世界と日本の大転換期、医学生から、研修医に.
「完全に世界の動きから取り残されていたのでしょうね・・・」
ドクトルの語るむかし話.
ドクトルが大学医学部の学生だった頃と、卒業した頃.その頃の世界と日本の歴史.
学生の頃が、バブルの真っ盛り.今から思うと日本の一番いい時、だったのかもしれない.
東京のディスコでは、ワンレン、ボディコンの若い女の人が、センスを振り回して踊り狂い、男は、女の人をデートに誘うのに、フランス料理屋?
「いやー敷居が高い」と、イタリア料理屋に.
どっちも予約がなかなか取れなかったそうである.
「ドクトルには無縁の世界・・・・」海丸くんがしみじみ言う.
「まあ、実際、無縁の世界、だったでしょうね・・・・」
学生の体育祭、打ち上げのパーティーが、地元のホテルの大広間を貸切で、ディスコパーティーだったと聞く.その体育祭の事務の仕事を少しやったのだが、そういうパーティーには出なかったのでわからない.
世界の出来事
1981年: アメリカのIBMが初代パーソナルコンピュータ(PC/AT)を発売
1985年: プラザ合意.ドル高是正のため、先進5カ国(G5)が協調介入(日本の急激な円高の引き金に).
1983年(昭和58年)〜1987年(昭和62年)頃日本の中曽根康弘首相と、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、互いを「ロン」「ヤス」とファーストネームの愛称で呼び合うほど非常に親密な関係.特に1983年に中曽根首相がレーガン大統領を自身の別荘「日の出山荘」に招いて、ちゃんちゃんこ姿で囲炉裏を囲んだシーンは、日米蜜月時代の象徴として当時有名だった.
1985年(昭和60年)〜1991年(平成3年)1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高指導者(書記長)に就任した.
彼は「ペレストロイカ(再構築)」や
「グラスノスチ(情報公開)」という情報開示・民主化の改革を一気に進めた.
しかし、この改革によって長年抑え込まれていた各共和国の独立の動きや不満が一気に噴出し、体制にヒビが入る.
1986年: チェルノブイリ原子力発電所事故(ソ連で史上最悪の原発事故が発生).
1989年: ベルリンの壁が崩壊(東欧革命の象徴)、天安門事件.
1989年のベルリンの壁崩壊を経て、
1990年: 東西ドイツが統一.ティム・バーナーズ=リーがワールドワイドウェブ(WWW)を発明.
1991年:湾岸戦争勃発.12月にソビエト連邦は正式に崩壊.
日本の主な出来事
1981年;ロッキード事件の裁判、蜂のひとさしが流行語?
1982年: 東北新幹線(大宮〜盛岡)および上越新幹線(大宮〜新潟)が開業.
1983年: 東京ディズニーランドが開業.「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」が任天堂より発売.
「1985年、医学部の受験で、大阪から新潟に行く時、東京から、上野、大宮まで、まだ上越新幹線通ってなかった.大宮ライナーだったか、後から聞いたら、新幹線リレー号と言うらしい.とにかく上野から、特別列車に乗って大宮に行ったと思う.上越新幹線の始発駅はまだ大宮だった!」
この時に、上野の上越・東北新幹線、地下深い駅と線路の整備をしていたのだろう.
1985年: 国鉄(日本国有鉄道)が分割・民営化の方針を決定.日本航空123便墜落事故が発生.阪神タイガースが、優勝.掛布、岡田、バース?
1986年: 男女雇用機会均等法が施行.バブル景気の幕開け.
1987年: 国鉄が分割・民営化され、JRグループが発足.NTT株の上場で株ブーム到来.利根川進氏が、ノーベル生理学医学賞を日本人で初めて受賞した.なぜか「先を越された」と思い、意味不明の悔しさを感じた.
「あの感覚、なんだったのだろうね.変な焦り、みたいなのを覚えている・・」
1989年: 昭和から平成へ改元.消費税(税率3%)導入.
「女性問題で約2ヶ月(69日)で辞職」したのは、1989年の宇野宗佑首相.
1990年: バブル景気がピークに達し、日経平均株価が史上最高値(3万8,915円)を記録.
1991年: バブル崩壊.不動産価格や株価が急落し、のちの「失われた10年」の入り口に.
1992年: リオデジャネイロで地球サミット開催.PKO協力法(国連平和維持活動協力法)が成立.
東西冷戦が終結して、世界は平和になるのか、と思いきや・・・
残念ながら、卒後の数年はドクトルはテレビを持っていなかった.
そして新聞もとっていなかった.学生の時には、二紙とっていたのに.
これは勧誘というか売り込みの人が当時は一応違法とされる、いろんなサービス品で、購読者を増やしていたということを半ば公然と行なっていたことが大きな原因である.
おかげで、洗剤には事欠かなかった.
まだ携帯電話はなかった.
インターネットは、軍事技術?冷戦の終結とともに民間に解放されて、今のようなことになったと聞くが、その詳しい頃については勉強不足で知りません.
「惜しむらくは、というか残念だったのは、あの歴史の転換点、見極めると良かったのだが、医者の修行で、それどころではなかった・・・・」
「あまりに多忙で?」
「いえ、いえ、あまりに非効率な、勤務と生活と、睡眠不足で・・・」
あの頃の非効率で非生産的な、生活の反省から学んだのが、まず生活の基盤をしっかりすること・・・
ちゃんと起きて
部屋は片付けて、掃除して
食事をとって、
洗濯したり、布団を干したり.
風呂にもちゃんと入って、ちゃんと寝る
もちろん、ちゃんと仕事をして、勉強も最新の知識、世界の動き、最新の技術、学問にも、アンテナを張り巡らせる.
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学生から、そして、特に大学病院の研修医の時代.
雪が降るところだから、夜、それも夜中の0時を過ぎてから、帰宅するのだが、
冬、自転車乗れない.家に帰っても風呂のボイラーが故障しているから風呂が沸かせない.
「風呂に入れないんだったら、修理してもらうとか、アパート変わるとか、やりようはあったのでは?」ルシフェルが言うのだが、
「いえいえ、そのような部屋を探しに行く暇があったら、ってことでしょうね.あと、生活の世話をしてくれる友達、恋人、身内、近くにそういう人は皆無だったし」
仕方ないから、病院の手術室で、風呂に入って、近くのコンビニで下着を買ってくる.そのうちに家に帰って寝ることを諦めて、病棟の処置室のベットで寝る.すると、1時間くらい余計に眠れる.驚くべきことに、大学病院の手術室の風呂場は、同じような境遇、とも思えないが、多くの先生でごった返していた.風呂に入れないほどではなかったにしても・・・・
そして、当時、
過労死、とか
パワハラ、とか
セクハラ
と言った言葉、まだなかったのではないか、と思う.
3時頃に就寝して、処置室に看護師さんが、何かを取りに来た時に起きるという感じ.
食事をどうするか?なんか適当に食べていたのだろう.もちろん自炊なんかしない.売店とか自動販売機でなんか買ってきていたのだろうか?大学病院の研修医時代、朝ごはんを食べたという記憶が完全に抜け落ちている.当時は今のように毎日こまめに日記を書くということをしなかった.メモ帳に書くのは、患者さんのことだけ・・・
最初の出張で、アパートを引き払うまでの間、医学部に上がってから研修医の一年目まで住み続けた、その部屋は、「ゴミ屋敷」となっていた.
たまに家にいる時、カーペットの上に古新聞、雑誌、学校のプリント、服やら、布団、シーツが散乱している.
今だったら危なっかしくてとても使えないが、当時は、ガスのファンヒータを使っていたのだ!
「よく火事を起こさないで済んだもんだと、当時を思い出して、少し冷や汗ものですかね」
引っ越しや、雑誌(少年ジャンプや、ヤングジャンプ)大量の新聞(朝日か読売?あと一つ、OX日報という地元の新聞だったか?)、そして、長年掃除されることなく堆積した、埃・塵芥に、露骨に気色悪そうな顔をしていたのを今も忘れない.
久々の引っ越し、荷物の段ボールが入った広々としたマンション.
なんと言う開放感!
学生時代のゴミ屋敷からの呪縛から解放された時かもしれない.
その後もドクトルは、数年ごとの引っ越しをして、一箇所にとどまること、10年を超えることはない.




