第24話 半年分のパンと騎士の旅
ゼグラント辺境伯領を旅立ってから、半年が過ぎていた。
その間、ホムホムはやっぱりよく歩いた。
森を抜け、丘を越え、道がなくなれば脳内マップを信じて進み、だいたい二回に一回は遠回りになる。
けれど、旅は楽しかった。
カテリーナから贈られた銀色の鎧は、今では細かな傷をいくつも増やしている。
背中の赤い外套も、雨に濡れて乾かし、枝に引っかけては縫い直した。
薄い金色の髪に結んだリボンだけは、どれほど風が強い日も外さなかった。
町へ着くたび、ホムホムはその紋章を見せた。
「私はカテリーナの騎士、ホムホムです」
ゼグラントの名を知る土地では、門番が目を丸くしたあと、急に姿勢を正す。
辺境のスタンピードを一人で止めた銀色の騎士について、噂だけ先に届いている町もあった。
宿の主人が代金を取らず、代わりに食堂の子どもたちへ剣を見せてくれと頼んだこともある。
ホムホムは主人公の剣を両手で持ち上げ、とても強くて負けなかった騎士のものだと教えた。
子どもたちは目を輝かせた。
その夜に出された丸いパンも、よく膨らんでいた。
当然、主人公が負けなかった味にホムホムは嬉しくなる。
ある雨の夜、山あいの宿で、幼い娘に一人旅は寂しくないのかと尋ねられた。
ホムホムは少し考え、髪のリボンへ触れた。
カテリーナは遠くにいる。
けれど、このリボンを結んでいると、旅立ちの日の「いってらっしゃい」が今も背中に残っている気がした。
「寂しいですが、一人ではありません」
娘には難しかったらしく、代わりに焼きたてのパンを一つくれた。
ホムホムは半分に割り、二人で窓を打つ雨を眺めながら食べた。
旅の途中、美しく大きな泉があるという噂を聞いた。
その泉は街道から遠く、森の奥にあった。
昔は濁った魔力に覆われ、近づく生き物を傷つける場所だったらしい。
だが長い年月の中で水は澄み、今では青い空を底まで映していた。
魚が光を弾いて泳いでいる。
岸辺では白い鳥が細い脚を水へ入れ、草の陰から小さな獣が鼻先を出した。
ホムホムは泉のそばへ腰を下ろし、途中の村でもらったパンを取り出した。
乾いて少し硬くなっていたが、水に浸すと柔らかくなる。
ひと口食べ、泉を見た。
騎士の信じた明日は、人間だけのものではなかったのかもしれない。
一度は濁った世界で、水が息を吹き返し、魚が泳ぎ、鳥が戻ってきた。
草も木も、小さな命も、まだここで生きている。
「この泉は、かなり勝っています」
ホムホムはパンを掲げた。
すると水面を跳ねた魚が、賛同するように小さな輪を作る。
美しい景色の中で食べるパンには、人間の勝利だけではなく、世界中の命が明日までたどり着いた味がした。
ホムホムは、騎士の信じた明日はやはり偉大なのだと、すごく嬉しくなった。
別の日には、街道の途中で五人の男たちに囲まれた。
服は土に汚れ、手には鎌や鍬を持っている。
武器を構える姿には慣れておらず、先頭の男など、ホムホムと目が合うたびに鎌の先が下がっていた。
「ここを通るなら、通行料を置いていけ」
声だけは恐ろしくしようとしていた。
しかし腹の鳴る音が、その努力を台無しにした。
もしかすると、彼らはお腹が減っているだけなのかもしれない。
ホムホムは肩の袋を調べた。
銅貨が数枚あったが、次の町で靴底を直すには足りない程度の貨幣だ。
「お金が足りません」
男たちの顔が険しくなる。
ホムホムは袋の奥から、布に包まれたパンを取り出した。
「なので、一緒に食べましょう」
街道脇の木陰へ座った時、男たちはまだ、自分たちが何をしているのか理解していない顔をしていた。
けれど、ホムホムがパンを五つに分けようとして、人数が六人であることに気づき、さらに細かくちぎり始めると、誰も鎌を構えてはいられなかった。
先頭の男は自分の分を受け取らず、藪の奥へ向かう。
そこには、幼い子どもが二人隠れていた。
痩せた指でパンを受け取った子どもは、匂いを嗅いでから、すぐには口に入れなかった。
隣の子へ半分に割って渡したのだ。
男たちは、それを見て泣いた。
人の優しさを思い出した男たちに、もう涙を止める術を見つけることはできない。
元は近くの村で畑を耕していたらしい。
だが二年続いた凶作で種までほとんど食べ尽くし、税を払えず、畑を手放した。
町へ働きに出ても雇われず、最後には街道へ立つしかなかった。
残っている種はあるが、畑を失った今ではもう、どうすることもできない。
ホムホムは、残った自分のパンを子どもへ渡した。
だって、悔しかったから。
彼らがならず者になったことより、畑を耕したい人が土を失い、子どもへパンを渡したい父親が鎌を武器にしなければならなかったことが。
だからホムホムは、街道の先に広がる荒れ地へ向かった。
石を持ち上げ、枯れた根を抜き、硬くなった土を深く耕す。
地下の水脈を探し当てると、溝を掘って水を引いた。
日が傾く頃には、荒れ地だった場所に何枚もの畑が並んでいた。
なにせホムホムは旧文明が最後に造り上げた、無敵の最終兵器だ。
この程度を可能とするだけの機能は、最初から備わっている。
そんなホムホムの無双を見て、男たちは言葉を失っていた。
子どもたちだけが、柔らかくなった土の上を走り回っている。
「今年のパンはありません」
ホムホムは土のついた手を払い、男たちを見た。
「ですが、来年からは広がった畑でいっぱい食べましょう」
これから種を蒔き、育てるのは彼らだった。
ホムホムは、それで大丈夫だと思った。
もう一度畑を持った人たちが、また街道へ鎌を持って立つとは考えなかった。
別れ際、先頭の男は何度も頭を下げた。
ホムホムは、来年ここを通る時にはパンを用意しておくよう頼んだ。
旅を続け、山を越え、やがて他国へたどり着いた。
ここでもホムホムは、いつものようにリボンの紋章を門番へ見せた。
「私はカテリーナの騎士です」
門番は長い間リボンを眺め、首を傾げる。
だってここはゼグラント辺境伯のいた国ではない。
場所だって遠く離れていて、もう縁もゆかりもない土地といっていいだろう。
だから門番はホムホムから漂うパンの香りに、何かを思いつき尋ねる。
「どこのパン屋の印だ?」
ホムホムは少し考える。
だが、いい説明が浮かばない。
結局、ホムホムが一番強く思っていることを説明することにした。
「カテリーナの印です。とても大切です」
この国では、ゼグラント家の名も紋章も通じなかった。
けれどリボンの価値が変わったわけではない。
ホムホムは胸を張り、初めて見る国へ足を踏み出した。
そうしてたどり着いたのが、富都ラウゼンだった。
夜でも通りは明るく、店先には見たことのない商品が並んでいる。
宝石も、絹の服も、香辛料もあった。
そして、パンもあった。
白いパンに、黒いパン。
果物を練り込んだパンもあるらしい。
木の実を乗せたパンはかなりイケる。
砂糖を振りかけ、きらきら光るパンまである。
ホムホムは一軒目の店を見て、次の店を見て、また最初の店へ戻った。
全部食べたい。
しかし、銅貨が足りなかった。
そこで、通りを歩いていた男へ尋ねる。
「お金をたくさん入手して、いろいろなパンを貰うには、どうすればよいですか」
男は銀色の鎧と真剣な顔を交互に見た。
やがて面白そうに笑い、町の中央にある金羊宮を指さした。
賭博に勝てば、一晩で好きなだけパンを買えるという。
「完璧に理解しました」
そうしてホムホムは金羊宮へ入り、目の前の勝負へ全力で挑む。
勝つたびに「おういえ~」と揺れ、なぜか周囲の客まで揺らし、最後には大量のチップを置いたまま出てきたのだ。
今は、先ほど見つけたパン屋へ向かっている。
果物の入った丸いパン。
あれは有望だった。
木の実のパンも、見逃す理由はない。
そんなことを考えていると、背後から低い声が飛んできた。
「なぜ、勝ち金を金貨へ替えなかった」
ホムホムは足を止めた。
だって換金所に、パンなかったじゃ~ん。
……と、内心で思いながら。




