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『城北洞(ソンブクトン)和平条約』

あらすじ

ある夜の至近距離でのハプニングに動揺したカン・サランは、翌日、ユン・シウに対して今後の安全保障と称する3枚の「条約案」を突きつけます。不条理な内容でしたが、シウはあっさりと承諾します。サランが部屋への侵入を許可するよう条約を変更したことで、様々なドタバタ劇が巻き起こります。

ある日の夜、城北洞ソンブクトンの高台に佇むユン・シウの邸宅は、いつも以上に静まり返っていた。

広大なメインリビングの天井は高く、祖父の遺品である最高級のオーディオセットも、今はその重厚な沈黙を守っている。シウがソファに深く腰掛け、ふう、と小さく息を吐いたその時だった。

カン・サランが彼の前に顔を近づけてきたのは、本当に唐突なことだった。

「じっとしててね」

言うが早いか、サランは柔らかな両手でシウの頬をそっと包み込んだ。

シウの身体が、一瞬で石のように硬直する。サランはさらに顔を寄せ、そのまっすぐな瞳でシウの右目の下あたりをじっと見つめた。

彼女の小さな手から伝わる、驚くほど高い体温。そして、至近距離からかすかに鼻腔をくすぐる、甘く瑞々しいシャンプーの匂い。お互いの吐息が肌に直接触れ合うほどの距離に、シウの瞳がかすかに揺れた。ベストセラー作家として、また気鋭の脚本家として、あらゆる緻密なプロットを組み立ててきたシウの脳内が、この瞬間、完全にフリーズしていた。

「……うん、よかった。あの怪我、もうほとんど跡が残ってないね」

サランは、かつて「ソウルの顔面犯罪」とまで謳われたシウの美しい顔に刻まれた、あの乱闘の傷の治り具合を、ただ真剣に確かめていたのだ。彼女にとって、それは純粋な心配からの行動だった。

しかし、問題はその物理的な距離だった。

シウの瞳の揺れと、彼の張り詰めた空気に引きずられるようにして、サランもようやく自分が置かれた状況に気がついた。

密室のようなリビングに、二人の心臓の鼓動が重なって聞こえそうなほど、濃密で気まずい空気が流れ出す。

「あ、あの……! も、もう大丈夫みたいですっ!」

弾かれたように身を引いたサランは、耳まで真っ赤にしてあらぬ方向を向いた。シウもまた、意味もなく自分の首筋を何度もさすりながら、視線をあちこちに彷徨わせる。

「あ、あし、明日も早いから、もう寝ますっ!」

サランは舌を噛みそうな勢いでそれだけ言い残すと、二階の自分の部屋へと文字通り逃げ帰っていった。バタン、と力任せにドアが閉まる音が屋敷に響き渡り、シウは一人、静まり返ったソファで、しばらくの間自分の心音をなだめる羽目になった。

翌日の午後。

リビングのダイニングテーブルでコーヒーをすすっていたシウの前に、サランは大真面目な顔をして立ちはだかった。その両手には、スケッチブックから力任せに破り取った形跡のある、三枚の紙が固く握られている。

「シウさん。今後の安全保障に関する、非常に重要な提案があります」

サランはまるで国家の全権大使のような仰々しい口調で、一枚目の紙をテーブルにピシャリと叩きつけた。そこには、お世辞にも綺麗とは言えない、しかし力強い大文字で、独特なタイトルが躍っていた。

「まずこれです! 『城北洞和平条約』!」

シウはコーヒーカップを口元で止めたまま、その歪な文字を見つめた。

「今後、何よりも前提として、両者間の恒久的な和平を申し入れたいと思います。ええっと……つまり、ず、ずっと仲良くしてね!っていう約束です」

一気にまくしたてたサランの顔は、すでに『皮ごと網で焼いたイカ』のように真っ赤に染まっている。シウはゆっくりとカップを置き、眉をひそめた。

「城北洞って……まさか、この家のことか?」

「細かいことは気にしないでください! 次はこれです!」

サランはシウの疑問をマシンガントークで叩き潰し、二枚目の紙を並べた。そこには『城北洞不平等条約』と書かれている。

「シウさんが私に触れるのは一切禁止! ですが、私がシウさんに触れるのは完全自由とします!」

昨夜の、あのゼロ距離での恥ずかしさを一ミリも表に出すまいと、必死に虚勢を張っているのが丸わかりだった。彼女の小さな耳は、恥ずかしさのあまりさらに赤みを増していく。

「そして最後が、最も重要です!」

サランは胸を張り、ドヤ顔を浮かべながら三枚目の紙を突きつけた。『城北洞不可侵条約』。

「トイレ、浴室、ベッド、そしてお互いの寝室への侵入を一切禁止とします! さあ、サインを!」

まるで世界の命運を懸けた歴史的な調停を迫るかのように、彼女は一本のボールペンをシウの手に無理やり握らせた。サランとしては、少し突っぱねられることを見越して、シウを完璧に論破するための反論シミュレーションまで頭の中で構築していたのだ。

しかし、シウは三枚の突飛すぎる「条約」を見比べた後、クスリと静かに笑った。そして、迷うことなくペンを走らせた。

「いいよ、わかった。全面的に承諾する」

「えっ!? あ、あっさり……!?」

サランは完全に拍子抜けした表情を浮かべ、口を半開きにした。シウはサインを終えた三枚の紙をサランに手渡しながら、いたずらっぽく、どこか底意地の悪い微笑みを浮かべた。

「その代わり、原告であるサランさんは必ずこの条約を守ること。もしもこれを破った場合は、その時点で『無条件降伏』とする。一切の反論や反撃は許さず、無抵抗で、心も体もすべてこちらに委ねてもらう。……これでどう?」

「む、無抵抗で、心も体も……っ!?」

サランの脳裏に、なぜか途端に大人びた、刺激の強い想像が過ってしまった。彼女は再び顔をトマトのように真っ赤に染め、言葉を失う。

条約を締結することで昨夜の気恥ずかしさを誤魔化したはずが、結果的にシウの老獪な話術に完全に翻弄される形になってしまったのだ。

何よりシウは、最初の一枚に書かれていた不器用な和平案が、ひどく気に入っていた。

(つまり、永遠に仲良くしよう、ってことだろ……?)

その可愛らしい本音を隠すためのドタバタ劇が、作家である彼の心を妙に刺激していた。

しかし、サランが必死に制定したこの『城北洞条約』は、数日もしないうちに決定的な綻びを見せることになる。

後日、サランの部屋の天井の電球が、寿命でパツンと切れてしまった際のことだ。

真っ暗な部屋で困り果てたサランは、リビングにいたシウに助けを求めた。しかし、シウはソファから動こうともせず、すました顔でこう言った。

「いや、俺は行けないよ。『不可侵条約』があるからね。君の寝室への侵入は一切禁止されている。電球はそのまま放置だ」

「う、嘘でしょ!? そこは臨機応変にやってくださいよ!」

また別の日の夜には、サランの部屋に一匹の凶暴な蚊が侵入した。サランは部屋の隅で「ギャー!」と悲鳴を上げたが、これもシウはキッチンでコーヒーを淹れながら完全に静観した。条約の厳格な履行を理由に、彼は一歩も動かなかった。結果、サランは無残にもその夜、蚊の絶好の餌食となり、体中を痒がることになった。

「もう嫌です! 変更です、条約の一部変更を要求します!」

たまらなくなったサランからの涙ながらの申し出により、不可侵条約の項目から「部屋への侵入」は「緊急時および要請時は可能」へと変更されることになった。

だがそれは同時に、サランにとって恐ろしいブーメランとなって返ってくる。

「サランが部屋に鍵をかけてシウの立ち入りを拒むのは、変更された条約の違反になる」という解釈が成立してしまったのだ。サランは自分の首を絞めたことに気づき、激しく悔しがった。

そんなある夜のことだった。

シウが明日のスケジュールに関する用事を思い出し、変更された条約に則って、二階の彼女の部屋のドアをコンコンと叩き、そのまま開けた。

「サランさん、明日の朝なんだけど――」

「いやあああああ! 入ってこないでください!!」

部屋の中では、サランが「人には絶対に見せられない格好」をしていたらしく、枕やぬいぐるみが飛んでくる大騒ぎになった。シウは慌ててドアを閉めたものの、サランの怒りは収まらない。

「やっぱり不可侵条約は元に戻します! 部屋への侵入は全面禁止!!」

翌朝、キッチンで散々わめき散らし、不機嫌そうにトーストを齧っていたサランだったが、その数日後、事件は意外な形で決着を見せる。

シウがキッチンのゴミ箱を指定ごみ袋にまとめようとした際、底の方から、見慣れない派手なピンク色のパッケージの空き容器がいくつか発見されたのだ。そこには大きく『バストアップクリーム』、そして『豊胸サプリメント』と印刷されていた。

シウはゴミ箱の手を止め、静かにその容器を見つめた。

(人には見せられない格好……肉体改造……なるほど、そういうことか)

全てを察したシウは、あえて何も言わず、その容器をそっとゴミ袋の奥深くへと隠してやった。リビングの隅で、何食わぬ顔でテレビを見ているサランの背中は、心なしかいつもより少しだけ胸を張っているように見えなくもない。

この一連の可笑しくも愛おしいドタバタ劇の顛末を、作家であるユン・シウは、自らの秘密のノートに密かにこう名付けた。

『城北洞肉体改造未遂事件』、と。

そして彼は、彼女が一生懸命書いた『和平条約』の紙を、今も書斎のデスクの引き出しの、一番大切な場所に保管している。


今後、記載する表現に関して、常識に基づいて気をつけて参りますが、

もしもを考慮して15歳未満閲覧非推奨を設定させて頂きます。

こちらに何か落ち度がございましたら、お知らせ願います。


※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。


参考データ

※ユン・シウ…小説家25歳

※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳

※ソン・インナ…女優、シウの母親

※イ・ソジュン...シウの親友。Juringエンター専務。子犬の幼顔と低音ボイス

※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組

※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説

※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説

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