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第1話 夢を胸に帝都へ

全2話の短編、前半です。

後半も同時に公開しています。

朝靄が、まだ道の低いところに白く残っている。


田舎町の目抜き通り――といっても石畳ですらないその道の端で、シャンティは大きな旅行鞄を足元に置いた。


「お姉ちゃん、帝都ってお城がいっぱいあるの?」

「貴族になるの? お姉ちゃん、貴族になっちゃうの?」


妹と弟が代わる代わる袖を引っ張る。

シャンティは笑って、二人の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「ならないってば。勉強しに行くだけ。お城はたぶん一個だけど、すっごく大きいんだって」


店の看板の下には、父と母、それに兄と姉が並んで立っている。


小さな雑貨商だ。

日用品と保存食、布に文具、農具の替えの柄――町の暮らしに要るものなら、大抵置いてある。


シャンティも物心ついた頃から店番をして、帳面をつけて、釣り銭を数えて育った。


母が歩み寄って、シャンティの栗毛を指で梳いた。

少し癖のある、母親譲りの栗色の髪。


「向こうでも、ちゃんと結いなさいね。せっかくいい色の髪をしているんだから」

「はいはい」

「返事は一回」

「はい」


姉が吹き出し、兄が「達者でな」とだけ言って、荷紐をもう一度締め直してくれた。

特待生試験に受かったと知らせたとき、この兄は町中に触れ回りかねない勢いで喜んだのだ。


父と母は、最後に同じことを言った。


「家のことは気にしなくていい」

「困ったことがあったら、必ず知らせなさい。いいね」

「うん!」


シャンティは鞄を持ち上げ、胸を張った。


「いっぱい勉強して、立派な文官になって帰ってくるから!」


帝国の文官になる。

それも、地方の役場や学校、奨学制度に関わる仕事がしたい。


田舎の雑貨屋の娘が帝都で学べるのは、特待生制度があったからだ。


だったら今度は、自分が誰かに機会を渡す側になりたい。


乗合馬車が動き出し、手を振る家族が小さくなって、やがて街道の曲がり角に消える。


それを見届けてから、シャンティは前を向き、誰にも聞こえない声で決めた。


「……絶対に、心配はかけないからね」


それは家族への、たったひとつの内緒事だった。


◇


帝都は、噂よりも大きかった。


見上げる首が痛くなるほどの城壁。

石造りの建物が何列にも連なり、磨かれた馬車が絶え間なく行き交う。

人の多さときたら、故郷の祭りの日を毎日やっているようなものだ。


そして、名門として名高い学園の正門前で、シャンティはしばらく固まった。


門の向こうに、白い校舎が翼を広げるように建っている。


「……ここで、私が勉強するんだ」


声に出してみても、まだ実感が追いつかなかった。


入寮の手続きでは、係の職員が丁寧に説明してくれた。

特待生は学費と正規教材費が全額免除。

ただし寮費、食費、日用品、私的な参考書などは自己負担。


シャンティは頷きながら、頭の中で帳面を開いた。


寮費が月にこれだけ、食費を切り詰めてこれだけ、灯り用の油と紙とペン先――実家から持たされた分と合わせて、指を折るまでもなく答えは出る。


――うん。贅沢しなきゃ、大丈夫。


手続きを終えて寮へ向かう途中、街角に小さな店を見つけた。

硝子越しに、銀の器に盛られた白いお菓子が見える。


アイスクリーム。


故郷では話に聞くだけだった、帝都の高級菓子だ。


立ち止まる。

看板の値段を見る。

財布の中身を思い浮かべる。


「…………卒業までには、一回食べよう」


うん、と自分に頷いて、シャンティは笑って、その店の前を通り過ぎた。


◇


教室に入ると、絹擦れの音がした。


並んでいるのはほとんどが貴族の子女だ。

仕立てのいい制服。

洗練された所作。

挨拶ひとつにも作法がある。


シャンティは自分の袖口をそっと引っ張って、背筋を伸ばした。


――大丈夫。勉強しに来たんだから。


最初の授業は算術だった。


教師が黒板に、商会の仕入れと売り上げを題材にした問題を書き出す。

周囲の生徒たちが教本どおりの手順で書き始める中、シャンティは癖で、先に品目をまとめ替えてから計算を進めた。


一番早く手が挙がったのを見て、教師が歩み寄ってくる。


「答えは正しい。だが、教本と手順が違うね。どうしてこの順で?」


「あっ……ええと、うちの店だと、この順番で計算したほうが間違えにくいんです。荷が届いた順じゃなくて、税のかかる品を先にまとめておくと、あとで検算が一回で済むので」


教師は目を丸くし、それから深く頷いた。


「なるほど。面白い考え方だ。皆も覚えておくといい」


頬が熱くなった。

褒められたのは嬉しいが、注目されるのは慣れない。


そのとき、隣の席から小さな声がした。


「……ねえ。その計算方法、もう一度教えてくださらない?」


亜麻色の巻き毛の令嬢が、ノートを半分こちらへ寄せている。


シャンティは即答した。


「もちろん!」


それが、フローレンス・ミュラー男爵令嬢との最初の会話だった。


◇


昼食の時間、シャンティは食堂で一番安い定食を盆に載せた。

パンと豆のスープ、それに小さな腸詰め。

十分なご馳走だ。


「シャンティさん。よろしければ、こちらへ」


フローレンスに手招きされて、令嬢たちの席に同席することになった。


緊張はした。

向こうも、平民の特待生とどの距離で話すべきか、少し測っているのが分かる。


けれどシャンティは、家格の探り方など知らない。

知っているのは、目の前のものを素直に言葉にすることだけだ。


「フローレンス様、そのハンカチ、すごく綺麗ですね。それ、手で刺してあるんですか?」

「え、ええ。祖母に習いましたの」

「うわあ……。うちの店でも刺繍糸は売ってますけど、こんな細かいの、町の誰もできませんよ。お祖母様、名人ですね」


フローレンスが目を瞬かせ、それからようやく、ふ、と笑った。


スープを一口飲んで、シャンティは今度は素直に感動した。


「このスープ、すっごく美味しいです……! 豆がとろとろ……」

「……それだけで、足りますの?」

「足ります足ります。うちは七人家族ですからね。ぼんやりしてると弟におかず取られるんです。早食いと確保は得意なんですよ」


令嬢たちが、こらえきれずに笑った。


それからだ。

数日もすると、食堂に入るなり声がかかるようになった。


「シャンティ、こちらへいらっしゃい」


呼んでくれるのはたいていフローレンスだった。

教科書を貸し合い、放課後に算術を教え、代わりに貴族式の挨拶の作法を教わった。

他の令嬢たちとも自然に話すようになったけれど、一番よく笑い合うのは、やっぱり彼女だった。


シャンティはただ、楽しかっただけだ。


◇


『お父さん、お母さんへ。


 授業はむずかしいけど、すごく面白いです。

友達もできました。

男爵家のお嬢様で、刺繍がとても上手な人です。

図書館は、うちの店が二十個入るくらい大きいです。

貴族のお嬢様たちも、思っていたほど怖くありませんでした。

ごはんもおいしいです。

毎日ちゃんと勉強しています。


 みんな元気ですか。

弟と妹が、店のお手伝いをさぼっていないか心配です。


 帝都に来て、本当によかった。


              シャンティ』


生活費が思ったよりかかることは、書かなかった。

書けば父も母も、きっと無理をする。


便箋を折りながら、シャンティは窓の外の帝都の灯りを眺めて、もう一度思った。


――本当に、来てよかった。


◇


その日、シャンティは図書館で欲張りすぎた。


課題の資料に、辞書に、地誌に――積み上げた本を顎で押さえて棚の間を歩いていたら、案の定、一番上の一冊が滑り落ちた。


「わっ……」


慌ててしゃがもうとした、その足元で。

先に、白い手が本を拾い上げていた。


顔を上げて、シャンティは一瞬、言葉を忘れた。


銀色だった。


高い窓から落ちる光を受けて、長い銀の髪が、流れるように光っている。

染めたのでも飾ったのでもない、生まれつきの銀。

その下で、深い緑色の瞳が静かにこちらを見ていた。


知っている。

入学してすぐ、令嬢たちの噂で聞いた。


オールドー公爵家のご令嬢。


成績は学園でも随一、けれど誰とも群れない、孤高の人。

冷たい方だから近寄らないほうがいい、と言う人もいた。


その人が、無言で本を差し出している。


「あっ、ありがとうございます!」

「……どういたしまして」


それだけ。


ユースティア・オールドーは本を渡すと、もう用は済んだとばかりに身を翻した。

銀の髪が、書架の陰へ静かに消えていく。


シャンティはその背中を、思わず見送った。


――噂ほど、怖い人には見えなかったけど。


愛想はない。

言葉は少ない。

笑顔もない。


でも、何も要求されなかった。


名乗りもしなければ、恩着せがましいことも言わない。

ただ拾って、渡して、去っただけ。


貸出台のほうへ目をやると、図書委員の席で、濃紺の髪の細身の令嬢が黙々と貸出票に判を押していた。


確か、子爵家の方が図書委員をなさっていると聞いた気がする。

彼女もこちらを見もしない。


この図書館の人たちは、みんな静かだなあ――と、シャンティはそのときは、それだけ思った。


◇


数日後、シャンティはまた図書館で困っていた。


授業の範囲外だが、文官志望なら読んでおくべきだと教師に勧められた参考書。


目録にはあるのに棚にない。

貸出中の札だけが残っている。


「どうしよう……次の返却日、再来週かあ……」

「――何かお探し?」


振り返ると、金色があった。


窓の光を弾く金髪に、空色の瞳。

上級生の制服を品よく着こなした、絵物語から抜け出してきたような美男子が、柔らかく微笑んでいる。


「君、新しく入った特待生だよね。シャンティさん」

「え……は、はい。あの、どうして名前を」

「有名だよ。初日の授業で先生をうならせた子がいるって」


彼は棚の貸出札を覗き込み、ああ、と頷いた。


「その本なら僕も持ってるよ。よかったら貸そうか?」

「えっ!? い、いえ、そんな、悪いです」

「遠慮しないで。――ああ、名乗っていなかったね。サジェス・ブローム。三年生だ」


ブローム。

侯爵家だ。

さすがのシャンティも、その家名くらいは知っている。


ますます恐縮して首を振ると、サジェスは可笑しそうに笑った。


「優秀な後輩を助けるくらい、どうってことないよ」


そのとき、書架の向こうの通路をフローレンスたちが通りかかって、シャンティに小さく手を振った。

振り返すと、サジェスもそちらへ目をやった。


「もうずいぶん仲良くなったんだね」


天気の話でもするような、軽い響きだった。視線は令嬢たちの上を、留まることなく滑っていった。


「はい! みなさん、よくしてくださって」

「そう。いいことだ」


サジェスは微笑んだまま、話を本に戻した。


翌日、彼は本当に本を持ってきてくれた。

革装の立派な参考書だった。


「ありがとうございます! 必ず、綺麗なままお返しします!」

「うん、急がなくていいよ」


シャンティはありがたく本を胸に抱えた。


◇


「ブローム様って、とても親切なんですね」


昼食の席でそう言うと、フローレンスのスプーンが、ほんの一瞬止まった。


「……サジェス・ブローム様?」

「はい。参考書を貸してくださって」

「……そう」


歯切れが悪い。

シャンティが首を傾げると、フローレンスは少し迷ってから、声を落とした。


「……わたくし、あの方は少し苦手ですの」

「え……何かされたんですか?」

「いいえ。何も」


きっぱりと言ってから、彼女は自分でも困ったように眉を下げた。


「本当に、何も。悪い噂ひとつありませんのよ。ただ……理由は、うまく言えないのですけれど」


それきり、フローレンスはその話をしなかった。


シャンティは、そういう相性もあるのかな、と思った。

実際、警戒すべきことなど何ひとつ聞かなかったのだ。


悪い噂はない。

礼儀正しい。

本当に親切にしてもらった。


それ以上、何を疑えというのだろう。


◇


それから、サジェスとは時々話すようになった。


大きな出来事があったわけではない。

廊下で会えば授業の話をし、図書館で会えば参考書の相談に乗ってもらう。

分からなかった箇所に付箋を貼っておくと、次に会ったとき、丁寧に解説してくれる。

その程度の、小さな親切の積み重ねだった。


あるとき、進路の話になった。


「シャンティさんは、卒業したらどうするの」

「文官になりたいんです。それも、できれば地方の……学校とか、奨学制度に関わる仕事がしたくて」


言ってから、少し恥ずかしくなった。

田舎の平民の娘には大きすぎる夢だと、自分でも分かっている。


けれどサジェスは笑わなかった。


「どうして、そこなの」

「私、特待生制度がなかったら、帝都に来られませんでした。だから……今度は私が、次の誰かに機会をあげる側になりたいんです」


サジェスは目を細めて、ゆっくり頷いた。


「いい夢だ。官僚院の登用試験は狭き門だけど――君ならできるんじゃないかな。今の成績なら、推薦だって狙える」


十四歳の胸に、その一言はまっすぐ沁みた。


この人は、自分の夢を笑わずに聞いて、届く道を教えてくれる。


頼れる先輩なのだ――シャンティは、そう思うようになっていた。


その日の帰り、借りた参考書を抱えて渡り廊下を歩いていると、向こうから銀の髪が近づいてきた。


ユースティア・オールドー。

相変わらず一人で、まっすぐ前を向いて歩いてくる。


会釈をしようとした、そのとき。


緑の瞳が、ほんの一瞬だけ、シャンティの抱えた本の上に落ちた。


背表紙に刻まれた、盾と百合の紋章――貸してもらったとき、ブローム家の印だと教わった、そのあたりに。


けれどユースティアは何も言わなかった。

視線はすぐに前へ戻り、銀の髪が風をひとつ残して、すれ違っていった。


「……挨拶、しそびれちゃった」


シャンティはそれだけ思って、歩き出した。


◇


季節が進んで、寮費の納付時期が来た。


寮費そのものは計算どおりだった。

問題はその前後に、思いもよらない出費が続いたことだ。


制服の袖を廊下の金具で破いてしまい、指定の仕立て屋での補修費が町の三倍もした。


フローレンスたちの小さなお茶会に招かれて、手ぶらでは行けないからと焼き菓子を用意した。


文官志望者向けの任意講習で使う製図用具一式は、免除の対象外だった。


一つひとつは小さい。

けれど帳面の上で、それらは容赦なく足し算になる。


夜、シャンティは自室で何度も検算した。


数字は間違っていない。

間違っていないから、困るのだ。

どう並べ替えても、寮費の納付日までに、足りない。


便箋を出して、ペンを持った。


『お父さん、お母さんへ。実は少しだけ、お金が――』


そこで、手が止まった。


これを送れば、仕送りは必ず来る。

父は必ず送ってくる。

店の仕入れを削ってでも、母の冬着を我慢してでも。


――絶対に、心配はかけないって決めたのに。


書きかけの便箋を、そっと引き出しにしまった。


翌日、廊下でばったり会ったサジェスは、シャンティの顔を見るなり言った。


「何か、困っている?」

「え……い、いえ、何も」

「そう? ここ数日、笑顔が三割減ってるけど」


冗談めかした言い方に、つい苦笑いがこぼれて――話の流れで、結局、寮費と諸経費のことを知られてしまった。


サジェスは大げさに驚いたりしなかった。

ただ、なんでもないことのように言った。


「それなら、学園とは別に、うちの家が出資している学生向けの貸付制度があるよ。一時的なものだけど、在学中の返済は求められない」

「で、でも、そんな……ご迷惑じゃ」

「迷惑なものか。制度は使うためにある。君、奨学制度に関わりたいんだろう? なら、借りる側の気持ちを知っておくのも勉強のうちだ」


シャンティは、それでも何度も確認した。


「本当に、いいんですか?」

「もちろん。――詳しい条件は、見てから決めればいい」


サジェスは軽く笑った。


「放課後、ヴィクトルに書類を用意させよう。うちの家の手続きは、彼が正確だから」


その日の放課後。

サジェスに案内された小応接室には、細身で銀縁の眼鏡をかけた上級生が、すでに卓の前で待っていた。


「ヴィクトル・レインです。書類です。ご確認を」


ヴィクトルは事務的にそう言って、卓に紙を広げた。

シャンティは店の帳簿で鍛えた目で、隅々まで読んだ。


貸付額、返済開始の時期、利息はなし。

おかしな条項は見当たらない。

金額も、必要な分だけだ。


署名をすると、ヴィクトルは書類を手早くまとめた。


「控えは、追ってお渡しします」

「あ、はい。お願いします」


数日待っても、控えは届かなかった。


控えのことは何度か思い出した。

けれど侯爵令息のサジェスや上級生のヴィクトルを、わざわざ呼び止めて催促するのは気が引けた。


明日こそ聞こうと思いながら、何度も機会を逃した。


その夜、シャンティは帳面を閉じて、深く息を吐いた。


――これで、家族に迷惑をかけなくて済む。


◇


変化は、ゆっくりと始まった。


サジェスからの誘いが増えたのだ。


最初は、彼の学友も交えた昼の会食だった。


世話になっている先輩の誘いだ。

礼儀として一度は喜んで応じたし、実際、楽しかった。


けれど、次第に様子が変わった。


二人だけで、と言われることが増えた。

休日の予定を聞かれ、こちらの都合より先に彼の都合が置かれるようになった。

断ると、日を改めてまた誘われる。


――先輩って、こういうものなのかな。


違和感は、まだ言葉にならない大きさだった。


決定的だったのは、フローレンスと街へ出る約束をしていた日のことだ。


「今度の休み、付き合ってほしい場所があるんだ」

「あっ……すみません。その日は、友達と約束をしているので」


一拍。


ほんの一拍だけ、間が空いた。


「そう。残念だな」


サジェスは笑っていた。

声も、いつもどおり柔らかかった。

怒った様子など、どこにもなかった。


だからシャンティも、気にしすぎかな、と思った。


思おうと、した。


◇


数日後の放課後、人気のない渡り廊下で、シャンティは呼び止められた。


「なあ。君が、シャンティか」


振り返ると、壁のような上級生が立っていた。


大柄で、剣術部の胴着を肩に担いでいる。


確か、サジェスの周りでよく見る顔だ。ガレス・バルドと呼ばれていた気がする。


「は、はい。そうですけど」

「ふうん」


ガレスは何をするでもなかった。

ただ、進路をさりげなく塞ぐ位置に立って、世間話のように言った。


「サジェス様、君のことよく気にかけてるよな。……ちゃんと感謝してるか?」

「……はい。とても、お世話になってます」

「ならいい。あの人は、本当にできた人だからな」


それだけ言うと、ガレスは満足したように道を空けた。


悪意のある口調ではなかった。

むしろ、心からサジェスを慕っているのが伝わってくる、素朴な声だった。


シャンティは会釈して、その場を離れた。


害は、何もなかった。

何も。


なのに寮への道すがら、背中に残ったのは、うまく言葉にできない感覚だった。


――見られてる?


まさか、と首を振った。

振ったけれど、その感覚は消えなかった。


◇


呼び出しは、唐突に来た。


学園事務局。

通されたのは、飾り気のない面談室だった。

事務官の他に、見知った顔がひとつ――ヴィクトル・レインが、書類の束を前に座っていた。


「貸付元から確認の申し立てがありましたので、レイン様にも同席いただいています」


卓に広げられた記録を見て、シャンティは自分の目を疑った。


金額が、違う。


借りたと認識している額の、倍近い数字が並んでいる。

しかも項目が増えていた。


参考書貸与、物品貸与、会食費用――借りた覚えのないものまで、一つひとつ金銭に換算されて、合計に積み上がっている。


「ま、待ってください。私、こんな額は借りてません……!」

「あなたの署名です」


ヴィクトルが、書類の末尾を指で示した。


見覚えのある、自分の署名だった。

あの夜、確かに自分で書いた。


「でも、私が確認したときは、こんな項目は――」


言いかけて、気づいた。


控えが手元にないことの意味を、シャンティはここで初めて思い知った。


「追ってお渡しします」


あの言葉のまま、控えは届かなかった。

催促もしなかった。

つまり今、記録の中身を証明できるのは、向こうの持つこの書類だけなのだ。


血の気が引いていくシャンティに、ヴィクトルは眼鏡を押し上げ、淡々と続けた。


「通常の貸付そのものは、問題ではありません」


一拍置いて、続ける。


「ですが、この記録では、正式な貸付とは別に、参考書や物品、会食費用までブローム家から継続的に提供されたことになっています。これが貸付ではなく『援助』と認定された場合――特定の貴族家から未申告の利益供与を受けていたとして、特待生資格そのものが審査の対象になる可能性があります」

「……っ」


借金の額よりも、その一言のほうが、はるかに冷たく刺さった。


特待生資格を失えば、学費は払えない。

払えなければ、退学だ。

退学すれば――文官の夢も、家族との約束も、何もかもが終わる。


「感情ではなく、現実を見たほうがいい」


ヴィクトルは、それだけ言った。


◇


面談室を出た廊下で、膝が震えていた。


どうしよう。

どうすれば。

誰に――


「――やあ。大変だったね」


穏やかな声がした。


サジェスが、窓辺に立っていた。

いつもとまったく同じ、柔らかい微笑みで。


「事務局は融通が利かなくて困る。大丈夫だよ」

「ブローム、様……」

「僕から事情を説明すれば、こんなものはすぐ片付く。貸付の件も、特待生の申告の件も、ね」


すぐ片付く。


その言葉に、シャンティは一瞬、本当に救われたと思った。


「ほ、本当ですか……?」

「もちろん」


サジェスは頷いて、それから、ほんの半歩だけ距離を詰めた。


「ただ――」


声は、優しいままだった。


「これからは、もう少し、僕の言うことを聞いてほしいな」


風の抜ける廊下で、シャンティは動けなくなった。


言葉の意味を、理解するのに数秒かかった。

理解した瞬間、足元から冷たいものが這い上がってきた。


学園に残りたければ、この人に従え。


彼はそうは言っていない。

一言も言っていない。

けれど、それ以外の意味が、どこにもなかった。


――ああ。


参考書も。

貸付も。

夢を「いい夢だ」と言ってくれた、あの言葉も。


ぜんぶ、この半歩のためだったのだ。


「返事は、急がなくていいよ」


サジェスは微笑んだまま、シャンティの肩を軽く叩いて、歩き去った。


その足音が消えても、シャンティはしばらく、動けなかった。


◇


「シャンティ?」


昼食の席で、フローレンスの声がした。


「……はい?」

「はい、ではなくて。……最近、何かありましたの?」


気がつくと、スプーンが止まっていた。

大好きな豆のスープが、ほとんど減っていない。


シャンティは慌てて口角を上げた。


「ちょっと寝不足なだけですよ。課題、多いですから」


自分でも分かった。

いつもの笑い方に、なっていない。


フローレンスは、じっとこちらを見ていた。

何か言いかけて、口を開いて――結局、閉じた。


「……そう。無理は、なさらないで」

「はい。ありがとうございます」


会話はそれで終わった。

周りの令嬢たちの笑い声が、硝子の向こうの音みたいに遠かった。


言えるわけがない。

相手はブローム侯爵家だ。

フローレンスは男爵家の令嬢で、優しくて、大切な友達で――だからこそ、巻き込めない。


◇


その夜、寮の部屋に、故郷からの手紙が届いていた。


『シャンティへ。


 店は変わりなくやっています。

先週、隣町から布の注文がまとめて入って、お兄ちゃんが張り切って配達に行きました。

妹はあなたの真似をして帳面をつけたがるのですが、まだ足し算が怪しいです。

弟は、お姉ちゃんに送るんだと言って、木の実を集めています。

食べられるものかどうか、お父さんが調べています。


 ちゃんと食べていますか。

帝都は物価が高いと聞きます。遠慮はいけませんよ。


 困ったことがあったら、何でも知らせなさい。何でもです。


 みんな、あなたの自慢ばかりしています』


母の丸い字。

端に父の几帳面な一文。

兄と姉の走り書き。妹の、確かに怪しい足し算みたいな署名。

弟の、字ともいえない印。


視界が滲んで、文字が読めなくなった。


助けてほしい。


本当は、今すぐ全部書いて送ってしまいたい。

助けて、怖い、帰りたいって。


でも――言えば、この人たちは無理をする。

店を傾けてでもお金を作って、下手をすれば父が帝都まで出てくる。


相手は侯爵家だ。田舎の雑貨商が敵う相手じゃない。

家族まで、巻き込まれるかもしれない。


「……言えないよ……」


栗色の髪が、便箋の上にはらりと落ちた。

母が「いい色だ」と梳いてくれた髪だ。


シャンティは手紙を胸に抱えて、声を殺して泣いた。


◇


何日も、考えた。

考えて、考えて、辿り着いた答えは、ひとつだけだった。


――私一人が、帰ればいい。


自分が退学すれば、すべて終わる。

フローレンスたちを巻き込まずに済む。

家族に事件のことを知られずに済む。

借金は、故郷で働いて、少しずつ返せばいい。


文官の夢は、終わる。


「次の誰かに機会を渡す側になりたい」なんて、大きなことを言った。

その自分が、渡された機会を手放して帰るのだ。

悔しくて、情けなくて、机に爪が食い込んだ。


それでも。


翌日、シャンティは学園事務局へ足を運び、退学届の用紙を一枚受け取った。

理由を尋ねられ、「家庭の事情です」とだけ答えた。


その夜、机に向かい、真っ白な退学届の用紙に、ペンを下ろした。


「……私一人が、帰れば済むんだから」


◇


書き終えかけた、その夜のことだった。


扉の下に、小さな紙片が差し込まれていた。


拾い上げて、開く。

短い、たった一行。


『辞める前に、旧礼拝堂へ』


心臓が跳ねた。


なぜ――なぜ、退学しようとしていることを知っているのか。

誰にも言っていない。フローレンスにも、家族にも、誰にも。


差出人の名はない。

罠かもしれない。


怖い。


けれど、誰かが知っている。

それなら、確かめずにはいられなかった。


シャンティは上着を羽織って、部屋を出た。


◇


旧礼拝堂は、学園の敷地の外れにあった。

今は使われていない、古い石造りの建物だ。


軋む扉を押し開けると、夜気と、古い石の匂いがした。


高い窓から、月の光が斜めに落ちている。


その光の中に、人影がひとつ、立っていた。


銀色が、淡く光った。


月光を受けた銀の髪が、薄闇の中でそこだけ発光しているように見えた。


シャンティの栗色の髪から夜が色を奪っていくのと反対に、その銀は、暗いほどに冴えていく。


緑の瞳が、静かにこちらを向いた。


「……オールドー、様……?」

「退学するつもり、なのでしょう?」


挨拶も前置きもなかった。

シャンティは息を呑んだ。


「……どうして」

「ミュラー男爵令嬢――フローレンス嬢が、あなたが事務局で退学届を受け取るところを見かけました。以前から様子がおかしいと感じていたこともあり、ノルン子爵令嬢に相談したのです。その話が私にも届きました」

「フローレンス様が……?」

「あなたが何も話さないから、彼女なりに動いたのです」


シャンティの目の奥が、急に熱くなった。


誰にも言わなかった。

誰にも頼らなかった。全部ひとりで抱えて、ひとりで消えるつもりだった。


なのに――放っておかれて、いなかった。


「私たちは以前から、サジェス・ブロームを調べています」


ユースティアは続けた。

抑揚の少ない、静かな声だった。


「以前、あなたがブローム家の蔵書印の入った参考書を持っていましたね」

「……あの、本……」

「それで、あなたと彼に接点があることを知りました」


渡り廊下の、あの一瞬の視線。

あれは、見ていたのだ。


だったら、と思ってしまった。

思ってから、言うべきではないと分かっていたのに、声が出ていた。


「どうして……あの時、教えてくださらなかったんですか」


責めるような、けれど責めきれない、掠れた声になった。


ユースティアは、わずかに目を伏せた。


「疑惑だけで、あなたの信頼を壊すことはできません。証拠もなく告げても、あなたが判断する材料にはならなかったでしょう」


シャンティは、何も言い返せなかった。


そのとおりだった。


あの頃の自分に「ブローム様は危険だ」と囁く人がいたら、きっとその人のほうを疑った。

悪い噂ひとつない、あんなに親切な先輩を。


沈黙が落ちた。

月光の中で、銀の髪だけが微かに揺れた。


やがて、ユースティアが口を開いた。


「あなたで、七人目です」

「……え?」


意味が、すぐには分からなかった。


「……七、人……?」


数字が、ゆっくりと形を持つ。

七人目。

自分が。

ということは。


「私の前に……六人も?」

「ええ」


血の気が引いた。

石の床の冷たさが、靴底から這い上がってくる。


六人。

自分と同じような目に遭った人が、あと六人もいる。


ユースティアは、泣き崩れそうなシャンティを慰めなかった。

ただ、まっすぐにこちらを見た。


「ですが――」


緑の瞳が、まっすぐにシャンティを射抜いた。


「あなたは、まだ辞めていない」


月明かりの中、銀と栗色の影が、静かに並んでいた。


後半「仕事人令嬢は証拠で裁く」へ続きます。

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