『恐ろしき危機が訪れた時のための雷丸(いかづちまる)』
あらすじ
余市の蒸留所を訪れたシウと韓国人旅行者のサランは、彼女の希望で三角形の崖がそびえるシリパ岬がよく見える海岸へと向かいます。そこでサランは、ネット通販で購入した「雷丸」というお守りの笛を披露し、夕日に向かって吹き鳴らします。
蒸留所の重厚な木製ドアを開けると、
微かに残るウイスキーのピート香をかき消すように、
北の大地のひんやりとした風が二人の頬を撫でた。
見学を終え、駐車場へと向かう足取りのなかで、
サランが突然、シウの袖口をきゅっと引っ張った。
「ねえ、シウさん。わたし、どうしてもシリパ岬を見に行きたいです」
彼女が指差したのは、ここへ来る途中、
蘭島の長いトンネルを抜けた瞬間にフロントガラスの向こうに現れた、
あの特徴的な三角形の崖のことだった。
「シリパ岬?」
シウが記憶を辿るように首を傾げると、サランは楽しそうに目を輝かせ、
両手で大きな身振り手振りを交えながら言った。
「ほら、さっき見えたじゃないですか! 抹茶パウダーをたっぷりかけたシフォンケーキを、真ん中からナイフでバッサリと切り落としたみたいな、大きくて、とっても可愛い崖です!」
シウにとって、その岬は単なる
『余市に到着したことを知らせる目印』でしかなかった。
見慣れた景色、あるいはナビゲーション上の通過点でしかない。
けれど、サランの口から飛び出した
「抹茶シフォンケーキ」というあまりにも独特で愛らしい比喩を聞いた瞬間、
シウの脳裏にある無機質な崖のイメージが、
にわかに色彩を帯びて再生された。
言われてみれば確かに、青い海から突き出たその緑の山肌は、
独特の存在感を放っていた。
「なるほど、シフォンケーキか。サランちゃんらしい表現だね」
「からかってますか?」
「ううん、本気。じゃあ、そのケーキを一番近くで美味しく食べられる場所……いや、綺麗に見られる場所へ行こうか」
シウは微笑むと、車のキーを解錠した。
彼女の無邪気な希望を叶えてあげたいと思うのは、
シウにとってごく自然な衝動だった。
車は余市の市街地を抜け、海岸線に沿って走る。
西へと傾きかけた太陽が、助手席のサランの横顔をオレンジ色に染めていく。
やがてシウは、観光地として整備されているわけでもない、
地元の人しか立ち入らないような名もなき小さな海岸へと車を滑り込ませた。
◇
車を降りると、潮の香りと波の音が二人を包み込んだ。
目の前には、サランが熱望したシリパ岬が、
夕陽の逆光を浴びて雄大にそびえ立っている。
切り立った崖の斜面には、西日を受けた木々の緑が濃い影を落とし、
サランの言う通り、まるで切り分けられたばかりの瑞々しいケーキのようにも見えた。
「わあ……っ!」
サランは歓声を上げると、波打ち際の手前までパタパタと駆けていった。
スマートフォンを構え、夢中でシャッターを切っている。
角度を変え、ズームを変え、何枚も写真を撮ってようやく満足した彼女は、
ふう、と小さく息を吐いてシウの元へと戻ってきた。
そのとき、シウは彼女の様子がいつもと少し違うことに気がついた。
心なしか、その瞳が先ほどよりトロンとしていて、
焦点がわずかに座っている。
頬は夕陽のせいだけではなく、内側からぽっぽと赤みを帯びているようだった。
「サランちゃん、もしかして……」
シウが言いかけると、
サランは自分の小さなバッグの金具に結びつけられていた、
小さな金属製の笛を誇らしげに外して見せた。
銀色に鈍く光る、シンプルな円筒形のホイッスルだ。
「ふふん、シウさん。これが見えますか? これの正式名称を教えてあげます」
サランは一歩足元をふらつかせながらも、胸を張って言った。
「これはですね……『恐ろしき危機が訪れた時のための雷丸』。通称『雷丸』です!」
「いかづちまる……雷丸?」
シウは思わずオウム返しに呟いた。
「そうです。ネット通販の、年に一度の大セールで、なんと半額でゲットしたんです! これ、実はただの笛じゃなくて、本物の魔力を秘めた『魔笛』なんですよ?」
真顔で、大真面目に主張するサランを見て、シウは確信した。
(やっぱり、酔ってるな……)
原因には心当たりがあった。
さっき蒸留所の売店で、サランが「美味しそう!」と言って購入し、
車内で嬉しそうに頬張っていたチョコレートだ。
パッケージの隅に小さな文字で「アルコール分1%未満」と
書かれていたのを見落としていたのだろう。
サランはお酒に恐ろしく弱い体質らしかった。
わずか1%のチョコレートで、すっかり上機嫌な酔っ払いの完成である。
ここで下手に否定したり、冷静にツッコミを入れたりすれば、
面倒な酔っ払いに絡まれることになるかもしれない。
シウは瞬時に頭を切り替え、大人の処世術として、
過剰なまでのリアクションを返すことにした。
「ええっ!? 魔笛だって!? そんなすごいものを半額で手に入れたのかい? それは……なんて恐ろしい引きの強さなんだ、サランちゃん!」
シウが両手を大げさに広げて驚いてみせると、
サランは「そうでしょう、そうでしょう」と、
この上なく満足そうに何度も頷いた。
その子供のように得意気な笑顔が、たまらなく愛らしい。
◇
サランは満足げに鼻を鳴らすと、くるりと身体を反転させ、
再びシリパ岬の方を向いた。
夕陽に彩られ、黄金色に輝く海と、紫色の影をまとい始めた崖。
その壮大な景色に向かって、彼女は雷丸をそっと唇に当てた。
すう、と深く息を吸い込み、思い切り息を吹き込む。
――ピィィィィィィィィンッ!!!静かな海岸に、
鋭く、高く澄んだ金属音が鳴り響いた。
音波は遮るもののない海原をまっすぐに渡り、
対岸の切り立った崖へと衝突する。
数秒の静寂の後。
――……ピィィィィィィィィン……まるで、
崖の向こうに潜む何者かが、彼女の呼びかけに応えるかのように、
明瞭な「やまびこ」となって、優しい礼拝のように二人の元へと帰ってきた。
「あ……」
サランは笛を唇から離し、ぽかんと口を開けた。
夕陽の残光が、
彼女の華奢なシルエットを、
世界から切り取るように美しく浮かび上がらせている。
風に揺れる髪、きらめく瞳、そのすべてが言葉を失うほどに幻想的で、
シウはただ、その光景に見惚れてしまっていた。
「本当に、精霊さんがお返事してくれました……」
サランは夢見心地な声で呟くと、トコトコとシウの距離を詰め、
その小さな手でシウの掌に雷丸を握らせた。
「ほら、シウさんもやってみてください! シリパの精霊さんに、ご挨拶するんです」
「え、僕も?」
「はい、早く早く!」
急かされるままに、シウは手の中の小さな金属片を見つめた。
サランの体温で、笛はほんのりと温かくなっていた。
シウは少し照れくささを感じながらも、
彼女が見守るなか、笛を唇に寄せる。
その瞬間だった。
鼻腔をくすぐったのは、潮の香りでも、ウイスキーのピート香でもない。
甘く、どこか切ない、芳醇なチョコレートの香り。
サランがさっきまで唇に含んでいた、あの甘い魔法の残香が、
ダイレクトにシウの五感を揺さぶった。
ドクン、と胸の奥が大きく跳ねる。
「シウさん、早く!」
サランの声に弾かれるようにして、シウは息を吹き込んだ。
――ピィィィィィィィィンッ!!!
サランのときと同じように、鋭い音が海を渡る。
そして、シリパの崖に反射して、再び「やまびこ」が帰ってきた。
海辺の二人に、等しく祝福を与えるかのように。
「すごいです、シウさんのご挨拶も届きましたね!」
サランは嬉しそうに飛び跳ね、シウの顔を見上げて笑った。
シウは手の中の「雷丸」を見つめ直した。
ネット通販で半額で買われたという、ありふれた金属製のホイッスル。
けれど、今やこの小さな笛は、
シウにとってどんな国宝よりも価値のあるものに思えた。
サランの言う通り、これは本当に魔笛なのかもしれない。
なぜなら、
ほんの数分前まで退屈な日常の景色でしかなかった余市の海を、
これほどまでにドラマチックに変え、
そして何より――シウの胸の奥にある、
彼女への止めどないときめきを、鮮やかに呼び覚ましてしまったのだから。
「うん……本当に、本物の魔女の笛だね」
シウがそう言って優しく微笑むと、サランはそれ以上の言葉を待たずに、
満足したようにシウの肩に小さく頭を預けてきた。
チョコレートの甘い香りと、サランの柔らかな体温。
夕陽が完全に海の向こうへと沈み、
世界が美しいマジックアワーに染まっていくのを、
二人はいつまでも、静かに並んで見つめていた。
雷丸は、彼女の言う通り本当に魔笛なのかもしれない。
シウにとっては、胸のときめきを呼び覚ます、本物の魔力を秘めた笛だったのだから。
今後、記載する表現に関して、常識に基づいて気をつけて参りますが、
もしもを考慮して15歳未満閲覧非推奨を設定させて頂きます。
こちらに何か落ち度がございましたら、お知らせ願います。
※作中のメインキャラクターは日本語も韓国語も話せる設定となっておりますが、読む側を考慮して日本語表記にしております。キャラクター達は場面に応じて言語を使い分けているとご理解願います。
参考データ
※ユン・シウ…小説家25歳
※カン・サラン…女優志望のアルバイト20歳
※ソン・カナン...女優。カン・サランの芸名。ソン・インナに名付けられた。
※ソン・インナ…女優、シウの母親
※ユン・ジュンソ...シウの父。総合映像制作会社S.S.Iの会長
※ユン・ヒョヌ...シウの異母兄。ソヒョン・チョヨンの恋人。S.S.Iの後継者
※イ・ソジュン...シウの親友。Juringエンター専務。子犬の幼顔と低音ボイス
※イ・ウジン...映画監督。『残酷な美しさ』『私にキスできますか?』
※パク・ドユン...映画監督。シウの親友。Juringエンタ常務。映像制作部部長。
※イ・ダイン...『私にキスできますか?』ヒロイン
※キム・ソヒョン...シウの元恋人『Love Hunt』プロデューサー。
※キム・ソンミン...キャサリン。薔薇組第二夫人。数千万ウォンの身体を誇る
※ハン・チョヨン...女優『私にキスできますか?』イ・ダイン役
※ハン・ジヨン...女流写真家。奇跡の1枚を撮る「アメイジングメーカー」
※ナ・ジウ...薔薇組音響アシスタント。通称小枝。
※虹の薔薇組...ドユンのハーレム軍団。精鋭撮影チーム。
※佐藤直樹...ユン・シウの祖父。伝説の投資家。
※佐藤志乃...ソン・インナの本名。
※天翔樹林...ソン・インナのシルフィード歌劇団時代の芸名。
※涼風小鳥...中村綾。サランの母親。
※中村綾...サランの母親
※トリニティG...韓国最大の財閥グループ
※S.S.I...総合映像制作会社
※Juringエンタ...芸能事務所兼資産管理会社。会長インナ。社長シウ。
※アトリエ・ノア...中堅芸能事務所。サランことカナンが所属していた。
※『Love Hunt』…ネット配信の恋愛リアリティ番組
※『私にキス出来ますか?』…シウ作の小説
※『ずっと僕は君を』…シウ作の小説




