初夏の青に躍るきらめきの湖畔とニセコの風
あらすじ
大女優ソン・インナに会うため、ユン・シウの運転で彼女の待つ北海道・ニセコへと向かう二人。道中、美しい支笏湖に感動したカン・サランは、念願だったスープカレーを食べて絶好調になります。
7月の北海道は、いよいよ本格的な夏の到来を告げる陽気に包まれていた。
しかし今年の夏はいつもと少し様子が違う。例年にない海水温の上昇が影響しているのか、天候が非常に不安定なのだ。つい先ほどまで晴れ間が見えていたかと思えば、突如として激しいバケツをひっくり返したような雨が降り注ぎ、はるか南方からは大型の台風が次々と北上してくる。そんな気まぐれな空模様を窓の外に眺めながらも、車の助手席に座るカン・サランの表情は、ひまわりが咲いたように明るかった。
「ええ、そうです! 今、ちょうど向かっているところなんです」
サランはスマートフォンの画面に向かって、終始にこやかに、かつ弾んだ声で話しかけている。
通話の相手は、これから向かう目的地で二人の到着を待っている人物――ユン・シウの母親であり、世間では知らない者のいない大女優、ソン・インナその人であった。
車を運転し、しっかりとハンドルを握っているのはユン・シウだ。彼はサランの楽しげな横顔をちらりと盗み見ながら、心の中で小さく息を吐いた。
新千歳空港を出発したときには、目的地であるニセコまでおよそ2時間のドライブになる予定だった。ナビゲーションの案内通りに車を進め、やがてまっすぐに伸びる白樺の林道へと差し掛かる。美しい白く細い幹が幾重にも重なる緑のトンネルを抜けた、その瞬間だった。
「うわぁ――っ!!」
視界が一気に開け、サランの口から割れんばかりの歓声が飛び出した。
フロントガラスの向こう側に、息をのむほど鮮やかな、圧倒的な質量を持った「青」が飛び込んできたのだ。それが、彼女が生まれて初めて目にする支笏湖だった。
支笏湖は、日本で2番目の深さを誇るカルデラ湖として知られている。そのあまりにも高い透明度ゆえに、湖水は太陽の光を浴びると、独特の深く神秘的な色彩を放つ。人々はそれを敬意を込めて「支笏湖ブルー」と呼ぶ。
日中の強い陽射しを浴びた湖面は、まるで細かく砕いたスワロフスキーのクリスタルや、最高級のバカラグラスを敷き詰めたかのようにキラキラと瞬き、まばゆいほどの輝きを放っていた。
「綺麗……本当に綺麗、シウさん!」
「そうだね。今日は特に天気がいいから、一段と映える」
対岸を望めば、雄大な恵庭岳や樽前山が、青空を背景に凛とした稜線を描いてそびえ立っている。
サランは窓に張り付かんばかりの勢いで外を眺めていた。湖畔には水中遊覧船の乗り場があり、案内板には自然が作り出した芸術である「柱状節理」の文字が見える。
「ねえ、あの船乗ってみたくない? あと、向こう岸にある温泉もすごく有名なんだよね!」とサランは目を輝かせたが、シウは苦笑しながら腕時計に目を落とした。
「気持ちは山々だけど、残念ながら今回は時間がないんだ。母さんがホテルで待ってるから、遅れるわけにはいかないよ」
「あう、そっか……。じゃあ、次の機会の絶対お預けリストに入れておくね」
名残惜しそうなサランの胃袋が、タイミングよくきゅるると音を立てた。
せめて北海道らしい美味しいものをと、二人は湖畔にある小さなカフェに立ち寄り、名物のスープカレーを食べることにした。
実は、サランには少し前の苦い思い出があった。前回、一人で小樽を訪れた際、お目当てのスープカレー屋が観光客で大混雑しており、どうしても一人で暖簾をくぐる勇気が出ずに断念していたのだ。
「リベンジ成功!」と、運ばれてきたスパイス香るカレーを前に、サランのテンションは最高潮に達する。
ちなみに、そのカフェの片隅には見事なハリスホーク(モモアカノスリ)が飼われていた。サランは食事の前後、その精悍な猛禽類との記念撮影をすっかり楽しんだ。
ここ最近のサランといえば、新しく引っ越す部屋の手続きや諸問題のせいで、目に見えて気落ちしたり、時には不機嫌なオーラを纏ったりしていた。シウもどう慰めたものかと頭を悩ませていたのだが、それからわずか一ヶ月、こうして再び北海道の地に足をあき、大好きな大自然に触れたことで、彼女の調子は完全に「絶好調」へと切り替わったようだった。
むしろ、サランのあまりのハイテンションぶりに、記念撮影をされたハリスホークの方が「なんだこの人間は」と言いたげに、当惑したような目で首を傾げていたほどである。
◇
車内では、二人の間で最近の話題が飛び交っていた。スマートフォンを開けば、『Love Hunt3』という作品の非公式ファンサイトが賑わっている。そこには様々な考察や投稿が並んでいるが、当の本人たちはそれをまともに見もしなければ、深く知りもしない。
すべては、あの偉大なる大女優、ソン・インナの鶴の一声から始まったのだ。
インナの命名によって、サランは「ソン・カナン」という、いささか大仰な芸名を与えられた。その名で公式SNSなども急遽開設してみたものの、開設したてのアカウントを認知している人間は、世間ではまだほんの一握りに過ぎない。
(ともあれ、今日、これから。私はあの憧れの大女優に会うんだ……!)
ソン・インナという存在の大きさを改めて噛み締め、サランの胸は期待と緊張で激しく高鳴っていた。
そうして車はニセコへと入り、指定された宿泊先へと滑り込んだ。
実は、運転していたシウ自身も、ニセコを訪れるのはこれが生まれて初めてのことだった。
サランという風変わりで愛らしい女性と出会ってからというもの、シウの人生は急激に変化していた。長年、どこか距離のあった母親と、こうして急に「健全で親密な親子関係」を取り戻したかのような状況になっているのも、すべてはサランがもたらした縁のおかげだと言えた。
しかし、実際のところを言えば、ここ数年の間、母と息子は連絡すらまともに取らないほど疎遠な日々を送っていたのだ。その事実を、純粋にこの再会を喜んでいるサランには、シウとしては少し気まずくて言い出しにくい。
とはいえ、決して仲が険悪だったわけでも、絶縁状態にあったわけでもない。
「お互いに自由奔放で、他人に依存しない性格」
一言で表せばそうなのだ。べったりと干渉し合うことなく、それぞれの人生を生きる。それが彼らにとっての、心地よい距離感だったのだ。
そして、目の前にそびえ立つ建物こそが、その母親が個人で所有し、自ら経営しているというホテルだった。
ホテルの基本設計は「コンパクト&ラグジュアリー」。
無駄な広さを誇示するのではなく、洗練された空間の中に最高級の調度品を揃えた、大人のための隠れ家のような佇まいだ。
その圧倒的なオーラを放つエントランスを目にした瞬間、サランは完全に圧倒され、まるで魂をふっと抜かれてしまったカワウソのような、なんとも言えない呆然とした表情を浮かべていた。
ホテルの従業員に恭しく案内され、二人は最上階にある広く豪華な客室へと通された。
「まもなくインナ様がこちらへ参りますので、どうぞこちらでお寛ぎになってお待ちください」
飲み物の希望をスマートに尋ね、サランが頼んだハーブティーを手配すると、従業員は優雅な一礼を残して部屋を退室していった。
静まり返った最高級のスイートルーム。サランは一歩一歩、ふかふかの絨毯を踏みしめながら、突然、彼女が最近大そう気に入っている「即興ミュージカルパフォーマンス」を踊り始めた。
両手を広げ、部屋の調度品を観客に見立てて、ステップを踏む。いわば、彼女なりの「喜びの舞」だ。シウの経験上、サランがこれをやっている時は、精神状態が極めて良好であるという何よりの証拠だった。
それは大変喜ばしいことなのだが、ダンスと共に紡がれる自作の即興ソングのクオリティは、お世辞にも良いとは言えない代物だった。メロディは迷子になり、歌詞はその場の思いつき。しかし、それも完全なアドリブであるがゆえに、この世で二度と耳にすることがない幻の名曲(?)でもあるのだが。
サランが楽しげにターンを決めたその時、部屋の扉から軽快なノックの音が響いた。
◇
シウがすっとドアを開けると、そこには待ってましたと言わんばかりに、ソン・インナが颯爽と立っていた。
まばゆいオーラを放つ彼女は、シウの姿を認識するや否や、その脇をすり抜けて部屋の中へと踏み込んでくる。
「サラン! いらっしゃい。よく来たわね!」
弾んだ声と共に、二人はまるでハリウッドの有名セレブと、彼女をリスペクトする一流インタビュアーのような熱烈さで互いに駆け寄った。そして、ごく自然に、かつ情熱的な強めの抱擁を交わす。
シウはその様子を呆然と眺めていた。何しろ、二人が直接顔を合わせるのは、これが人生で本当の「初対面」のはずなのだ。それなのに、この何年も共にしてきた同志のような空気感は一体何なのだろうか。
しかも、インナにとって唯一無二の実の息子であるはずのシウは、今や完全に彼女の視界(眼中)に入っていなかった。
だが、シウはそれを悔しいとも悲しいとも思わない。むしろ「相変わらずだな」と、ちょっと面白がっている自分がいた。
ひとしきり抱擁を終えたインナは、満足げに部屋を見回して言った。
「せっかく二人で来るって言うから、一番いい部屋を空けておいたわよ。どう? 素敵なお部屋でしょう? 一部屋で十分よね、もう一緒に住んでいるんだし」
その言葉に、シウは慌てて手を振って異議を申し立てた。
「待ってよ、母さん。この部屋はさすがに広すぎるし、俺たちにはもったいないよ。もっとビジネスライクな、違う部屋でいいからさ」
するとインナは、この極上の部屋の何が不満なのだと言いたげに、美しく整えられた眉をひそめた。
「何言ってるの。他の部屋は全部予約で埋まってしまっていて、空きなんて一室もないのよ。大人しくこの部屋を使いなさい。ね、いいでしょう?」
「いや、そういう問題じゃなくてさ……。ベッドがダブルベッド一つだと困るんだよ」
シウが少し声を潜めて指摘すると、インナは呆れたように笑い飛ばした。
「何を的外れなことを言っているの、あなた。よく見なさい、このベッドはダブルじゃなくて、特注のキングサイズよ?」
「サイズの問題じゃないんだけど……」
シウが頭を抱えてサランの方を見ると、彼女は二人の押し問答を、まるで上質なコメディ映画でも観ているかのように、声を殺して面白そうにクスクスと笑っていた。
インナのペースは、誰にも止められない。彼女はくるりとサランの方へ向き直ると、楽しげに明日の予定を告げた。
「サラン、明日の朝はね、私が特別に素晴らしいヨガの先生をここに呼んでいるの。朝一番に、私と一緒にヨガをやるわよ、いいわね?」
「ヨガ、ですか!?」
「そう。そしてヨガの後は、そのまま朝の涼しい空気を吸いながらジョギングに付き合ってちょうだい。あ、ウエアーとランニングシューズなら、フロントの目の前にある売店に最新のものが揃っているから。好きなデザインの服をどれでも選んで、勝手に持って行きなさい。フロントには私から『カナンのツケで』って言っておくから」
大女優からの、あまりにも突然かつ怒涛の「女王の命令」。
その圧倒的な迫力と断らせないオーラに圧されたサランは、まるで過酷な訓練所に突如入隊させられた新兵のように、一瞬で背筋をピンと垂直に伸ばし、
「はいッ! 喜んであります!」
と、全力の姿勢を正して、部屋中に響き渡る声で返事をしてしまうのだった。
こうして、嵐のようなソン・インナの歓待とともに、二人のニセコでの特別な滞在が幕を開けた。
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※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。
参考データ
※ユン・シウ…小説家25歳
※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳
※ソン・インナ…女優、シウの母親
※イ・ソジュン...シウの親友。Juringエンター専務。子犬の幼顔と低音ボイス
※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組
※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説
※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説




