『私にキスできますか?』
あらすじ
カン・サランは、自身の人生に大きな影響を与えた愛読書『私にキスできますか?』の聖地巡りのため、無理をして作ったクレジットカードの分割払いを使って小樽へやってきていました。映画への不満をきっかけに二人の魂は深く共鳴し、シウは目の前で微笑むサランを見つめながら、自らの幸運と静かな幸福を噛み締めるのでした。
サランが高校生の頃、一冊の小説に出会った。
タイトルは『私にキスできますか?』。
その本は彼女のその後の進路に決定的な影響を与え、
地味なアルバイト生活のなかで、
「女優業」という眩しい光に憧れる決定的なきっかけとなった、
宝物のような作品だ。
いつかこの愛読書の舞台となった小樽を旅してみたい、
そんな切実な願いが芽生えたのも、ちょうどその時期だった。
それから時は流れ、二十歳になった彼女は、
かろうじて一枚のクレジットカードを作ることができた。
そのカードの分割払いを使って、今回の日本旅行を必死に計画したのだ。
人には、時に現実的な利害や損得よりも、
どうしても優先せざるを得ない激しい「願望」が芽生える瞬間がある。
そんな心のままに無鉄砲に突き進む自分自身のことを、
サランはどこか愛おしく、誇らしく思っていた。
「映画は、公開初日に観に行きました。もう何回も映画館で見ちゃって!」
「何回も?……それは本当に嬉しいな。ありがとう」
「第二作の『ずっと僕は君を』も読みました! まだ三回くらいしか読み返せていないんですけど……」「三回『も』読んでくれたの?」
「はい、三回じっくり読みました!」
サランはどちらの作品も心から愛していたが、
映像化されたことも手伝って、
どうしても処女作の『私にキスできますか?』が、
頭から離れないのだと熱っぽく語った。
「私、本当に幸運ですよね。今、その原作者の先生とこうして小樽の特等席で向かい合っているなんて。感激です!」
少女の純粋な煌めきに満ちた瞳で見つめられ、
シウの胸に心地よい気恥ずかしさが広がる。
サランがこの機会にいろいろと作品について質問してもいいかと上目遣いで尋ねると、
シウは喜びを噛み締めながら快く承諾した。
そもそも小説『私にキスできますか?』は、
若い韓国人の男女が、冬の凍てつくここ小樽で運容的に出会うことから始まる。
二人はそれぞれ、駆け出しのプロデューサーと、名もなき新人女優だった。
二人は手を取り合い、
芸能界という荒波の中で鮮やかな快進撃を続けながら、
世間には決して許されない秘密の恋に落ちていく。
いつしか男性の想いは激しく高まり、
彼女との生涯を共にする結婚を意識していくようになる。
だが、泥の中から這い上がり、
ようやく自らの手で勝ち取った栄光を前にして、
彼女はそれを手放すことができなかった。
女優業への凄まじい情熱はさらに加速し、
次々と制作される作品の撮影現場で、彼女は相手役の俳優を変えながら、
情熱的なキスシーンを繰り返していく。
男性は、彼女を狂おしいほどに愛していながらも、
その唇に、その身体に、もう気安く触れることができなくなっていく。
彼女もまた言葉と行動が一致しなくなっていく、
恋人との間に生まれた底知れない隙間を埋めることができず、
華やかなスポットライトの裏で深く苦悩していく。
二人は最終的に、魂の底では深く愛し合っていながらも、
「別れ」というあまりにも切ない選択をするのだった。
そして、お互いに傷だらけになりながら
「何が駄目で、何が正解だったのか」を静かに回想していく――。
『私にキスできますか?』は、そんな痛切な愛の物語だった。
サランが最初に知りたがったのは、非常に核心的な問いだった。
「この小説には、モデルがいるのですか?」
世間では、シウの母親である大女優ソン・インナが、
モデルではないかとまことしやかに噂されていたが、
シウの答えは「まさにその通り」だった。
父と母が歩んだ激しくも切ない愛の軌跡は、
息子であるシウから見ても、
いつか必ず自らの手で作品に昇華させたいと願うほどの、
圧倒的な魅力に満ちていたのだ。
ただし、完全なドキュメンタリーにするのではなく、
時代設定を現代に変更するなどのアレンジは加えていた。
「この作品を読んでいると、いろいろと考え込んでしまって、私の中でどうしても答えが見つからなくて。シウ先生ご自身は、この物語をどのように感じていらっしゃるのですか?」
サランの真摯な問いかけに、シウはふっと優しい笑みをこぼした。
「死ぬほど誰かを好きになってみないと……胸が引き裂かれるほど苦しいとか、こんなに好きなのに別れなきゃいけないとか、そういう感情って本当の意味では理解できないよね。実は、自分はまだそんな狂おしいほどの情熱的な恋愛をしたことがないんだ。だから、作者である僕が独りよがりな答えを押し付けるんじゃなくて、読み手と一緒に答えを模索するような形にしている。人によって見え方が全く違う作品になればいいなと思ってね。『誰も悪くない』――原作者としては、その一言に尽きるよ」
シウがそう告げると、サランは深く深く頷いた。
しかし、現在大ヒット中の映画版『私にキスできますか?』では、
その描かれ方が少々異なっていた。
原作は主役の男女をどこまでも対等な立場で、
二人の心の揺らぎを丁寧に描いていたのに対し、
映画ではヒロインの強さと華やかさが極端に強調されていた。
小樽という舞台設定も、
原作では街並みが持つ独特の哀愁や孤独感を表現するためのものだったが、
映画では背景こそ同じでも、
一人の女性がスターへと駆け上がる「サクセスストーリー」としての、
色彩が格好のスパイスとして強められていたのだ。
映画単体としては文句なしに素晴らしいクオリティに仕上がっている。
だが、原作者としてのシウの本音を言えば、
まるで一方的なプロレスの試合を見せられているかのような、
奇妙な物足りなさを感じていた。
サランは、シウの表情のわずかな陰りを見逃さず、さらに質問を続けた。
シウはランプの灯りを見つめながら、少し苦笑を交えて本音をこぼす。
「もちろん、原作とニュアンスは違っても、これだけ好評を博しているんだから大成功だと思っているよ。イ・ウジン監督の映像美は圧倒的だし、主演のハン・チョヨンさんの演技もキャスティングも完璧だった。彼女の迫真の演技を見れば、今後の大ブレイクはほぼ確実だろうね」
そこまで褒めてから、シウは少し声を潜め、熱を帯びた口調で続けた。
「ただ……本当に残念なのは、原作では切ないはずの『世間に秘密の恋』が、映画ではまるで悪であるかのように描かれている点だ。主役の男性はただずるく、未練がましく弱い人間に解釈されてしまっていて、なぜか映画版にだけ登場する『ヒロインを誘惑する共演俳優役』がめちゃくちゃ格好いいポジションに収まっている。原作にはそんなイケメンの間男なんて登場しないのにさ。プロデューサー側の意向とはいえ、あの間男があっさり勝利してしまうような展開は、観ていてどこか気分が悪かったよ」
つい口調が強くなり、シウはハッと我に返った。
「ごめん、テーマの視点がずれてしまうのが悔しくて、つい熱弁してしまった」
「ううん、とってもよくわかります! 先生のそんなお話が聞けて、私、すごく楽しいです」
サランはシウの子供っぽいこだわりを突き放すどころか、
弾んだ声でつられて笑い、シウの心を包み込むようにそう言ってくれた。
映画の製作チームが一流であることには感謝している。
主演女優の圧倒的な美さと情熱に相手役の俳優が完全に呑まれ、
「男側が弱い」という世間の評価が多かったのも、
裏を返せばそれだけ映画に力があった証拠だ。
すべてにおいて無駄な経験など何一つない。
たとえ映画が自分の意図と違っていようが、大失敗に終わろうが、
そこに原作が存在する意味と意義は確実に残る。
(いや、むしろ映画がこの形で作られたからこそ、僕は今、こうして彼女と出会えたのかもしれない)
目の前でミルクティの湯気に乗せて優しく微笑むサランを見つめながら、
ユン・シウは「自分はなんて幸運な男なのだろう」と、
心の底から静かな幸福を感じていた。
今後、記載する表現に関して、常識に基づいて気をつけて参りますが、
もしもを考慮して15歳未満閲覧非推奨を設定させて頂きます。
こちらに何か落ち度がございましたら、お知らせ願います。
※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。
参考データ
※ユン・シウ…小説家25歳
※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳
※ソン・カナン...女優。カン・サランの芸名。ソン・インナに名付けられた。
※ソン・インナ…女優、シウの母親
※ユン・ジュンソ...シウの父。総合映像制作会社S.S.Iの会長
※ユン・ヒョヌ...シウの異母兄。ソヒョン・チョヨンの恋人。S.S.Iの後継者
※イ・ソジュン...シウの親友。Juringエンター専務。子犬の幼顔と低音ボイス
※イ・ウジン...映画監督。『残酷な美しさ』『私にキスできますか?』
※パク・ドユン...映画監督。シウの親友。Juringエンタ常務。映像制作部部長。
※イ・ダイン...『私にキスできますか?』ヒロイン
※キム・ソヒョン...シウの元恋人『Love Hunt』プロデューサー。
※キム・ソンミン...キャサリン。薔薇組第二夫人。数千万ウォンの身体を誇る
※ハン・チョヨン...女優『私にキスできますか?』イ・ダイン役
※ハン・ジヨン...女流写真家。奇跡の1枚を撮る「アメイジングメーカー」
※ナ・ジウ...薔薇組音響アシスタント。通称小枝。
※虹の薔薇組...ドユンのハーレム軍団。精鋭撮影チーム。
※佐藤直樹...ユン・シウの祖父。伝説の投資家。
※佐藤志乃...ソン・インナの本名。
※天翔樹林...ソン・インナのシルフィード歌劇団時代の芸名。
※涼風小鳥...中村綾。サランの母親。
※中村綾...サランの母親
※トリニティG...韓国最大の財閥グループ
※S.S.I...総合映像制作会社
※Juringエンタ...芸能事務所兼資産管理会社。会長インナ。社長シウ。
※アトリエ・ノア...中堅芸能事務所。サランことカナンが所属していた。
※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組
※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説
※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説




