第23話 金だけは嘘をつかない
金だけは、嘘をつかない。
ロッシュがその答えにたどり着いたのは、十六歳の冬だった。
あの年は、例年よりも雪が早かった。
朝になると店の軒先に白い塊が積もり、石畳を歩く荷馬車の車輪が、湿った音を立てる。
ロッシュの父親は、町の外れで小さな穀物商を営んでいた。
決して裕福な店ではなかったが、倉庫には冬を越すための小麦が積まれていた。
町のパン屋や食堂から代金を預かり、春まで必要になる分を買い集めていたのだ。
その小麦を、父親は一人の男へ預けた。
男は二十年来の友人だった。
南の町で塩と交換すれば、店の借金を返しても余る。
雪が本格的に降る前には、必ず戻る。
男は父親の手を握り、そう約束した。
契約書はなかったし、担保も取らなかった。
必要ない、と父親は笑った。
彼とは昔からの付き合いだ。
家族も同然なのだから、疑う方が失礼だと。
男は小麦を積んだ荷馬車とともに町を出る。
しかし、戻らなかった。
雪が降っても、年が明けても、荷馬車は帰ってこなかったのだ。
あとから分かったことだが、男は小麦を別の国で売っていた。
塩へ交換するより、金貨で売った方が儲かると考えたらしい。
その金を持って、妻子とともに遠くの土地へ逃げた。
倉庫は空になった。
それでもパン屋や食堂は、すでに代金を支払っている。
だから父親は店を売った。
家を売り、荷馬車を売り、母親が大切にしていた指輪まで売ったのだ。
それでも、すべてを返すには足りなかった。
最後に残った一袋の小麦粉で、母親はパンを焼いた。
とても小さなパンだ。
それを家族四人で分けようとして、母親は何度も切り分け直す。
少しでも同じ大きさにしようとするほど、パンは細かく崩れていった。
父親は、それを見ながら言った。
あいつにも事情があったのだろう。
何か、逃げなければならない理由があったのかもしれない。
それでも友人を憎み切れない父親を見て、ロッシュは思った。
事情で腹が満たされるのか。
約束を信じた結果、砕けたパンを前にしている自分たちは、一体何を食べればいい。
その春、父親は町を出た。
失った金を取り戻すと言っていたが、それきり戻らなかった。
友人を探しに行ったのか、新しい商売を始めたのか。
それとも、もう生きていないのか。
ロッシュには分からない。
ただ一つ、分かったことがある。
人の言葉は、その人間が消えれば何も残らない。
友情も、恩も、必ず戻るという約束も、腹を満たさない。
だが、金は違う。
銅貨一枚なら、小さなパンを一つ買える。
銀貨一枚なら、冬を越すための薪を買える。
数が足りなければ買えない。
数があれば買える。
そこに事情はなく、裏切りもない。
金は、持っている者にも、持っていない者にも、同じ重さでそこにある。
だからロッシュは、金を信じた。
◇
「血も涙もない男だ」
富都ラウゼンでは、ロッシュについて、そのように語る者がいた。
今日も一人の商人が、ロッシュの商会から肩を落として出ていった。
織物を扱う小さな商会の主だった。
娘が病に倒れたため、支払いをひと月延ばしてほしい。
男はそう願い出た。
ロッシュは、支払いの延期を認めなかった。
ただし、男の持つ織機と在庫を適正な価格で買い取り、残った借金を相殺した。
さらに娘の治療費として、男が今後一年で返せる額を計算し、新しい貸付契約を作った。
利子も取る。
一日でも遅れれば、次に売るものは家になる。
男は何度も頭を下げた。
感謝しているのか、恨んでいるのか、ロッシュには興味がなかった。
契約通りに返せば、男は店を立て直せる。
返せなければ、失う。
現実にあるのは、それだけだ。
町の者は、ロッシュを冷酷だと言う。
その一方で、彼の商会で働きたがる者は後を絶たなかった。
給金が遅れたことは一度もない。
荷馬車が襲われても、護衛へ約束した報酬は全額支払われる。
契約書に書かれていることであれば、相手が貧民でも王族でも、ロッシュは決して破らなかった。
だから人々は、彼を好まなくても取引をした。
信じてはいけないが、信用はできる。
それが富都ラウゼンにおける、ロッシュという商人だった。
そもそも、好かれる必要などない。
誰かに好かれたところで、利益は増えない。
信じてくれと言う者ほど、信じるに値する証拠を持っていない。
人間は嘘をつく。
自分にさえ嘘をつく。
必ず返す、今度こそ成功する。
これが最後だ。
その言葉を吐いた者たちが、どれほどの金を失ってきたのか。
ロッシュは帳簿の数字として知っている。
だから彼は、言葉を信じない。
過去の実績を見て、資産を調べる。
担保を取り、裏切れば損をする仕組みを作る。
そうすれば、人は誠実になる。
信頼などという曖昧なものに頼らずとも、金によって約束は守られる。
その考えが間違っていると思ったことは、一度もなかった。
夜になると、富都ラウゼンは昼よりも明るくなる。
大通りに並ぶ魔導灯が一斉に灯り、白い石造りの建物を金色に染める。
酒場からは音楽が流れ、香辛料と焼いた肉の匂いが、夜風に混じって通りを満たしていた。
そして町の中央には、ひときわ巨大な建物がある。
賭博宮殿、金羊宮。
高い尖塔の先には黄金の羊が掲げられ、入り口へ続く階段には赤い絨毯が敷かれている。
平民も貴族も、金を持つ者なら誰でも入ることができる。
もっとも、中へ入った時に持っていた金を、帰る時にも持っているとは限らないが。
ロッシュは金羊宮へ多額の出資をしていた。
経営に直接口を出すことは少ない。
客が負けるように仕組まれた遊戯へ、余計な手を加える必要などないからだ。
その夜、ロッシュは二階のロイヤルボックスから遊技場を見下ろしていた。
手元には、古い葡萄酒が置かれている。
一杯で職人の給金ひと月分はする酒だったが、ほとんど口をつけていない。
ロッシュの視線は、下の階に集まった客へ向けられていた。
十二輪盤の前では、身なりのよい男が額の汗を拭っている。
最初に席へ着いた時には、指に三つの指輪をつけていた。
今では一つしか残っていない。
最後の指輪へ手を伸ばすたび、男は何度も指を握り込んでいた。
その隣では、赤い帽子をかぶった女が、膝の上に置いた鞄を開けたり閉じたりしている。
中にあるのは帰りの馬車代だろう。
使ってしまえば、歩いて帰ることになる。
それでも女の目は、盤の上を転がる銀色の球から離れなかった。
金の足りない無能ほど、金さえあれば人生が変わると考える。
そして、その足りない金を得るために、今あるものまで差し出す。
ロッシュには理解できなかった。
金を増やしたいのなら働けばいい。
商売を学び、損失を避け、積み上げればいい。
幸運へ金を預けるなど、他人の善意へ財産を預けることと変わらない。
どちらも保証がなく、最後には何も残らない。
十二輪盤の球が止まった。
身なりのよい男が頭を抱え、最後の指輪を外す。
赤い帽子の女は鞄を閉じた。
どうやら、歩いて帰ることだけは避けたらしい。
ロッシュは興味を失い、手元の書類へ目を落とそうとした。
その時、遊技場の一角から大きな歓声が上がった。
ロイヤルボックスの扉が開く。
金羊宮の支配人が、額に汗を浮かべながら入ってきた。
「十二輪盤で、客が勝ち続けております」
それだけでは、ロッシュが動く理由にならない。
客が一時的に勝つことはある。
勝つ者がいなければ、賭け事は成立しない。
誰かが大金を得るところを見せるから、残りの者たちが自分も勝てると思い込む。
だが支配人は、ロッシュの返事を待たずに続けた。
「毎回、全額を賭けています」
ロッシュは顔を上げた。
眼下の十二輪盤には、人だかりができていた。
その中央に、一人の少女がいる。
薄い金色の髪に、赤い瞳。
体を包んでいるのは、磨き抜かれた銀色の騎士鎧だった。
背には赤いマントがあり、鎧にも旅でついたらしい細かな傷がある。
それでも手入れは行き届いており、魔導灯の光を眩しいほど反射していた。
腰には、古びた剣。
とても名工の作品には見えない。
柄には装飾もなく、鞘も長い旅で擦れている。
それなのに少女は、どこか誇らしげにその剣を身につけていた。
金色の髪の一部には、赤いリボンが結ばれている。
小さな紋章が刺繍されていた。
貴族家のものには見えるが、少なくともこの国で使われている紋章ではない。
遠方の騎士なのか。
それとも、貴族の護衛か。
いずれにせよ、身なりと行動が噛み合っていなかった。
騎士の少女の前には、すでに大量のチップが積まれている。
それを少女は、一枚残らず盤の上へ置いた。
周囲からどよめきが起こった。
その行動に、支配人が息を呑む。
ロッシュは、盤面へ視線を移した。
少女が選んだのは、十二ある受け口のうち、最も倍率の高い一つ。
銀色の球が外輪を走り始めた。
少女は積み上がっていたチップを見ていない。
横で騒ぐ客たちにも、青ざめた遊技係にも興味を向けていなかった。
赤い瞳が、回転する球だけを追っている。
まるで、そこに自分の命を狙う敵でもいるかのような真剣さだった。
球が速度を失う。
一度跳ね、仕切りを越え、少女が選んだ受け口へ落ちた。
遊技場が揺れるほどの歓声が上がった。
遊技係の顔から血の気が引く。
少女の前には、先ほどまでとは比較にならない量のチップが積み上げられた。
これだけあれば、町の中心に家が買える。
小さな商会なら、そのまま一つ立ち上げられるだろう。
だが少女は、チップを数えなかった。
椅子から立ち上がる。
両手を空へ向かって上げた。
「おういえ~」
平坦な声だった。
そして少女は、その場で左右に揺れ始めた。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
表情はほとんど動いていない。
それなのに本人は、どうやら心から喜んでいるらしい。
周囲の客も、最初は意味が分からず黙っていた。
しかし少女が三度目の「おういえ~」を口にした頃には、なぜか一緒になって両手を上げる者が現れた。
遊技場の一角で、見知らぬ者たちがゆらゆらと揺れる。
ロッシュは眉を寄せた。
……理解できない。
大金を得た興奮で我を失っているようには見えない。
むしろ少女が喜んでいるのは、金ではなく、勝ったという事実そのものに見えた。
やがて少女は揺れるのをやめた。
積み上がったチップを見て、さらに遊技係を見る。
そして、再びすべてを盤の上へ置いた。
歓声が悲鳴へ変わった。
支配人がロイヤルボックスの手すりへ駆け寄る。
ロッシュは止めなかった。
少女が何を考えているのか、確かめたくなったからだ。
二度目も、少女は勝った。
「おういえ~」
ゆらゆら。
そして三度目も。
「おういえ~」
ゆらゆら。
四度目には、周囲の客たちが少女より先に両手を上げた。
遊技場に、何度目か分からない「おういえ~」が響き渡る。
支配人の唇が震えていた。
このまま続ければ、今夜の利益が消える。
いや、それだけでは済まない。
少女が次も全額を賭け、また勝利すれば、金羊宮が用意している支払い金にも影響が出る。
だが少女は、五度目の勝負には進まなかった。
どうやら満足したらしい。
増えすぎたチップを遊技係が何枚もの盆へ分け、係員たちが換金所まで運んでいく。
少女はその後ろを、てくてくと歩いていった。
ロッシュもロイヤルボックスの奥にある魔導鏡へ近づく。
館内の様子を映す鏡へ魔力を通し、換金所を映し出した。
少女の前に、盆が並べられる。
換金係は緊張した顔で、金貨で受け取るか、宝石へ替えるか、商業組合の預かり証にするかを尋ねた。
少女は真剣に考えていた。
そして、換金所の奥をぴょんぴょんと跳ねて覗き込む。
「パンはありますか」
換金係が固まった。
どうやら聞き間違いだと思ったらしい。
少女は同じ言葉を繰り返した。
「このチップは、パンと交換できますか」
当たり前だが、もちろんできない。
換金所は金を渡す場所であり、パンを保管する場所ではない。
係員がそう説明すると、少女の肩が目に見えて下がった。
表情は変わっていない。
しかし、先ほどまで勝つたびに揺れていた姿とは、明らかに違っていた。
少女は盆に積まれたチップを見下ろす。
町の家々を買えるほどの富。
多くの者が一生を費やしても手にできない金額。
それを前に、少女は残念そうに告げた。
「このチップには、才能がありません」
少女は盆を換金係の方へ押した。
「いりません」
係員が慌てた。
これはあなたが勝ったものだ、正当に受け取る権利がある。
金貨にすれば、好きなだけパンを買える。
そう説明しようとした。
しかし少女は、もう換金所へ背を向けていた。
銀色の鎧を鳴らしながら、出口へ歩いていく。
腰には古びた剣。
髪には、どこの国のものとも分からない紋章のリボン。
結局、少女は一枚のチップも持たずに金羊宮を出ていった。
ロッシュは魔導鏡の前で動かなかった。
大金を得ようとしていたのではない。
金羊宮を破産させるつもりもない。
名声が欲しいなら、勝ち金を放棄した理由を人々へ語ったはずだ。
誰かへ富を分け与える善人を演じたいのなら、その場で客たちへ配ればよかった。
だが少女は、何もしなかった。
勝負をして。勝って。
ついでに揺れて。
パンがないと知り、普通に帰った。
どこまで考えても、利益につながる目的が見つからない。
人間が行動する以上、必ず何かを求めている。
金か、地位か、それとも名誉だろうか。
安心でもいいかもしれない。
愛情なんて選択肢もあるだろう。
形が違うだけで、すべての人間は欲しいものを得るために動いている。
その、はずだった……。
なのに、あの少女は何を得た。
ロッシュは自分の手元を見る。
いつの間にか、金貨を一枚握っている。
考える時、指の上で転がす癖があった。
金貨は何も語らない。
決められた重さを持ち、決められた価値を示している。
いつもと同じだった。
それでも今だけは、その正しさでは説明できないものが、金羊宮の出口から去っていった。
ロッシュは金貨を卓上へ置く。
高価な葡萄酒も、今夜の収支報告も、そのまま残す。
そしてロイヤルボックスを出た。
金で買えるものを置き去りにして。
金を捨てた騎士のあとを追ったのだ。




