ごせませんでした」
シャンティは、膝の上で拳を握った。
自分は、誰にも何も言わなかった。
迷惑をかけまいとして、一人で全部抱えて、一人で消えようとした。
それなのに、この人はずっと見ていて、勝手に動いて、今ここに立っている。
◇
「――以上ですか」
サジェスが、静かに言った。
まだ崩れていなかった。
「証言はすべて、印象の話です。バルドは僕の頼み方を誤解した。ミュラー嬢は友人を心配している。それは分かります。ですが、僕が彼女に何を要求したという証拠は、どこにもない」
シャンティは、立ち上がった。
制服の内側から、小さな金属の箱を取り出す。
両手で持って、机の上に置いた。
「これは……私が記録しました」
サジェスの視線が、初めてそこに落ちた。
「そんなもの、いくらでも捏造できる」
「鑑定済みです」
ユースティアの声だった。
「昨日、管理官による鑑定を受けています。返却後も、認証印は無傷です」
魔導具管理官が立ち上がり、頷いた。
「間違いありません。改変の痕跡はございません」
シャンティは、震える指で魔導具に触れた。
小さな音がして、部屋の空気が変わった。
『僕の言うことを聞いていれば、問題にはならない』
サジェスの声だった。
穏やかで、優しくて、少しだけ笑いを含んだ、いつもの声。
『君の特待生資格を守れるのは誰だと思っている?』
誰も動かなかった。
『退学したくないだろう?』
音が止まった。
広間は、水を打ったように静かだった。
サジェスの顔から、笑みが消えていた。
完全にではない。
口元はまだ形を保っている。
ただ、目のあたりに、細い亀裂のようなものが走っていた。
◇
それでも、彼は崩れなかった。
「……会話の一部だけを、切り取っただけです」
声は落ち着いていた。
「彼女は事務局に呼ばれて、混乱していました。安心させようとしたんです。君が心配することはない、僕が説明すれば大丈夫だ、と。前後を聞けば分かるはずです」
「では、前後を再生しましょうか」
ユースティアが言った。
サジェスは答えなかった。
「解釈の問題でしょう」と彼は続けた。
「僕は脅していない。一度も、要求などしていない」
「一つひとつは、そうかもしれません」
ユースティアは書類を一つずつ示した。
「あなたが貸付を用意した。これは親切です」
「彼女が私的な誘いを断った。その後に、レイン様が書類を閲覧した」
「そして、契約時添付とされる明細が、後から提出された。中身は、借りただけの本、招かれただけの食事、受け取っていない物品」
ユースティアはガレスへ視線を移した。
「同じ時期、バルド様が彼女の行動を報告していた」
そして、記録魔導具を見る。
「あなた自身の声が、資格と服従を並べて語っている」
「一つなら、親切と誤解で説明がつきます。二つでも、偶然と言えるでしょう。ですが」
視線を上げた。
「これらすべてが、同じ方向を向いています」
「……」
エルシアが、別の記録を開いた。
「四年間。接触した平民女子九名。そのうち六名が退学」
サジェスが言った。
「僕と知り合いだった、それだけですよ」
「ええ」
ユースティアは否定しなかった。
「それだけでは、あなたを裁けません。だから今まで裁かなかった」
一拍。
「ですが、今回の件は違います」
◇
「僕は」
ヴィクトルの声が、掠れていた。
「僕は、言われた事務処理をしただけです。書式を整えて、提出しただけで。内容の判断は、僕の職分では――」
「ヴィクトル」
サジェスが、初めて名前を呼んだ。
その一言に、これまでにない硬さがあった。
ヴィクトルは口を閉じた。
それでも身体は、わずかにサジェスから遠ざかっていた。
ガレスは俯いたまま、一度も顔を上げなかった。
フローレンスは、シャンティの隣に立っていた。
サジェスは、ゆっくりと広間を見回した。
幹部たちの顔。
教師たちの顔。
傍聴の生徒たちの顔。
そして、机を挟んだ向かい側。
栗色の髪の少女と、銀の髪の令嬢を。
ユースティアは、しばらくサジェスを見ていた。
「一つ、分かりません」
「……何でしょう」
「平民一人を、なぜここまで追い詰めるのです」
サジェスの眉が、わずかに動いた。
「追い詰める?」
初めて、その声に薄い苛立ちが混じった。
「僕は何も強制していない。困っていたから助けた。学園に残る道も示した。そのうえで、何を選ぶかは彼女自身の問題でしょう」
「拒めば、債務を増やす」
「借りたものを返すのは当然です」
「拒めば、特待生資格を失うと思わせる」
「僕なら守れると言っただけだ」
ユースティアは表情を変えなかった。
「それを、選択肢と呼ぶのですか」
サジェスは答えなかった。
広間の視線が、一斉に彼へ集まっている。
やがて、口元に残っていた笑みが消えた。
「……たかが平民一人だ」
シャンティの指先が、わずかに震えた。
サジェスは、気づいた様子もなかった。
「学園を辞めたところで、故郷へ帰ればいい。別の生き方だってある。それを、なぜあなたがここまで大事にする」
ユースティアは、静かに彼を見た。
「だから、あなたには分からなかったのですね」
「……何が」
「彼女が、一人ではなかったことが」
一拍。
「その考え方が、あなたの敗因です」
◇
サジェスの呼吸が乱れていた。
それでも彼は、最後の手を伸ばした。
「……この程度の、学園内の話で。父上が黙っていると思うのか。ブローム家は――」
「学園内の話ではありません」
ユースティアが遮った。
「え……?」
「虚偽の給付記録による債務の捏造。文書の工作。制度を用いた脅迫。特待生制度への不正な干渉」
一拍。
「そして、過去六件についても再調査を求めています。今回の証拠と、そのための資料は、すでに司法へ提出しました」
サジェスの顔から色が抜けた。
「……最初から」
掠れた声だった。
「最初から、そのつもりで――」
「いいえ」
ユースティアは首を振った。
「あなたが何をするかまでは知りませんでした」
そして、書類の束を静かに閉じた。
「ですが、証拠は揃いました」
サジェスが、俯いた。
ユースティアはそれ以上、何も付け加えなかった。
「終わりました」
◇
処分が正式に告げられたのは、しばらく後のことだった。
サジェス・ブロームは司法へ送られた。
過去六名の件についても、捜査の対象となったと聞いた。
ブローム侯爵家は、彼を庇わなかった。
皇族の降嫁を受けた名門であるからこそ、家名と皇室との縁を守るために、個人を切り離したのだという。
サジェスは家から追放された。侯爵家そのものは、これまでどおり残った。
ヴィクトル・レインは退学となった。
文書工作への関与について、司法から事情を聞かれることになったらしい。
ガレス・バルドは停学と、一定期間の学園奉仕活動。
見張りと圧力に加担した以上、無罪ではない。
ただ、悪事の全容を知らなかったこと、最後に証言へ協力したことが考慮された。
処分が掲示された日、シャンティは廊下で彼とすれ違った。
ガレスは足を止め、しばらくもごもごと口を動かしてから、
「……悪かった」
とだけ言って、大きな背中を丸めて行ってしまった。
◇
過去に退学した六人にも、連絡がいったと聞いた。
事件が正式に認定されたことで、不当に背負わされた債務の整理が始まった。
生活の立て直しや、学び直しへの援助についても、話が進んでいるという。
全員が元どおりになるわけではない、とユースティアは言った。
失った時間は戻らないし、断たれた進路が同じ形で開くわけでもない。
それでも、やり直す道は開かれた。
シャンティは、その六人の顔を知らない。
名前も知らない。
けれど、いつかまた、学びたいと願う誰かが歩き出すとき、その道が塞がれていないといい、と思った。
◇
事件からしばらく経った日、掲示板の前に人だかりができていた。
学園統一試験の結果だった。
学年を問わず全生徒が受ける試験で、総合順位が公表される。
シャンティは人の隙間から背伸びをして、上のほうから名前を追った。
そして、見つけた。
第二位 シャンティ
「――二位……!」
声が出た。
膝が抜けそうになった。
あんなことがあった学期で、それでも二位だった。
あの日々の中でも、机に向かうことだけはやめなかった。
やめないでよかった、と思った。
そして、その一つ上を見た。
第一位 ユースティア・オールドー
シャンティは振り返った。
人だかりの外側に、銀の髪が立っていた。
「ユースティア様!」
「何でしょう」
「次は勝ちますから!」
周りの生徒が何人か振り返った。
ユースティアは、しばらくシャンティを見ていた。
それから、短く言った。
「期待しています」
◇
その週末、シャンティはようやく、あの店の前に立った。
帝都に来た初日、値段と財布を見比べて、通り過ぎた店。
銀の器に盛られた白いそれを、一口すくって、口に入れた。
冷たい。
甘い。
舌の上で溶ける。
「――美味しい……!」
思わず声が出た。
故郷の家族に手紙で書こう、と思った。
今度は、隠すことなど何もない手紙だ。
顔を上げると、隣の席のユースティアの器が、すでに空になっていた。
「……あれ?」
シャンティは目を瞬かせた。
まだ自分は三口しか食べていない。
「ユースティア様、アイス好きなんですね」
「普通です」
ユースティアは、何事もなかったように視線を逸らした。
向かいの席で、エルシアが本から目も上げずに言った。
「二つ目」
「……」
「三つ目いく?」
レオナードが身を乗り出して、給仕を呼ぶ手つきをした。
ユースティアの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……黙りなさい」
シャンティは、吹き出した。
自分でも驚くくらい、自然に声が出た。
あの廊下から、ずっと出てこなかった笑い方だった。
銀の髪の令嬢は、その様子を横目で見て、何も言わなかった。
ただ、給仕が新しい器を運んでくるのを、追い払いもしなかった。
ユースティアは一拍置いて、新しい器へスプーンを入れた。
窓の外は、よく晴れていた。
◇
そこへ、店の入口から一人の女生徒が近づいてきた。
制服の袖を握りしめている。
何度も口を開きかけては、閉じている。
シャンティは、その顔を知らなかった。
女生徒は、テーブルの手前で立ち止まった。
「……あの」
小さな声だった。
「オールドー様……少し、お話が」
「聞きましょう」
ユースティアは、静かにスプーンを置いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『仕事人令嬢の報酬は、卒業です』
これにて完結です。




