本気で怒ってくれたお返しに
あらすじ
現場検証の翌日、ユン・シウとカン・サランは警察署で逮捕された犯人の母親と対面します。母親は反省の色も見せず、300万ウォンの示談金で息子の前科を揉み消そうとする傲慢な態度を取ります。その理不尽さにサランが涙ぐむ中、激怒したシウは示談金を床に叩きつけ、「一人の女性の尊厳をそんなはした金で買い叩けると思うな」と一蹴し、示談を拒否します。事件の解決後、サランはお礼としてシウの自宅で母親直伝の「サランカレー」を振る舞います。温かい夕食を共にした後、サランは自分のために本気で怒ってくれたシウへ、これまでにない心からの感謝とまっすぐな想いを告白します。
のぞき穴事件の翌日、
警察立ち合いでの現場検証を終えたユン・シウとカン・サランは、
重苦しい空気のまま警察署の応接室に呼び出されていた。
対面に座っているのは、逮捕された犯人の母親であった。
母親の身なりはそこそこで、表情には被害者への純粋な謝罪ではなく、
「厄介な身内の不祥事を早く揉み消したい」という焦燥感が透けて見えていた。
机の上に一通の書類と、厚みのある封筒を滑らせる。
「今回の件に関する示談書と、示談金です。金額は300万ウォン。大学生の一人暮らしの被害としては、好条件を提示させていただいています」淡々とした声が室内に響く。
そしてハンカチで目元を拭いながら口を開いた。
「本当に、うちの子がとんでもないご迷惑をおかけして……。でも、あの子もまだ若く、これからの将来がある身なのです。どうか、今回の一度の過ちで前科がつくようなことだけは、避けていただきたくて」
「……え?」サランの手が、小さく震えた。
300万ウォン。
それは今の彼女にとっては決して「はした金」ではない大金だった。
しかし、母親の言葉の端々から伝わってくるのは、息子の犯した卑劣な罪への反省ではなく、
ただ「息子の輝かしい未来」を金で買い戻そうとする傲慢さだった。
自分が日々怯え、エレベーターのボタンを連打して逃げ惑い、
ついに日常を破壊されたあの恐怖は、たったこれだけの紙切れで帳消しにされるものなのか。
犯人は数ヶ月もすれば、何事もなかったかのように未来を歩み、
自分は一生、暗闇への恐怖という見えない傷を負い続けるのではないか。
悲しみと理不尽さでサランの瞳に再び涙が込み上げたその時、
彼女の隣から、唸るようなシウの低い声が響いた。
「……ふざけるな」
いつもは冷静で、どこか冷ややかな彼が、
激しい怒りを、露わにしていた。
乱闘の傷が残る頬が、怒りで僅かに引きつっている。
サランが驚いてシウを見上げる中、シウは机の上の封筒を掴み取ると、躊躇なく床へと叩きつけた。
「300万ウォン? 将来の保証?」
シウの言葉は、まるで鋭利な刃物のようだった。
「あなたは、一人の女性の尊厳と心の傷を、そんなはした金で買い叩けると思っているのか!」
さらに一歩踏み込んだ。
「彼女がどれだけの恐怖の中にいたか、あなたには想像すらできないだろう。自分の家という最も安全であるべき場所で、いつから見られていたかも分からない恐怖。のぞき穴の向こうに潜む悪意に、彼女はどれほど心を傷つけられたのか!」
シウの脳裏には、昨夜の泣き腫らしたサランの顔が焼き付いていた。
恐怖によって醜く歪んでしまうほど追い詰められたのだ。
「身勝手な欲望で他人の日常を破壊しておきながら、加害者の将来は守りたいだと? 虫が良すぎる。そんな汚い金で、揉み消せると思ったら大間違いだ」
シウの放つ圧倒的な威圧感に、犯人の母親は恐怖で身をすくませた。
「示談など一切応じない。前科だろうが何だろうが、自分のしでかした罪の重さを一生背負って生きるがいい。二度と、我々の前にその汚い金を差し出すな」
シウはそう言い放つと、まだ震えているサランの肩をそっと、
しかし毅然とした強さで抱き寄せた。
「行こう。ここにこれ以上、留まる必要はない」
「……はい」サランは涙を拭い、シウの広い背中に守られるようにして応接室を後にした。
背後で母親が狼狽する声が聞こえたが、
二人は一度も振り返らなかった。
警察署の外に出ると、ソウルの突き抜けるような青空が広がっていた。
シウは深く息を吐き、サランへと向き直った。
その表情は、先ほどの鬼気迫るものから、不器用だが優しい彼のものへと戻っていた。
「怖かったな、サラン。でも、もう大丈夫だ。俺達の家に帰ろう」
その言葉に、サランの心の中にあった何かが急速に大きくなったのを感じた。
彼女は小さく頷き、シウの隣を歩き始めた。
両手はしっかりシウの左腕を掴んでいた。
夕暮れ時のソウルの街を、ユン・シウとカン・サランは並んで歩いた。
「今夜は、私が夕飯を作ります。シウさんにお礼がしたいから」
二人は近くのスーパーに立ち寄り、ジャガイモ、人参、玉ねぎ、そして豚肉をカゴに入れた。
シウはサランの少し後ろを歩きながら、彼女が食材を選ぶ姿を静かに見守っていた。
今の彼女の横顔には、少しずついつもの穏やかさが戻りつつある。
シウの自宅のキッチンに立つと、サランは手際よく野菜を切り始めた。
トントンと小気味よい包丁の音が、静かだったシウの部屋に温かい日常の灯をともしていく。
「ずっとバイトしていたから、包丁使うのが上手なのですよ」
手伝おうかと声かけると、出来上がるまで見ないでと言って追い返した。
見なくても食材と、カレールーを見れば何の料理かすぐわかる。
だが、シウは気が付かないふりのままでいた。
やがて、部屋いっぱいに香ばしく、どこか懐かしい香りと小気味良い音が広がり始めた。
「できたー!お待たせしました。『サランカレー』です」
テーブルに運ばれたのは、大きめの具材をごろごろと煮込んだ、
実に美味しそうなカレーだった。
「お母さんの思い出の味なのです。いつもこのカレーを作ってくれて。大好きなカレーです」
サランが少し照れくさそうに微笑む。
シウはスプーンを取り、一口そのカレーを口に運んだ。
じっくりと溶け込んだ野菜の甘みと、奥深いスパイスの風味が口いっぱいに広がる。
それは、これまでシウが食べてきたどんな洗練された料理よりも、ずっと胸に染み渡る味だった。
「……美味い。本当に美味いよ、サラン」
いつもはクールなシウが、まるで子供のようにスプーンを動かした。サランが嬉しそうに見つめる中、
彼はあっという間に一皿目を平らげ、「おかわりをもらってもいいかい?」と
少し気恥ずかしそうに皿を差し出した。
結局、シウは二杯のカレーをきれいに平らげ、大満足の笑みを浮かべた。
食後の静寂が訪れたリビング。
温かいお茶を飲みながら、サランは膝の上できゅっと手を握りしめ、
意を決したようにシウを見つめた。
「シウさん。今日、警察署で言ってくれた言葉、本当に嬉しかったです」
サランの切れ長な瞳に、昼間とは違う、まっすぐな光が宿っていた。
「今まで私の人生には、私のために誰かと戦ってくれる人も、私のためにあんなに本気で怒ってくれる人も、一人もいなかった。」
サランの声が、少しだけ震えた。
しかし、その瞳はそらさずにシウを捉え続けている。
「私にとってこれからもずっと、大切な人でいてほしいです。」
その言葉は、サランの心の奥底から溢れ出た、偽りのない告白だった。
シウはその端正な顔立ちに、これまでにないほど優しく、
深い愛おしさを湛えた笑みを浮かべた。
シウはテーブル越しにサランの手をそっと包み込んだ。
彼の大きな手の温もりが、サランの指先から心へと伝わっていく。
「いつでも、君の力になるよ」
窓の外には、ソウルの美しい夜景が広がっていた。
この空間には、カレーの残り香と、温かい空気が満ちていた。
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※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。
参考データ
※ユン・シウ…小説家25歳
※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳
※ソン・インナ…女優、シウの母親
※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組
※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説
※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説




