美しき城北洞(ソンブクトン)の居候
あらすじ
事件の翌朝、ベストセラー作家であるユン・シウは、高級住宅街・城北洞にある広大な邸宅で、居候となったカン・サランのために朝食を用意します。シウは彼女を気遣い、静かで幸福な朝のひとときを共有します。
ソウルでも有数の高級住宅街、城北洞の静かな高台。その一角に、高い石垣と重厚な木製の門に守られた邸宅がひっそりと佇んでいる。伝統的な韓国の美意識と、洗練されたモダン建築が融合した二階建ての広大な建物。かつて韓国最大の財閥『トリニティ』の会長イ・ゴンウから、伝説の投資家であり財閥の救世主と謳われた佐藤直樹へと譲られた、いわくつきの屋敷であった。
直樹が世界を震撼させたかのパンデミックで世を去った後、この巨大な遺産は、孫であるユン・シウが引き継ぐことになった。
「……また、手入れをサボってしまったな」
書斎の窓から、鬱蒼と茂る庭を見下ろしてシウは小さく呟いた。広大な庭園には松の古木が立ち並び、季節外れの野花が我が物顔で咲き乱れている。手入れなどまったくされていない、荒れ果てた原野のような庭。だが、初夏の爽やかな風が敷地内を吹き抜けるたび、草木が波のように揺れるその光景を、シウは嫌いではなかった。
喧噪を何よりも嫌うシウは、この広すぎる家で、実質的な主としてたった一人で暮らしている。大女優である母ソン・インナがその全盛期に、莫大な資金を投じて内部をリフォームした空間は、一人で住むにはあまりに贅沢で、あまりに孤独だった。
シウの主戦場であり、思考の源泉である書斎には、圧倒的なマルチタスクをこなすための機材が整然と並んでいる。彼は世間から「ベストセラー作家」と呼ばれ、同時に「気鋭の脚本家」としてもその名を知られる男だ。
壁一面の本棚には、彼の作品のインスピレーションとなった古今東西の書籍や、かつて小樽の旅で集めた繊細なガラス工芸品、どこか郷愁を誘う調度品が、規則正しく並べられている。
しかし、その秩序だった美しさとは対照的に、重厚なデスクの上には常に最新のノートPCが置かれ、その傍らには、凄まじい筆圧でプロットが書き殴られたノートが何冊も乱雑に広がっていた。
シウにとって、この静寂と孤独こそが、物語を生み出すための唯一の酸素だった。昨日までは、確かにそうだったはずだった。
◇
カン・サランという少女をこの家に迎えたのは、ほんの昨夜のことだ。
行き場を失い、深い傷を負っていた彼女を保護するためにシウが用意したのは、二階にいくつかあるゲストルームのうちの一部屋だった。
その部屋のインテリアは、温かみのある木肌と、柔らかな間接照明で統一されている。窓辺には、シウが小樽のガラス館で購入した悪趣味ではない、透明な彩りを持つガラス細工が静かに置かれていた。昨夜、怯えるように部屋に入ったサランは、その小さなガラスが放つ静かな輝きをじっと見つめていた。その僅かな時間が、張り詰めていた彼女の心を少しだけ癒したのかもしれない。
天井が高く、圧倒的な開放感を誇るメインリビングとキッチン。そこには、祖父の並々ならぬこだわりが詰まった最高級のオーディオセットが鎮座し、その横には、シウが場違いな骨董品屋で見つけて衝動買いした、古びたジュークボックスが独特の存在感を放っておしゃれに佇んでいる。
翌朝、シウはいつになく早い時間にキッチンに立っていた。
大きな窓から、静かな朝の光が斜めに差し込み、磨き上げられた大理石のカウンターを白く染めていく。
じゅう、と小気味よい音が響いた。
フライパンの上で、厚切りのベーコンが脂を弾かせ、その横で卵が綺麗な半熟の目玉焼きへと変わっていく。トースターからは香ばしい小麦の香りが漂い、瑞々しいレタスとトマトのサラダが白い皿に盛り付けられた。
「一人分の朝食なら、いつもコーヒーだけで済ませるのにな」
苦笑しながらフライパン返しを操る。
しばらくの間、完全な孤独に支配されていた広い屋敷の空気は、今、劇的に変わろうとしていた。二階の部屋に、別の誰かが眠っている。ただその「気配」があるだけで、凍りついていた屋敷の隅々にまで、温かな血が巡るような感覚をシウは覚えていた。
(この環境も、悪くないな……)
胸の奥から湧き上がる、名前のない、なんとも言えない幸福感。それを確認するように、シウは小さく息を吐いた。
◇
カチャ、と静寂を破る音が響いた。二階の部屋のドアが開く音だ。
続いて、トントンと控えめに階段を下りてくる足音が、リビングまで近づいてくる。
シウが振り返ると、そこには昨夜彼が貸し出した濃紺の甚平に身を包んだ、サランの姿があった。
華奢な彼女の体躯に対して、大人の男物である甚平はあまりにサイズが大きすぎた。だぼだぼの袖や裾から、白く細い手首や足首が覗いている。その様子はどこか危うげで、保護欲をそそると同時に、ひどく愛らしく、シウの目を奪った。
昨夜、まるで雑巾のようにボロボロになるまで泣き腫らした彼女の顔は、一晩の眠りを経て、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻しているように見えた。
「あ……おはようございます、シウさん」
サランはまだ少し眠そうに、小さな手で目をこすりながら、トコトコと危なげな足取りでシウのそばへ歩み寄ってきた。
「おはよう、サランさん。よく眠れた?」
シウは努めて平静を装い、穏やかな微笑みを浮かべたつもりだった。しかし、サランの視線が自分の顔に注がれた瞬間、彼女の身体が小さく強張るのが分かった。
シウの顔には、昨夜、彼女を救い出すための乱闘で負った傷が、赤黒く痛々しく残っていたのだ。
かつてその美貌から、メディアやファンに国宝級とまで称され、「ソウルの顔面犯罪(その美しさで人の心を狂わせる罪という意味の賛辞)」とまで揶揄された彼の完璧な顔立ち。そこに刻まれた無骨な傷跡は、今の穏やかな笑顔とは決定的に不似合いで、あまりにも不自然だった。
だが、シウはサランの姿を見た安心感から、どうしても笑顔を消すことができなかった。
「あっ……」
シウの顔の傷を見つめるサランの瞳が、みるみるうちに大きな涙で潤み始めた。彼女の視線から、激しい罪悪感と痛みが伝わってくる。
「シウさん、その怪我……私のせいで……。本当に、本当にごめんなさい……っ」
小さな唇をわなわなと震わせ、今にも大粒の涙をこぼしそうな彼女を見て、シウは内心慌てふためいた。彼女にそんな顔をさせるために、身体を張ったわけではない。
◇
「おいおい、勘弁してくれよ! サランさん、ストップ!」
シウは慌てて右手のフライパン返しをカウンターに置き、両手を大袈裟に振ってみせた。そして、わざとピエロのように大口を開けて笑ってみせる。
「こんなの、ちょっとした男の勲章みたいなものさ。それに、俺の『国宝級の顔』がこれで少しはワイルドになったと思わない? ほら、全然痛くもないから!」
大袈裟な身振りと冗談混じりの言葉に、サランは涙を浮かべたまま、不意を突かれたように「ぷっ」と小さく吹き出した。
彼女の表情が少しだけ和らいだのを見て、シウは心の底から安堵する。
張り詰めた空気が緩んだ瞬間、二人の鼻腔を、出来立ての朝食の優しい香りがくすぐった。カリカリに焼けたベーコンの香ばしさと、トーストの甘い香りが、キッチンの冷たい空気をごく自然に溶かしていく。
「お腹、空いてない? 普段は全然料理なんてしないんだけど、サランさんが来るっていうから、ちょっと張り切って朝ごはん作ったんだ。一緒に食べよう」
シウが温かな笑みを向けると、サランは涙を指で拭いながら、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに目を輝かせた。
「わぁ……。すごく、美味しそうです。ありがとうございます、シウさん」
そう言って微笑む彼女の姿は、過去の恐怖や不安から完全に解き放たれたわけでは決してないのだろう。それでも、この静かな城北洞の邸宅で、確かな安らぎの兆しを感じ取っているようだった。
「さあ、冷めないうちに。そこに座って」
サランは嬉しそうに何度も頷くと、自分の身体には大きすぎて邪魔な甚平の袖を、一生懸命に何度も捲り上げた。何度もずり落ちてくる袖と格闘しながら、彼女はカウンターのハイスツールに、ちょこんと腰を掛けた。
窓外の庭からは、初夏の爽やかな風が、青い草木の匂いを運んでくる。
静かな朝の光の中で、二人の新しい、そして奇妙な共同生活が、温かい湯気の向こう側で静かに幕を開けようとしていた。
今後、記載する表現に関して、常識に基づいて気をつけて参りますが、
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こちらに何か落ち度がございましたら、お知らせ願います。
※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。
参考データ
※ユン・シウ…小説家25歳
※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳
※ソン・カナン...女優。カン・サランの芸名。ソン・インナに名付けられた。
※ソン・インナ…女優、シウの母親
※ユン・ジュンソ...シウの父。総合映像制作会社S.S.Iの会長
※ユン・ヒョヌ...シウの異母兄。ソヒョン・チョヨンの恋人。S.S.Iの後継者
※イ・ソジュン...シウの親友。Juringエンター専務。子犬の幼顔と低音ボイス
※イ・ウジン...映画監督。『残酷な美しさ』『私にキスできますか?』
※パク・ドユン...映画監督。シウの親友。Juringエンタ常務。映像制作部部長。
※イ・ダイン...『私にキスできますか?』ヒロイン
※キム・ソヒョン...シウの元恋人『Love Hunt』プロデューサー。
※キム・ソンミン...キャサリン。薔薇組第二夫人。数千万ウォンの身体を誇る
※ハン・チョヨン...女優『私にキスできますか?』イ・ダイン役
※ハン・ジヨン...女流写真家。奇跡の1枚を撮る「アメイジングメーカー」
※ナ・ジウ...薔薇組音響アシスタント。通称小枝。
※虹の薔薇組...ドユンのハーレム軍団。精鋭撮影チーム。
※佐藤直樹...ユン・シウの祖父。伝説の投資家。
※佐藤志乃...ソン・インナの本名。
※天翔樹林...ソン・インナのシルフィード歌劇団時代の芸名。
※涼風小鳥...中村綾。サランの母親。
※中村綾...サランの母親
※トリニティG...韓国最大の財閥グループ
※S.S.I...総合映像制作会社
※Juringエンタ...芸能事務所兼資産管理会社。会長インナ。社長シウ。
※アトリエ・ノア...中堅芸能事務所。サランことカナンが所属していた。
※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組
※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説
※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説




