重症脳損傷に対する、低体温療法
専門医試験の時に在籍した、某県の大きな病院.
そこは、精神科の病棟を合わせると、800床、精神科が200床くらいだったから、急性期その他は、600床くらいだったのだろうか.
3次救命施設だから、救急の当番の日の当直医は、夜はねられない.ずっと働きっぱなしである.
当直の時にドクトルは、酔っ払いの患者に、「おめえ本当に医者か?」と言われた.
当時痩せて顔色が蒼かったから、その患者に、「おめえ病気だろ、多分癌だから病院行ったほうがいいぜ.」とご親切な忠告もいただいた.
18歳から潰瘍性大腸炎を患って、その頃は時々具合が悪くなっていたから、痩せて顔色が悪かったのはそういう事情がある.
しかし病気で病院の勤務を休んだことはなかった.怪我して、足の指の内軟骨腫が見つかり、その手術等のために一ヶ月ほど休んだのだが.
屋上には、ヘリポートがあり、山で遭難した人が送られてくる病院でもあった.
山で発症、ヘリコプターで搬送された、年配の男性、ラクナ梗塞で、軽い、しびれ程度の患者、特に何もしていないのに、えらく感謝されるとか.
滑落で、多発外傷で、何もできなかった患者の家族からは恨言を言われたり・・・
その病院、脳外科部長の二人の先生は、いずれも癖の強い人ではあったが、新しいことに取り組む意欲の旺盛な人たちであった.
その前任の病院の頃から、重症頭部外傷、あるいは心肺停止蘇生後の患者に、「低体温療法」が、行われるようになった.20世紀の終わり頃である.
柳田邦夫が、ご家族のことで、そのルポをされて、NHKで特別番組があったりした.
脳外科の先生は、すぐに飛びつく.
大学に近い、出張病院では、すでに、重症頭部外傷に対してこの治療がやられたと聞いた.
「すげーな!どんなだろ・・・」ドクトルは、自分がまさかその先進治療を担当することはないだろうと思っていたのだが.
某県の大きな病院.
着任早々に、部長の宣言
「これからうちでも、低体温療法をする.低体温ブランケット(冷えた水をシートに流して患者さんにかけて、体温を下げる装置.サーモスタット付きだから温度が設定できるようになっている)がもうすぐ入る」
とのことだった.
「ええ!」と思った.
ドクトルは珍しく張り切った.
一例目は、交通事故の急性硬膜外血腫の患者である.III-300、両方の瞳孔は散大していたと思う.
年齢、性別等は言えない.
硬膜下脳圧センサー(カミーノ)を留置して、低体温療法一例目.
ブランケットだけでは、なかなか目標の、32から33℃にまで、ならない.
「なかなか冷えないね・・」部長が言う
当時、低体温療法を多くされていた、救命センターの脳外科の教授が、簡単な本をすでに書かれていた.その本を貪るように呼んでいた、ドクトルは、
「マーゲンチューブ入れて、表冷水で胃洗浄をすると、早く低体温にできますよ.」
彼の進言は、すぐに採用された.
「じゃ、君、胃洗浄して、早く冷やして」
それ以来、低体温療法の中心にドクトルは据えられてしまった.
目標の低温に達したら、達したで、その後は、油断すると、冷やし過ぎで30℃を割ってしまう.また油断するとすぐに、34とか35℃にまで上がってしまう.
脳圧管理、最初は、
「20mmHg以下を死守すること!」
最初の数日は、10mmHgとか.
「これならなんとかなりそうかな?」
しかし、重症脳損傷の管理は決してそんなに甘くない.
脳圧は、頭蓋内圧モニターを装着してすぐは、低くても、数日で、すぐに20mm
Hgを超えてしまう.
まずは、換気のチェク.PCO2はやや低め、30〜35mmHg程度.
そして、頭位.頭の高さ、そして首の屈曲伸展具合である.
そして呼吸器を調節して、やや、過換気気味にした.
当時の脳圧コントロールの基本は、呼吸器による、やや過換気と、あとはバルビタールである.
なかなか、しかし、至適、PCO2とか、頭位、首の屈曲具合はわからない.
そのうちに、脳圧モニター20mmHgを超えることが多くなる.
グリセオールは、使ってみるが、脳圧は実際には下がらない.このことはどこかに書かれていたと思う.
マニトール、200mlを急速に点滴する.
実際にモニターの、脳圧は、20mmHg以下になるのだが、その後1、2時間ですぐにまた上がってしまう.そのうちに1日に使う、マニトールが、10回とか、あるいはそれ以上になり、
おしっこが出なくなったり、
使っても全然効かなくなったり
・・・・・・・
テキストには、
カリウムが下がる
血小板も下がる.
感染に弱くなる
・・・・・・・・・
30℃よりも低体温になると不整脈が出る.当時ドクトルは、J-waveとか、オズボーン波と言った、後で学んだ低体温に伴う心電図所見をまだ知らなかった.
甲状腺ホルモンを補充すると機能予後が良くなる?そこまで到達する前に患者さんたちは亡くなっていった.
細めのスワンガンツカテーテル(のようなもの?)で、Juglar veinの酸素飽和度(SjO2)を測って、脳の代謝を計測すると言う方法が考えられて、考案者の名前をとって、ハヤシのカテーテルというのも出回っていた.ドクトルも使ってみたが、なんか計測結果がまちまちで、データ化できるものではなかった.そもそも、両側の大脳半球、カテーテルを挿入するのは左右のどちらの頸静脈?なんていうことも議論にすらならなかった.
脳圧のコントロールができなくなる頃から、血液生化学で、LDHが上昇してくる.
「なんか意味があるのだろうか・・・」
深く考える暇はなかった.
色々考えたり、どこかの学会で報告したり、論文に書いたりする前に、大学に戻ることになったから.
大学には重症頭部外傷を研究するグループはなかった.
何人かの「重症脳損傷」の患者さんに、低体温療法を行った.
結果は惨憺たるものだった.
にもかかわらず、ドクトルはその病院で、全職員を前に大講堂で、「低体温療法」について講演をしたのだった.
「今から思えば、よくあんな講演引き受けましたね・・・」
別館の皆がドクトルの思い出話を、黙って聞いている
「でも、あの頃が、医者として一番充実していた、そう言うことなのでしょうかね・・」
黙って聞いていたアテナが、首をかしげてこう聞いてきた.
「ねえドクトル、それだけ頑張って、それでも患者さん助からなかったのに、なんで楽しかったの?」
するとドクトルは少し考えて、
「楽しかったわけじゃないんだよ.きっと、毎日必死だったんだね.でもね、人間、必死だった時代を後から思い出すと、案外悪くなかったと思うものなんだ・・・」
遠い目をしたドクトルはそう答えていた.




