恩師からの密命
ドクトルの1日.
いつもなら、なんとなく始まり、これといった事件などなく、なんとなく終わるのが普通である.
この日は違った.
仕事はなんとなく始まり、なんとなく終わる、はずであった.
午後4時過ぎ、受付の事務の人から呼ばれた.
「ドクトル先生、御面会です.」
受付に行ってみてびっくり、恩師の楠本先生が立っている.隣には息子の事代君?
先生に会うのは久しぶりである.
「あの、先生、ご無沙汰しております.おっしゃっていただければ、こちらから出向きましたのに・・・」
「いや、久しぶりに君のことが懐かしくなったというのもあるのだが、今日はね、お願いがあって、きたんだよ」
隣に立っている、事代君も頷いた.
彼も、立派ないい若者になっている.
なんでも、私立の有名な大学の法学部か政治学部を出て、外交官として、働いていると聞く.礼儀正しい、いい若者だ.
「ドクトル先生、お久しぶりです.その節は妹がお世話になりました」
挨拶もしっかりしている.
あれから何年経っただろう.もうかなり前の話?
「ここでは、なんだから、どこか、静かな、喫茶店みたいなところ、ないかな・・・」
「あ、それなら、病院を出てすぐのところに、馴染みの店主の小さな喫茶店があります、そこに行きますか.あのちょっと待ってください、着替えてきますから・・・」
急いで医局に戻って、普段着に着替えて、病院の玄関に出てきたドクトル.
半袖のシャツ、白に近い、灰色のズボン、例によって右のポケット、根元に小さな穴が空いている.その昔先生のお宅にお邪魔した時に、娘さん、なんと言ったか?明美さんだっけ、恵子さんだっけ・・・とにかく、娘さんに縫ってもらったのとはもちろん別のズボンである.
喫茶店の4人掛けテーブル、先生と、事代君が並んで座り、ドクトルはその向かい側に座る.
「私は、ホットコーヒー、事代もそれでいいね.君、何にする?」
どうやらここは先生の奢りらしい.
「え、なんでもいいのですか?じゃ、私は、チョコパフェ・・・」
「げ!!」と先生と、事代君は心の中で叫んでしまった.
(普通、恩師に喫茶店でご馳走になる時、なんでもいいから頼みな、と言われたからといって、いいおっさんがチョコレートパフェを頼むだろうか・・・・)先生と事代君の心の声はおそらくこんな感じだったのだろう.
「まあ、君の面白いところでもあるから・・・」
「は?」ドクトルは、先生の言っている意味などもちろんわからない.
長いスプーンでパフェのコーンフレークをすくって食べ終わった後、カップの底に残った、チョコを、綺麗に掬い取って舐めるように食べている.
「いやー、やっぱりチョコパ、いいですよね、いえ、大の男が、喫茶店に一人で入って、チョコレートパフェを食べるのって異様な光景じゃないですか、私、だから、連れのいない時には、食べられないのですよ・・・」
(いや、だからと言って、恩師の奢りで喫茶店に入った時にチョコパフェ食べるか?それはそれで、かなり異様な光景であることに彼は気が付いているのだろうか?)
「・・・・・」
呆気に取られて、先生と、事代君はドクトルが、チョコレートパフェを美味しそうに食べ、それを食べ終わるまでは何も話しかけることができないでいた.
「いやーやっぱり、一人でないところで食べるチョコパはいいですね・・・あ、すみません、先生も今度はいかがですか、ここはチョコレートパフェと、フルーツパフェの他にプリンパフェもあるんですよ・・・」
「ううん!」先生は少し咳払いをした.
「あ、先生、そうでしたね、お話ってなんですか」
口の周りのチョコをテーブルの上の紙で拭き取りながら、ドクトルが脳天気に訊ねる.
「いや、あの・・・あれ、事代、我々は何を話しに来たんだっけ?」
「いや、お父さん、あの、はるなのこと、お願いに・・・・」
「あ、そうそう、ドクトル君、実はね、私たち、一家、私と、息子二人と、娘で暮らしているんだが、事情があって、男3人が家を開けないとダメなことになってね」
楠本先生は穏やかに事情を説明する.しかし、本質的なこと、背後にどういう事情があるかはもちろん秘密である.
「それで、我々が留守の間に、娘のはるなのこと、ちょっと面倒見てもらいたいのだけど・・・」
ドクトルはというと、即座に
「ダメです.嫌です、そんな私には無理です.丁重にお断り申し上げます」
「いや、そう言わずに、娘じゃ不服かね.なんなら、娘を家ごと君にあげる、つまり嫁にもらってもらってもいい・・・」
「いや、だから、そういうことは困ります.絶対に無理です.」
「いや、そこをなんとか・・・・・」
「いえ、だから、娘さんをいただくことはできません.ましてや、お屋敷で娘さんと一緒に暮らすなど、私には訳があってできません!」
「じゃ、どうすればいいのかね!あの可愛い娘が、一人で家で寝ている時、強盗に押しいられたとする、彼女がどうなってもいいというのかね、君には義侠心というか、そのなんというか、そんなことを傍観できるような男だったのかね、見損なったよ!」
冷静にその発言内容を検討すると、なんかちょっとおかしいのだが、話している本人たちは、よくわからない.議事録を見て後から青くなる議員さんなんかはそんな気持ちになったりするのだろうか?
とにかく、こんな興奮して喋る先生を初めて見た、ドクトルはちょっと、態度を和らげた.
「いえ、私にも事情がありますから.でも、ご家族がお留守の間、職場で、それとなく、見守らせていただく、というのなら、なんとか・・・でも、結婚とか、ご一緒に一つ屋根の下で生活というのは、なんとかご容赦いただきたいのですが・・・」
「じゃ、先生、こういうのでどうでしょう、はるな、大学を出てから、父や祖父があまり外に出したがらないので、今は家のことだけをして無職なのですが、先生の病院で事務員かなんかで働かせていただいて、それとなく、監視というか、悪い虫がつかないようにというか・・・・」
さすが事代主神である.咄嗟に口から出まかせの妥協案がすらすらと口をついて出てくる.腕利きの外交官ならではの交渉術といって良い.もちろんドクトルがこう出ると予想はしていなかったから、想定問答集など、ない.
「なんだ、そういうことならお安い御用ですよ、外来の受付の事務員ちょうど病院で募集しているところでしたから.でも娘さん、嫌がるのじゃないでしょうか?箱入り娘なら尚のこと・・・」
「うーん、そういうこと、これまでに一度も娘と話したことはないけど・・」
「いや親父には、妹はあまり言わないからかもしれないのですが、はるなは外で仕事、したがってました」
「え、本当か?」
「はい.今日帰ったら、私から話してみますよ.ドクトル先生の病院で働いてみないか、ということを・・・・」
その夜、父と兄から、
「なあ、はるな、ドクトル先生の病院で、外来の受付事務の職員を募集しているみたいなのだが、どうだい?働いてみる気はあるかい」
「え、お父さん、いいの?外で働いてもいいの?やるやる、事務の仕事、ドクトル先生の病院!嬉しい!行く行く」
なんと一番乗り気なのは、「箱入り娘」本人だった.
病院の偉い先生との、面接試験は、あらかじめ、結論が決まっていた.
つまり、面接の前から、「採用」である.
こうして、
「セント・ミカエル病院 外来受付事務員 楠本はるな」
が誕生した.




